鹿の影、踏まない(奈良県奈良市)
影を避けて歩く奈良の一日。踏んだら告白ひとつ。ちりんと鳴る鈴に、心の重さが少し軽くなる。
奈良県奈良市。朝の空気は、古い紙の匂いがした。興福寺の五重塔の横で、鹿の首輪が小さく鳴る。ちりん。
売店の台に、鹿せんべいが山のように積まれている。私は一束を買った。
ぱき、と包装の紙を破る音。鹿の目が、いっせいにこちらを向く。
最初の一枚を差し出すと、あたたかい舌が指先に触れた。
「影を踏まないようにね」
背後で声がした。案内のボランティアらしい年配の女性が、笑っている。
「鹿の影を踏むたびに、ひとつだけ本当のことを言う。そういう遊びがあるの」
私はうなずいた。旅では、知らないルールをすぐ受け入れる方だ。
舗道に、木漏れ日の網が落ちている。鹿の影は、その上をゆっくり移動する。
踏まないように、私は足を運ぶ。左、右、すこし大股。
だけど、影は長くて、するりと足下に入り込む。
かさり。踏んだ。
「本当は、集合写真が苦手です」
言ってから、自分でもおかしくなって笑う。鹿が首を傾げた。
春日大社の参道へ入る。玉砂利が靴の底でさくさく鳴る。
また影が寄ってくる。
かさり。
「本当は、行くべきか行かないべきか、まだ決められないことがあります」
杉の幹がまっすぐで、言葉がどこかへ吸い込まれていくみたいだ。
もう一度、鹿せんべいを差し出す。ぱりぱり。鹿の目は、正直しか知らない目をしている。
猿沢池の水面が、風で細かく波打った。
池のふちに座ると、影が水にほどけていく。
私はそっと靴を脱いだ。足の裏が冷たい石を確かめる。
かさり。影を踏んだ代わりに、今度は小さく言う。
「本当は、ちゃんと断るのが怖いです」
言葉が水に落ちたような気がした。輪がいくつか広がって、消える。
昼を過ぎると、影は濃くなった。
東向商店街のアーケードから流れる、古い歌。
子どもが走り抜け、鹿がのそのそと道を譲る。
私は影の縁を縫うように歩く。
かさり。
「本当は、手紙をまだ読んでいません」
胸のポケットの内側が、すこしだけ熱くなる。
鹿は何も言わない。せんべいを噛む。ぱり。私はうなずいて、もう一枚渡す。
夕方、影が伸びた。奈良公園の芝の上で、影と影がつながっていく。
もう避けきれない。
私は立ち止まり、深く息をした。
かさり。
「本当は、ここに来てよかったです」
それは、この街に向けた言葉であり、今朝の自分に向けた返事でもあった。
鹿が一頭、近づいてきて、鼻先で私の手を押した。
あたたかい。重さは軽い。
夕焼けが五重塔の板の間を染める。
鈴の音が、遠くでひとつ鳴った。
私は売店で最後の一束を買い、残りをゆっくり配る。
ぱり。
「本当は、帰ったら手紙を読みます」
影は長い。けれど、まっすぐに伸びている。
踏まずに済む日も、踏まざるを得ない日もある。
どちらでも、前へ進む。
奈良駅へ戻る道すがら、足音が石畳に小さく跳ねた。
かさり、さく。
発車のメロディが鳴る頃、私はポケットの中の封筒の角を指でなぞった。
列車のドアが開き、風が通る。
私は乗り込む前に、振り返って一礼した。
鹿の影は、もう足元にはなかった。
でも、あの鈴のちりんだけが、耳のどこかに残っている。
——了——
又も参加してしまいました。よしまるさん、ありがとうございます。だって……
自分や誰かの文章を日々「朗読」し、それを生業にしている私。朗読「してもらう側」になりたいもん……ッ
よしまるさん、素敵な機会と企画を、重ね重ねありがとうございます。感謝。
