【エッセイ】残酷な天使のテーゼ
16世紀のカトリック教会では、
「女性は教会で沈黙すべし」
というパウロの教えが厳格に適用されていた。
そのため教会で、女性が聖歌を歌うことは禁じられていた。
それにより、高音域のパートは成人男性によるファルセットや変声期前の少年、いわゆるボーイソプラノが担っていた。
しかし、ファルセットやボーイソプラノには、それぞれ欠点があった。
ファルセットは裏声のため、大空間の最後列まで声を届けるには、音量が足りなかったり、表現力への不満があった。
ボーイソプラノでは、美しい高音はおおむね10~13歳頃までで、変声期を迎えると声が低くなり、第一線から退かねばならず、また音楽教育には多くの時間と費用がかかるため、コストパフォーマンスに見合ってなかったり、成人の体力がないため、大きな教会や劇場で、長いフレーズを力強く歌い続けるには不利であった。
そのため、時代が求めてしまった。
「少年のような高い声を、大人の体で持ち続ける歌手が欲しい」
その願望を叶えるため、時代は禁断の魔法を創造してしまったのである。
――「カストラート」を。
Son qual nave ch’agitata
(私は、まるで揺れ動く船のよう)
Da più scogli in mezzo all’onde
(いくつもの岩礁に波のただ中で)
Si confonde e spaventata
(迷い、そして怯えながら)
Va solcando in alto mar.
(大海原を切り進んでいく)
Ma in veder l’amato lido
(だが、愛する岸辺を見れば)
Lascia l’onde e il vento infido
(波と裏切りの風を捨て)
E va in porto a riposar.
(港へ行って、休息する)
一人の男が、大観衆の前で歌っていた。
「人というより天使が歌っているようだ」
「彼は、18世紀最高の歌手だ」
彼は、その実力を持ってして、多くの観衆を魅了した。
少年のように澄んだ高音、
成人男性の力強い響き、
人間離れした超絶技巧。
全てを兼ね備えていた。
その美声を聞いた女性たちは、次々と失神し、喝采の拍手はいつまでも鳴り止まなかった。
彼の名は、”ファリネッリ”。
史上最高のカストラートだ。
「Son qual nave」は、1734年にロンドンのリンカンズ・イン・フィールズ劇場で上演されたオペラ《Artaserse》のために、兄リカルド・ブロスキが伝説的カストラート、ファリネッリの超絶技巧を披露するために作曲したアリアである。
「Son qual nave」は、神に挑戦したかのような楽曲であり、その魅力を最大限に引き出したのは、後にも先にもファリネッリだけである。
しかし、彼は人気絶頂の最中、劇場から姿を消した。
その名声を聞いたスペイン王妃 エリザベート・ファルネーゼは、
「ファリネッリの歌声なら王を救えるかもしれない」
と考え、彼をスペイン宮廷へ招いたからだった。
スペイン王フィリップ5世は重い憂鬱状態にあり、政務もままならないほどであった。
ファリネッリは10年近くもの間、毎晩ほぼ同じ数曲を王の前で歌い続けた。
やがて、王の気分は次第に改善していき、彼はそのまま宮廷音楽家として仕えた。
そして、オペラの舞台に、彼が戻ることはなかった。
史上最高のカストラートが選んだ最後の舞台は、オペラ劇場ではなく、一人の王の心を癒やす宮廷だったのである。
ファリネッリ以降も、多くのカストラートが誕生し、観衆を魅了したが、伝説となったのは、
ファリネッリだけであった。
ローマを中心に広まっていった”カストラート”も、やがて時代は求めなくなり、切り捨ててしまった。
その理由は残酷であったからである。
”カストラート”は、奇跡的な存在でありながら、同時に時代の歪んだ欲望が生んだ象徴的存在でもあった。
カストラートを誕生させるためには、ある施術が必要であった。
「去勢」である。
変声する前の少年たちを「去勢」する必要があったのである。
当時、カストラートは「富」と「名声」の象徴であり、貧困家庭の少年たちにとって、カストラートになることは、
一種の「立身出世」の道
でもあった。
成功すれば宮廷や歌劇場で莫大な報酬を得られる可能性があり、家族が積極的に選択するケースも少なくなかったのである。
しかし、去勢したからといって、必ずしも成功が約束されていたわけでもなかった。
施術で命を落とす者も多く、後遺症にも悩まされる。
さらには、施術に成功しても、各個人の音楽的才能、肺の容量といった体格面での才能がないと、一流のカストラートとして認められなかったのである。
長期間の厳しいレッスンにも耐えなければならず、才能のない者は、容赦なく切り捨てられ、細々と生きていくしかなかった。
1796からのナポレオンのイタリア遠征により、フランス革命がもたらした「個人の権利」の思想が広まっていった。
そして、人びとの中で、
「子どもへの身体的侵害」
という倫理的批判が高まっていった。
加えて、オペラの様式変化も重なり、テノールが英雄的主役を担うようになった。
その結果、カストラートの音楽的需要自体が急速に失われていったのである。
1870年、ローマ教皇庁がカストラートの新規採用を正式に禁止し、1902年には、バチカンのシスティーナ礼拝堂が完全にカストラートの採用を停止したことで、カストラートの歴史は終焉へと向かっていったのである。
アレッサンドロ・モレスキ
彼は、バチカンのシスティーナ礼拝堂聖歌隊に1883年に加わり、長らくソプラノ・カストラートとして活躍した。
「ローマの天使」とも称され、人気を博していた。
しかし、時代は彼を否定するかのように流れ、最後のカストラートにしてしまった。
今後、カストラートを生んではいけないと思うが、時代がカストラートを否定していく中で、彼はどのようにそれを受け取っていたのだろうか?
カストラートとは、彼にとって人生そのものであり、社会との接続でもあったと思う。
カストラートの終焉を見届けた彼を思うと、私は胸が痛む。
少年よ、神話になれ。
1900年代初頭に録音された、アレッサンドロ・モレスキの歌声です。
当時の録音技術はまだ未熟であり、しかも全盛期を過ぎてからの録音とされるため、本来の歌声を完全に伝えているわけではありません。
それでも、その歌声にはどこか妖艶で、不思議な響きがあります。
これは、現在まで残る唯一のカストラート本人の録音です。
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