「わたし」が感じる、快とか不快は、意識?物語?
『「わたし」が死ぬということの哲学/兼本浩祐/114』(ちくまプリマ―新書)の1冊を読んだのでメモ。本の中のバラバラな不快に哲学をみる。
「わたし」が感じる、快とか不快は意識なのだろうか。物語なのだろうか。そんなことを素人頭脳は考えた。
出会いの意味を考える
本書のアリとアブラムシの関係の話。互いの共生の関係には目的と理由がある。アリはアブラムシから甘露をもらう。アリはアブラムシの天敵を追い払う。互いが道具として拡張された身体とすると、アリもアブラムシもお互いの一部分と考えるのもあり。
正岡子規の『病牀六尺』の話では「写生」と「理想」を比べて、「写生」は深く味わえば「変化が多く趣味が深い」という。「理想」による作品は退屈で陳腐なものになりがちと。子規の観察眼は病床であることの身のまわりから「平気で生きること」にたどり着いたか、それが悟りのよう。
つまり本質とは、最初から何か上からあらかじめ定義されてしまっているような「理想」ではなくて、刻々とそこに実際に存在する森羅万象の照り返しを受けて、揺れ動くような何かとして捉えられているということです。
森羅万象、この世に見えるもの(感じるものも)すべて観察できるもの。観察は客観的。「平気で生きること」につながると思う。
毎日、何かしらに出会っている。
「わたし」と「わたしたち」
群れで生きてきた(生きていく)人間も「わたし」が死んでも「わたしたち」は死なない、ということでの考えがあるという。
「わたし」の体の細胞と外の境界はあるように思うけれど、「わたし」は「わたしじゃないもの」と無縁ではいられない。
細胞の物質同士の関係は宇宙のどこまでものようだ。実の目には小さなものも大きなものも見えない。むずかしいのでデカルトの『我思う、ゆえに我あり』、この言葉でギブアップ。
日本人的な思いかもしれない魂のゆくえ。「わたし」の祖父母や祖先が見てきた人生の明暗を知れば影響される。それが事実かどうかもわからない、脚色の入った物語かもしれない。それも「わたし」の体験となり「わたし」の細胞に取り込まれるような感覚となる。
私はつながりの中で「わたしじゃないもの」と共存している。
ホモ・サケル(「聖なる人間」)?
ホモ・サケル。「剝き出しの生」。これを2度3度読み返して、なんとなくの理解だった。戦後の詩人の石原吉郎の話はシベリア抑留の体験。強制された日常を想像する。生き残ることは動物的か。「剥き出しの生」に晒された体験は、のちに自分も家族にも影響し苦悩となる。戦争は嫌だ。
わたしたちは人間的である限り、激しく羞恥するに違いありません。そしてその羞恥とは当然、そこに臨在しているはずの他者のまなざしに対しての羞恥です。そして羞恥することによって、裸を晒し、あるいは排泄する姿を晒しながら、わたしたちはそれでも人間的であり続けます。
ホモ・サケルになるかならないかは不可抗力。「わたし」が置かれた環境にもよるのだろう。それがすごく怖いことと思う。他人の目に映る自分が怖いという意味で。
知るという体験は、他者への思いやりを育むように思う。だけど思考の深追いは息苦しい。赦しはないかもしれない。だけど過去を責め立てるのではなく、苦悩を共有する。それが平和への祈り。
「エンディングの感覚」を味わう
哲学者のポール・リクールの物語論。スジ(物事の道理)のつながりが次々に起こるバラバラの出来事をまとまりあるひとつの構想へと変化させるときに、わたしたちは「エンディングの感覚」を味わうという。
「死ぬこと」=完結する。自分の人生の意味を起承転結をもって説明可能なものにすること。
不安から逃れるためかもしれない。それを物語で説明する→納得させる、みたいなものかもしれない。意識的に自分史をつくりたいのだ。「わたし」と「わたしたち」は物語を組み立て続ける。生きていくことを足掻いているから。
結論も完結もないとして「わたし」は「人間だもの」。そう言いたい。もう何を言いたいのかわからない。脳内にネバーエンディング・ストーリーの曲が流れはじめた、なつかしい。
