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行き過ぎた教育熱 「教育虐待」について考える

「教育虐待」という言葉を、私はつい最近まで知らなかった。検索してみると、親が子どもに過度な教育的プレッシャーをかけ、子どもの意向や心身の発達を無視して、自分の理想や目標を押し付けることによって生じる心理的・身体的な虐待、とある。そして、単なる「教育熱心」とは異なり、子どもの健やかな成長を阻害し、傷つける行き過ぎた行為を指す、と続いていた。この「教育熱心とは異なり」の部分に、私は何とも言えない違和感のようなものを感じた。両者の境界線は、誰にも引けないのではないか。紙一重という言葉では足りないほど、曖昧で危ういと怖さを感じた。

厚生労働省の統計によれば、2023年度に児童相談所が対応した虐待のうち、心理的虐待が59.8%を占めているという。なかには「勉強を強要する」「できないことを罵倒する」といったケースも含まれる。暴力やネグレクトと決定的に違うのは、教育虐待は親が子を思い「良かれと思って」行われることだ。

「あなたのため」

この言葉が、どれほど重く子どもにのしかかるか。

中学受験を例に考えてみる。成長途上の小学生が、なぜ中学受験をするのか。親がその理由をきちんと説明し、子どもなりに納得していなければ、それは「親にやらされている」という感覚に直結する。ただ、厄介なのは、その「やらされている」という感覚を持ちながらも「そういうものだ」と受け入れて進んでいく子どもも、きっと少なくないということだ。それでも結果が出ているうちはまだしも、そうでないとき子どもがこれまでのことに疑問を感じるのではないか。しかも家庭という閉ざされた空間で起きるから、表面化しにくい。

今にして思えば、私も子どもの頃、親から似たような教育熱を受けていたように思う。ただ決定的に違ったのは、「将来、○○にならなければいけない」「△△高校、大学じゃないとダメだ」とまでは言われなかったことだろう。「勉強しろ」とは言われたし、それに従ってもいた。けれど「いいところへ行くために」「将来困らないように」という、ぼんやりした目標だったことが、実は私を救ったのかもしれない。それでも私がイヤな思いをしたことに変わりはないので、私の子どもには全部説明し、話し合ってきたし、選択肢を与えるけど、全て子どもに決定をさせてきた。「母という呪縛 娘という牢獄」という有名なノンフィクションの本がある。そこに描かれた世界は極端だと感じた。けれど同時に、程度の差はあれ、思い当たる親も子も、決して少なくないのではないかとも思った。

子どもの将来を思うからこそ、親は必死になる。それは理解できる。けれど忘れてはいけないのは、子どもの人生は、子ども自身のものだということだ。その境界線を見失ったとき、愛情が愛情ではなくなるということかもしれない。

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太楼@偏差値45から医学部・難関大へ導く伴走 最後までお読みいただきありがとうございます。