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【創作】黒田製作所物語 第9話 承継

 二十世紀初頭に十万頭が生息していたといわれるトラは、2020年には約4000頭前後にまで減少しているという。絶滅危惧種として世界的な保護活動が行われているものの、漢方薬の材料にすることを目的とした密猟や大規模な生息環境の破壊に、今もその命を脅かされている。
 昭和という時代を駆け抜けた虎一は、平成を迎えることなく天へと駆けた。平成という時代に経済のグローバリゼーションが大きく進行し、国内・地場産業を中心にしてきた日本の中小企業は、これまでの経営手法だけでは生き残ることが厳しい環境を迎えていた。

 虎一が遺した黒田製作所は、専務の和美が社長に昇格し事業を引き継いだ。虎一が育てた職人集団は「技術の黒田」の名を汚すことなく、地域や産業界への貢献を続けた。しかし虎一がいないまま会社を継続できるのかという、漠然とした不安を社員が抱き始めたことも事実であった。

 社外取締役である美希は、この時期は帰省する度に会社に立ち寄り、経理関係の書類を中心に会社の概況に目を通すのが慣例となっていた。その際に和美が
「私は早く引退したい、美希に継いで欲しい」
 と語る度に
「お父さんとお母さんの会社だけど私は継がないわよ。柳沼常務が社長になるのが自然だし、会社のためにも一番良いと思うの」
 と偽りない気持ちで応えることが恒例となっていた。

 自他ともに認める虎一の一番弟子であり工場長でもある黒田製作所の大番頭、創業期から黒田製作所とともにあった柳沼常務。若き日は技術者として虎一を支え、和美が社長に就任してからは経営面でも支え続けてきた。技術もあり経営もわかり取引先にも顔が利く。若い時には他社からの引き抜きの話もあったと聞くが、黒田製作所一筋に生きてきた職人である。
(柳沼常務も、次の社長になりたいと考えているはず)
 美希が会議室で書類に目を通しながら会社の行く末を考えていたタイミングで、ノックの音がして当の柳沼がニつの珈琲カップを乗せたお盆とともに入室してきた。柳沼はカップを美希の前に置き、正面の椅子に腰を降ろした。
「お嬢、少し話をしても良いですか」
 カップが二個なのだから、最初から話をするつもりで来たのだろうと感じながら美希は頷いた。
「将棋界とかでは『内弟子』なんて制度がありまして、師匠の世話はさせるものの将棋を教えない方もいたそうです。けど、通いの外弟子よりも内弟子の方が強かったそうです」
(柳沼常務はお母さんの意を受けて、私に社長就任を要請するために来たのかも知れない。けど、それとこれは違うでしょう)
 という言葉を飲み込んだ。
 将棋を打つ棋士の方とは違い、自分に溶接技術は全く無いし、経営について正面から向き合う経験をしてきた訳でもない。父母と一緒に暮らしていた期間よりも家を出た期間の方が長くなっている。社長が務まる訳がない。そんな美希の気持ちを察しているのかいないのか柳沼は続けた。
「私は、先代社長と現社長と三人で会社を守ってきたという自負はあります。ですが守るだけでは、勝つことができないのです。会社の未来を描けないのです」
 美希は柳沼の視線から逃げるように、壁に掲げられている経営理念の額に視線を移した。威風たる墨書に身が引き締まる思いがした。柳沼も同じように視線を移す。

『顧客第一主義』

「うまく言えませんが、今の若い社員は『顧客』というのを『金を払う取引先』と考えているようです。けどそれは違う気がします。師匠や社長たちの『顧客』というのは、社員であり協力企業であり、地域の方であり、極端な話、自分以外の全てを『顧客』として大事にしていました。
 そこをちゃんと理解しないと黒田の仕事にならないのです。残念ながら、自分はそこを伝えきれてない気がします。けど、黒田の娘であるお嬢なら、社長たちの、師匠の真意を継いでいただける気がします。だから」
 柳沼が言葉を飲み込み、壁掛け時計の秒針が時を刻む音が静かに響いた。
(柳沼常務が私に社長就任を望むのは、母に頼まれたからではなく技術とか経営なんかの理屈を超えて、黒田製作所が未来へ進むための理念を託したいと考えているからなのかもしれない)
 そう考えた美希は柳沼に向き直り、少し冷めたカップを口に運んだ。
(苦い)
 この武骨な男が自ら淹れたのだろうか。仕事はそつなくこなすし、実直な経営をする男が、戸惑いながら小さな珈琲カップに向き合う姿を思い浮かべると、心が緩んだ。
「お嬢じゃなく、社長って呼んでくれる」
「当たり前ですよ」
「一緒に、働いてくれる」
「もちろんですよ」
「厳しいこと、言うかもよ」
「知っていますよ」
「夫がいる女性を口説くなんて、悪い男ね」
「師匠譲りですよ」
 破顔一笑、会議室に大きな笑顔の花が二輪咲いた。

 父は喜んでくれるだろうか。他の社員はどう受け止めるのだろうか。
 美希はもう一度、経営理念を見上げた。
(顧客の笑顔のために自分ができる精一杯のことに挑戦する。道は険しく難しいかもだけど、それを「面白い」と楽しむことが、黒田の行く道なのかな、お父さん。看護師でいたら、安寧な日々を送れると思うけれど。看護師は他にも資格がある人がいるけど、黒田の精神を継ぐ資格がある人は他にはいないよね)
 美希は立ち上がり、柳沼に深々と頭を下げた。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
 柳沼も立ち上がり、深々と頭を下げた。
「師匠はお嬢に会社を継がせたいとずっと願っていました。それは弟子である私の願いでもありましす。ようやく、ようやく弟子として、荷を降ろして師匠に恩返しができます。ありがとうございます」
 顔を上げた美希は、笑いながら伝えた。
「恩返しは、まだまだこれからですよ。厳しいようですけど、まだまだ返して貰うわよ」
 柳沼も母も、まだまだ引退させる訳には行かない。もっと顧客のために頑張らなきゃ。
 美希の胸に熱いものが沸々と沸き上がっていた。
(第9話 おわり)

第1話

#創作大賞2025
#お仕事小説部門

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