なぜ先生にはできるのに、受講生にはできないのか?
優れた理論や技術に触れると、私たちは、その説明そのものに強く惹かれます。
抽象度を上げること。現状の外側にゴールを置くこと。エフィカシーを高めること。情報空間を書き換えること。気功技術を発火すること。
こうした考え方によって、今まで見えなかった選択肢に気づいたり、身体の余計な緊張が抜けたりすることはあるでしょう。
だから私は、苫米地英人氏の理論や現代気功を否定したいわけではありません。むしろ、そこから学べることは多いと思っていますし、受講生としても発信者としても現代気功を学び、実践してきています。
ただ、再現性を考えるときには、どうしても見落としてはいけないことがあります。
それは、講師本人が持っている、説明されていない前提条件です。
講師本人にはできる。優秀な弟子の一部にもできる。ところが、一般の受講者が同じ言葉と手順を覚えても、同じ結果が出るとは限りません。
なぜなら、講師が実際に使っているものは、表に出ている理論や技術だけではないからです。
ここ、めちゃくちゃ大事!!
たとえば、長年ダンスや武道を経験してきた人が、「力で身体を動かすのではなく、空間の情報を書き換えれば自然に動ける」と説明したとします。
その言葉によって余計な力が抜け、動きやすくなる人はいるかもしれません。
しかし、説明している本人の身体には、すでに長年の武道やダンスの訓練、経験が入っています。
足裏で床を捉える感覚や重心移動、姿勢制御、体幹を保ちながら手足を動かす能力、相手との距離やタイミングを読む感覚、動きを見ただけで細かな違いを修正する能力。
本人にとってはあまりにも自然で、いまさら意識する必要すらない能力かもしれません。
けれど、初心者の身体には、その土台がありません。
それにもかかわらず、結果が出ない理由を、「エフィカシーが低い」「技術の発火が弱い」「ゴール設定が甘い」「無意識が抵抗している」と説明することはできます。
もちろん、心理的な抵抗や自己評価が影響する場合もあるでしょう。
しかし、本当の理由はもっと単純かもしれません。
必要な身体技能や練習量が、まだ足りていない。ただそれだけかもしれないのです。
これは、苫米地理論についても同じように考えることができます。
苫米地氏の現在の知的能力や言語化能力、独自の視点は、理論だけによって作られたものではないはずです。
そこには、幼少期からの教育環境、語学力、数学や計算機科学の訓練、海外での研究経験、多くの専門分野に触れてきた経験、社会的なつながり、武道や身体技法への関心、長年にわたる大量の読書と思考と発信があります。
そうした長い履歴が積み重なって、現在の能力が形成されています。
それらをすべて横に置いて、「現状の外側にゴールを設定したから」「抽象度を上げたから」「エフィカシーを高めたから」とだけ説明すれば、成功要因の一部だけを切り取ることになります。
もちろん、ゴール設定や抽象的思考が役立たないという話ではありません。
視野を広げたり、思い込みを弱めたり、今までとは違う方法に気づいたりする働きは十分にあるでしょう。
ただ、それだけで本人の能力のすべてが作られたわけではありません。
理論が能力を生み出したのか。それとも、もともと高い能力と豊富な経験を持つ人が、自分の思考や実践を理論として整理したのか。
卵が先か、鶏が先かに似ていますが笑、おそらく実際には、その両方が重なっていると思います。
これは整体や気功でも同じです。
長年臨床をしてきた人が新しい技法を作り、その技法によって患者の身体が変化したとします。
しかし、実際に結果を生んでいるのは、その技法だけではありません。
解剖学や運動学の知識、触診能力、相手の防御反応を読む力、検査の順序、触れる強さ、声のかけ方、施術者自身の身体の安定、これまでの臨床経験から生まれる予測。
そうした多くの要素が重なって、結果が出ています。
それなのに、「この技術を発火したから変わった」とだけ説明すれば、受講生は技術名と手順さえ覚えれば、同じ結果を再現できると思ってしまいます。
しかし実際には、技法の背後にある身体知や観察力が育っていなければ、同じ結果は出ません。
これは、その技術が嘘だということではありません。
技術が成立するための条件が、十分に説明されていないということです。
優れた人ほど、自分が無意識に使っている能力を、すべて言葉にできるとは限りませんし、その人にとって今は必要のない能力が、受講生にとっては気功技術より必須だったりするのです。
長年かけて身につけた感覚は、本人にとって自然すぎるから、今更感もありますし、優れた講師のスコトーマでしょう。
熟練者は相手の姿勢、呼吸、筋緊張、表情、声の変化、重心、触れた瞬間の反応などを、一瞬で読み取っているかもしれません。
しかし本人は、その複雑な処理を「気を読んだ」「情報を受け取った」「無意識を書き換えた」と表現することがあります。
その表現が間違いだと断定する必要はありません。
ただ、その言葉の背後では、長年の経験によって育った観察力や身体感覚が働いている可能性があります。
だから、学ぶ側が結果を出せないときに、すぐ自分を責める必要はありません。
エフィカシーが低いからでも、無意識が抵抗しているからでも、才能がないからでもなく、単に基礎が足りないのかもしれません。
身体感覚がまだ育っていないのかもしれない。観察する量や練習する時間が足りないのかもしれない。知識と実践が、まだ十分に結びついていないのかもしれません。
本当に再現性のある体系にするなら、理論や技法だけでは足りません。
どのような基礎が必要なのか。何をどの順番で練習するのか。初心者と熟練者では何が違うのか。どこまでが一般化でき、どこからが個人の経験や才能に依存するのか。
そこまで明らかにする必要があります。
理論を否定する必要はありません。
技術を神格化する必要もありません。
必要なのは、理論そのものの力と、それを使いこなしている本人の下地を分けて考えることです。
そして、今まで見えなかった前提条件を、一つずつ言葉にし、訓練できる形へ落としていくこと。
そこまでできて初めて、優れた個人の技術が、他の人にも渡せる体系になるのだと思います。
