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【アンサー】子どもの勉強を見るようになった理由

先日、妻の記事にこうあった。
「それまで夫は、子どもの勉強には全くノータッチ。口を出すことも関心を示すこともなかった。でも、ある日を境にまるで無言の圧力のように『勉強は俺が見る』という空気を感じた。」
こうなったのには、私なりの理由や考えがあった。それを妻へのアンサーとして書こうと思う。

幼少期の経験

私は物心がついたときから、母親に積まれたテキストを解いていた。自分の意志とは無関係に。目的も意味も知らされないまま。大判の封筒に入っていた、表紙が緑のテキスト。強烈すぎて今でも覚えている。一体どこで買っていたのやら。書店ではないだろう。泣きながらやってたこともあったように思う。これが小学校高学年まで続いた。

小学校5年になると平日、近所の塾へ行き、小学校6年になると平日はそのまま、土日で全国区の有名塾へ行くようになった。そんなことをやっていた、やらされていたので、小学校の小テスト、定期テストレベルでは困ったことはなかった。間違えるはずもない。無双である。

ただ私はそれを「異常」とも思っていたので、我が子にはそうすまいと考えていた。また、私が自分の子どもに教えると、自分の経験からどうせ厳しくなってしまう。だから中学校入学前までは妻に任せて、後は地元の塾へ入ればいいか、高校受験でも全力出してほしくないし、そこまでは省エネで、その代わり口も出さない、と決めていた。小さいうちから死ぬ気で頑張ったところで、私みたいに些細なきっかけで燃え尽きて終わることだってあるからだ。

転機

いつだったか忘れたが、子どもの小学校の算数テストを何気なく見た時、「ん?」と思ったことがあった。点数よりも『ダメな間違い方』をしていたことが気になったからだ。

普通の小学校の算数で、最初に躓くのは食塩水と時速や距離、追い越す、すれ違う、の単元だと思っている。「濃度の違う2つの食塩水を空のコップに~」「池の周りを2人が反対方向に~」のアレである。

これらの単元は無限とも思えるほどのパターンがある為、単なるパターン暗記ではなく、根本的な数学的なアプローチや、自分で簡易的な図を書いて、状態が変化する様を文章から読み取る力が重要な単元という認識があった。今にして思えば、ここを超えられるか超えられないかで、算数、延いては勉強に対する得意/苦手の分かれ目と言っても過言ではないと、私は認識していたのかもしれない。

子どもはこの単元のテストが、計算間違いならともかく、空欄だったり、見当違いのことを書いていたのだ。つまり内容が全く読み取れていなかったのだ。そして妻がどう教えるのか、説明を聞いたとき「あっ、そうじゃない。ダメかも知れない」と直感的に感じたのを覚えている。

口を出さないと決めていたので私も悩んだのだが、ここを見過ごしては、この先、私が口を出してしまうかも、と判断して、それ以降、私が教えようと思ったのだ。それからというもの、算数以外の他も科目も見るようになった。

中学受験

私も妻も中学受験未経験なので、子どもに中学受験の選択肢など皆無だった。でも、妻と子どもがたまたま行った私立中学のオープンキャンパスで子どもが気に入ってしまい「ここに行きたい」と言いだしたことで我が家の中学受験がスタートした。

その時は既に私が教えていたので、子どもの学力レベルは把握していた。
ところが中学受験の過去問を見てそのレベルの高さ、現状の子どもの学力との差に愕然とした。考える余地もなく「無理だ」と判断できた。
そこから大きめのホワイトボードと黒板を買い、土日は本格的に授業形式で教える塾スタイルを取っていた。時には半日くらい授業をしていたこともあった。子どもも大変だったと思うが、私は私で土日にそこまでガチで教える為には、平日に過去問を見ながら予習をして、子どもと入試の実力差を埋めるような資料を作成する必要があった。その時間を確保するために趣味で月1、2でやっていたゴルフを止めたのはこの頃だ。平日の練習も行かなくなった。

その結果かどうかは判らないが、無事行きたかった私立中学へ合格して報われた。結局、私は中学卒業まで勉強を見ていた。

誰が教えるかより、大切なこと

子どもの勉強は夫婦のどちらが教えるのがいいのか。母親が多数派なのだろうが、教える自信がある方が教えればいいと思う。どちらも教える自信がなければお金を払ってプロにお願いすればいい。それだけだと思う。誰が教えるから偉いとかは無い。

ただプロに任せる場合、親がノータッチは良くないと思う。私は例えば中学受験で少しだけ通った塾の夏期講習でテキストをもらったとき、子どもより先に、まず私が全部ノートに解説付きで解いて、回答冊子を作った。回答がないテキストだったので、その方が予習が捗ると思ったからだ。定期テストで間違えた問題は私が解いた後、子どもに何処を間違えたのかを復習として説明させていた。間違えた問題をそのままにしておくのは無意味と言うことを教えていたつもりだ。

子どもが塾で学んだこと、解いた問題、間違えた問題を眺めて、子どもと一緒に解くくらいの気概は欲しいと思うし、私はそうしてきた。親が子どもの成績に対して、小言の1つも言いたいのであれば、まず自分が出来ることを見せることが重要だと思っていた。口だけの親にはなりたくなかったし、それが責任と信頼だと考えていた。

その関係性が、我が家では当たり前になっていて、勉強で子どもだけを置き去りにしない、家族で向き合うようにしてきたし、それが大学受験で集大成になって結果を出してくれたのだと思う。

最後に

私が子どもの勉強を見るようになったのは、「ある日を境に」ではない。
小学校の算数のテストを見て、「このままではダメかもしれない」と感じた瞬間からだ。それは父親としての責任感だったのかもしれないし、自分の幼少期の経験からくる危機感だったのかもしれない。
でも結果的に、それが我が家のスタイルになった。
子どもの勉強を見る。
一緒に問題を解く。
一緒に悩む。
それが、我が家の「普通」になった。
この記事が、子どもの勉強にどう関わればいいか悩んでいる親御さんの何かヒントになれば嬉しい。


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太楼@偏差値45から医学部・難関大へ導く伴走 最後までお読みいただきありがとうございます。