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フォトスポットと遺書の狭間で

歴史というものは、時に遠く感じられる。
お城など数百年前に建てられた建造物を見学するとき、
それは遠い昔の物語のように、
一歩引いたところから客観的に眺めてしまう。

大和ミュージアムの展示室に足を踏み入れたとき、
その感覚は根底から覆された。
ここに並んでいるのは、
完全に「今」の地続きにある歴史だった。

特に胸が詰まったのは、直筆の遺書や遺品の数々だ。
そこに並ぶ文字の筆跡や言葉遣いは、
今の私たちと何も変わらない。
書かれていたのは、
ひたすらに遺される家族や大切な人を気遣う言葉だった。

自分の命はもうここで諦めている。
それなのに、絶望の淵で「来世でも一緒に」と
未来に祈りを託しているのだ。
そのあまりの健気さと理不尽さに、
胸が締め付けられる。

彼らは、遠い昔の物語の登場人物ではない。
私たちと全く同じ人間だった。

人間魚雷「回天」の等身大の展示の前では、
ただ絶句するしかなかった。
こんな狭い砲弾の中に人間を詰め込んで放つという狂気。
その暗く冷たい金属の筒の中に
ひざを抱えるようにして収まり、
二度と開かないハッチの内側で
じっとその時を待っていた若者の孤独を想像すると、
息が止まりそうになる。

その隣に展示された零戦についても、
極限まで無駄を削ぎ落としたその機能美に圧倒されつつ、
それが作られた目的や背景、
そしてすぐ隣にある遺書を思えば、
軽々しく「かっこいい」とはとても言えなかった。

思い出す今でも胸がズシンとするようなその空間で、
ある光景に出会った。

若い日本人カップルが、
その零戦の前で、
にっこりと笑顔でピースサインをつくり、
ツーショットの自撮りをしていた。

道中、声の大きな外国人観光客が気になったりもしたが、
それ以上の衝撃だった。

思わず、目を逸らしたくなった。
彼らに悪気がないのは分かっている。
他国から資料が提供され、
かつての敵国と歴史を共有できているこの平穏な「今」を、
無邪気に享受しているだけなのかもしれない。

けれど、どうしても悲しさが勝ってしまう。
すぐ横にある遺書の重み、
目の前にある鉄の塊とともに散っていった命の数に、
なぜあと一歩の想像力が及ばないのだろうか。

ここをただの「映えスポット」として
消費してしまう彼らの軽やかさに、
倫理の不在を感じて寂しくなった。
せめて、わかったうえでのピースサインであってほしい。
そう願わずにはいられなかった。

しかしながら、ふと自分自身を省みたとき、
私の中に、
どこか自分の命を軽んじるフシがあることに気づく。

現代人ならではの閉塞感や悩み。
彼らが抱えたものとは全く質の違う、
しかし確実に私を蝕む生きづらさ。

彼らは「生きたくても生きられなかった」のに、
その彼らが焦がれるほど生きたかったはずの未来にいる私は、
命をどこか粗末に扱っている。

ミュージアムの外に出ても、
瀬戸内の海を眺めながら、胸のモヤモヤは消えなかった。

海底に沈んだ数々の遺品や技術の結晶は、
未だ沈んだままだ。
突如として愛する人を奪われた家族たちの無念も、
「過去の終わったこと」ではなく、
今も静かに、この世界の底に残り続けている。

あのカップルは、あの後もきっと笑顔のまま、
次の展示室へ歩いていったのだろう。

私は今も、あの零戦の前に立ち止まっている。


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