性格とは何なのか?——生きたゆらぎとラベリング
性格とは何なのだろうか?
私は、人の性格というのは、場面場面で違うと思っている。
職場での自分、
親といるときの自分、
友達といるときの自分、
恋人といるときの自分。
ほとんどの人が、すべての場面で違うだろう。
職場では「責任」「評価」「役割」が前面に出る。
→ 理性的・防御的・効率重視
親の前では、子供時代の記憶や役割が再起動する。
→ 甘え・反発・依存・無力感が出やすい
友達の前では、横の関係性になる。
→ 遊び・ユーモア・素の感覚
恋人の前では、承認欲求や愛着が強く動く。
→ 優しさ・嫉妬・不安・独占欲
これらは、虚像なのだろうか?
否、違う。
すべて、本物の自分である。
性格とは、固定されているものではなく、流動的なものなのである。
私は、以前働いていた職場で、ゴミが落ちていたから、ゴミを拾った。すると、職場の先輩に
「ゴミ、拾ったりするんだ」
と驚かれたことがある。
(ゴミぐらい拾うがな)
と、ちょっとイラッとしたのを覚えている。
家でゴミを拾っても、家族にそんなことを言われることはない。
なぜ、職場の先輩は、そんなことを言ったのか?
それは、
先輩は、私に対して、”ゴミを拾う奴ではない”とラベリングしていたが、実際には、”ゴミを拾った”ことで、予想外の情報が入り込んでしまった。そして、それが驚きとなり、つい口から出てしまったのが、
「ゴミ、拾ったりするんだ」
である。
つまり、性格とは、
他者が貼ったラベルに過ぎないのである。
人は、他人のすべてを見ている訳ではない。
その人の一部分を見て、
この人は、優しい性格だ。
この人は、真面目な性格だ。
この人は、怒りっぽい性格だ。
この人は、ずさんな性格だ。
この人は、明るい性格だ。
などと、その人の一部分だけを見て、その人をラベリングしてしまう。
実際にはもっと複雑に見ているが、
それは、以前に書いた「十界から読み解く人間の性格」で詳しく書いているので、そちらを参照していただくとありがたい。
そして、ラベルを貼られた側は、不思議なことに、その枠からはみ出さないように気をつけてしまう。
それは、まるで催眠術のようである。
しかし、これは、社会的に必要な機能なのだと思う。
ラベルを貼った側は、単純化することで安心し、ラベルを貼られた側は、それに従うことで周りとの摩擦を防ごうとしている。
つまりラベリングは、
認知コストの削減、
集団安定化、
対人予測の簡略化、
の機能を持っている。
逆に、「本当の自分は一つだけ」という考え方の方が、むしろ近代的な幻想なのではないだろうか?
言い換えれば、ラベリングは、社会の潤滑油である。
しかし、ラベリングが強すぎると、ラベルを貼られた側は、無理して、自分をその枠に当てはめようとするため、結果、強いストレスを受け、精神的疾患の要因にもなり得る。
ここでもう一度、
性格とは何なのだろうか?
と、問を立ててみる。
突然だが、私は、病院の検査室で働いている。
検査室に置いてある本に、こんなことが書いてあった。
「臨床検査の対象となる生体の変化はファジー(fuzzy)なものであり、無生物の剛体を計測するのとは根本的に異なる。
生体の特徴は、ホメオスタシスとゆらぎの二面を兼ね備えていることにある。すなわち、生体は常にゆらいでいるが、そのゆらぎは一定範囲内にあり恒常性を維持している。すなわち、生きたヒヨコの体長を計測するのにたとえることができる。ヒヨコは常に動いているので、1mm単位まで測ることは困難で、目盛りの粗い物差しで迅速に測らなければならない。また、豊富な羽毛で覆われているので、どこまでが「真の体」なのか定かではないし、そよぐ風によっても羽毛が動いている。しかし、死体について羽毛を剥ぎとってみると「実体」は存在し、体の大きさがより正確に計測できる。」(臨床検査データブック2023-2024:医学書院より)
いろいろと難しいことを書いているが、要約すると、
「生体(生きている体)というのは、一定範囲内でゆらいでいる。検査値というのは、そのゆらぎの中の一瞬を捉えた値であり、それは生きているヒヨコの体長を計測するようなものだ。」
というようなことを言っているのである。
これは、性格にも当てはまるだろう。
ヒヨコが動くのは、本人の状態の変化に言い換えられる。
⇨ 人間も、その日の体調、気分の浮き沈み、あるいは年齢や経験を重ねることで、内面が常に変化し、動き続ける。
風が吹いて羽毛がそよぐことは、環境や他者との相互作用に言い換えられる。
⇨ 私たちは真空の中で生きているわけではない。置かれた環境、対面している相手、社会的なプレッシャーという「風」によって、表面的な振る舞いや反応(羽毛)はいくらでも形を変える。
羽毛自体が体本体ではないことは、ペルソナと本質の境界に言い換えられる。
⇨ 他者に見せている社会的な顔(ペルソナ)や、言葉の綾、その場のノリは、その人の「中心にある本質」そのものではない。しかし、私たちは衣服や羽毛の上からしか、その人を観察することが出来ない。
つまり、
“性格や人格とは、生きたゆらぎを社会が固定化した像である”
と言えるのである。
そして、本来ゆらいでいる感情や人格を、社会が強く固定化しすぎると、人は複数の人格を使い分けるようになる。
あるいは、その断裂が極端になった先に、解離や多重人格のような状態が存在するのかもしれない。
ここで重要なのは、ラベリングは他者だけが行うものではない、という点である。
私は、ラベリングには二種類あると考える。
それは、外界ラベリングと内界ラベリングだ。
外界ラベリングは、これまで話してきたラベリングのことである。
外界ラベリング:
他者が“粗い物差し”で測る。
特徴
一部の行動だけで性格を決めつける
認知コストを下げるために単純化する
集団の摩擦を減らすために役割を固定する
その結果、貼られた側も枠に合わせてしまう
つまり、
外界ラベリングは“社会の都合”で性格を固定する力。
内界ラベリング:
自分を守るために自分にラベルを貼る。
人は、他者の極端な期待や極端な環境の圧力を取り込んで、
「私は優しくないといけない」
「怒ってはいけない」
「弱さを見せてはいけない」
「明るく振る舞わないと嫌われる」
と、自分自身にラベルを貼る。
言わば、自己防衛的ラベリングだ。
特徴は、
外界の期待を“自分の性格”として取り込む
本来のゆらぎを抑圧する
役割人格が“本体”のように感じられてくる
本来のゆらぎとの間にズレが生じ、内面に歪みや緊張が蓄積していく
つまり、
内界ラベリングは“生き延びるための戦略”として性格を固定する力。
もちろん、多重人格というのは、そんな単純なものではないだろうが、強すぎるラベリングが影響している可能性もあるのではないか、と私は考える。
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