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チカにエサを与えないでください 第四話

三人目 チカを殺したのは柏木ではない


 柏木は小説を書くアプリを自分の恋愛メモとして使っている。通勤の電車の中で、まるで日記のように。背後に立っているサラリーマンへ見られないようにしながら、資料の中の登場人物の【柏木莉子】のボタンを押した。

名前:柏木莉子
年齢:35歳
職業: 披露宴スタッフ
性格:明るく親しみやすい、コミュニケーション能力が高い
特徴:恋愛相談のプロで、誰に対しても的確なアドバイスができる。でも自分の恋愛には慎重派で、仕事とプライベートのバランスに悩んでいる。
趣味:カフェ巡り、おしゃれなレストランで新しい出会いの場をリサーチ
人生観:「運命は、自分の手で切り開く」

 僕はいつも笑ってしまう。どうみても本人とは全く違っている。これが柏木の理想の人物なのかもしれないけど。もし僕がこれを書くならこんな感じだ。

名前:柏木莉子
年齢:35歳
職業: 披露宴スタッフ
性格:執念深い。幼稚園の頃の事をいつまでも責めてくる。中学の時に手作りチョコを毒見させられたが、砂糖と塩を間違うくらいおっちょこちょい。好きな男の前では強がるが、内面は乙女。
特徴:あまり感情を表に出さない。恋愛が下手で、恋人ができたことはない。恋愛マンガと恋愛小説を読みすぎて、恋愛に詳しそうな雰囲気だけ醸し出す。
趣味:漫画、街中華巡り
人生観:「幼馴染は奴隷」

 これで本人にだいぶ近づいた。しかしデータを書き換えることは出来ないから僕の心の中でとどめておこう。柏木は他の登場人物欄を確認した。

【×結城 怜雄】高校二年生の時。性格は純粋で熱血、夢を語るのが好き。フラれた言葉は「俺、恋する前に、映画を作りたいんだ」
【×佐久間 悠】大学のサークルの先輩。 哲学専攻で思索的でマイペース、深い会話を好き。フラれた言葉は「愛とは何かという答えが見つからないと、恋人にはなれない」
【×狭山 圭吾】仕事の関係で出会ったレストランオーナー。落ち着いた大人の魅力があり、包容力がある。フラれた言葉は「君との未来のレシピが思いつかないんだ」
【羽田知輝】動物園の飼育委員。ぶっきらぼうな所があるが、優しい一面もある。料理が得意で、頼りがいがある。フラれた言葉は「全部終わってから」
【佐々木悠斗】幼馴染。性格は合わない。女にモテないオタクのくせに上から接してくる。

 他にも何人かの人間が登場人物としてアプリの中にメモされている。柏木はいつか自分の恋愛経験を小説にでもするのだろうか。その人物の中にチカという欄もあった。プロフィール欄は一か所を除いて全て空白になっている。書かれているのはこれだけだ。
 性格:卑怯
 柏木とチカの関係についてはあまり詳しくない。柏木から直接聞いたことは一度もなかった。柏木の人生において、チカがどのように関わっているのだろうか。
 アプリを閉じると、満員電車の流れに押されながら電車を降りた。そして仕事場への道をゆっくりと歩きだした。
 柏木はウェディングプランナーである。しかも今日は、面倒そうなカップルとの打ち合わせがある。いつかトラブルになるのではないかと僕は思っていた。柏木も感じていただろう。その予感は今日の午後に的中する。

 自分のことをいつから【僕】と言っていたか忘れてしまった。そして彼女はいつから自分のことを【あち】と呼んでいたのかもわからない。彼女が五歳の頃はすでにそう呼んでいた。僕はそのことに違和感はなかった。なんなら女性は自分のことを【あち】と呼ぶのが普通なのだと思っていたくらいだ。だからこんな問題が起こってしまって彼女を責めるつもりは毛頭ない。スマホの分際で責める資格もないが。まだ幼馴染として生きていたら、もうやめとけと慰めていたのかもしれない。
「申し訳ございませんでした」
 新婚夫婦が一生の誓いを行うチャペル、幸せに溢れるはずのその場所で、柏木は頭を下げた。カップルの男の方は沸騰したやかんのように怒りが抑えきれていない。そのホストのような風貌からすると、これまでの人生は思うがままに生きてきたのだろう。慌てて柏木の後ろにスーツを着こなした年配の男が現れた。すぐさま柏木の頭を鷲掴みにして、更に深く頭を下げさせた。柏木の部署の課長だ。先月から柏木の部署に配属されてきた。ただ、こういうカスハラの客に謝ったら、あとは奴隷になってしまうとこの上司は知らないのだろうか。このままだと、柏木はこのカスハラ夫婦の奴隷確定だ。
「別にさ、いいんだけどね」
 カップルの男は怒りを一旦懐にしまうと、からかうように柏木へ告げた。柏木は頭をあげようとしたが、再び上司に頭を押さえつけられた。僕も足元のボロボロになった柏木の革靴しか見えないので、どうなっているのかわからない。
 夫婦は「ガチ、バカだなぁ」と侮辱された、とクレームをつけている。
 しかし、柏木はそんなことを言っていない。真相は違う。カップルをチャペルに案内し、そこで行われる内容について説明後、オプションをつけるかどうか確認した。いくつかのオプションを希望されたので、その金額を見積もった。しかし明らかに合計金額が間違っており、再計算をしながら独り言で「あち、バカだなぁ」とつぶやいた。無意識にだ。それがカップルには「ガチバカだなぁ」と聞こえたようだ。僕は目の前で見ていたのだから、これが真実だとわかってる。しかし、カップルは自分たちがバカにされたと言っている。特に男の方は両目をむき出しにして柏木を睨みつけている。上司は頭を下げながら男へ告げた。
「まだ担当は不慣れなもので。式場責任者の私が全責任を取ります。管理不行き届きで大変申し訳ございません」
 柏木はもう十年以上この仕事をやっているベテランだと思うのだが。
 カップルの男は余裕たっぷりの笑顔を浮かべた。
「んで、管理不行き届きの結果、料理のグレードは無料で最高にしてくれるってことなのかな」
 柏木は頭を上げて反抗した。
「そ、それは困ります。一人二万円高くなりますから、合計二百万以上かかります。お客様へご無礼なことをしたのは謝りますが、それとこれとは」
「じゃあSNSで拡散しとくわ。録音もあるしね。この結婚式場では、客のことをガチバカクソ野郎って言ったって」
「クソ野郎だなんて言ってません」
「じゃあ、ガチバカは言ったんだな」
「いえ、それは」
 上司は反論しようとした柏木の頭を再び押さえつけた。
「申し訳ございません。承知しました。お料理は最高グレードで用意させていただきます。なので穏便にすませていただけますでしょうか」
「だってよ、加奈子」
 カップルの女は申し訳なさそうに小さくお辞儀をした。
「ほら、加奈子だって料理だけで許すって言ってるだろ。ここの社員が客に向かって超ガチバカクソ野郎って言ったことをさ」
 男は後半大き目な声で話していた。その声はチャペルの外にいるカップルにも聞こえていただろう。
「わかりました、勉強させていただきます」
 上司は改めて深々と謝った。柏木は不満そうに軽く頭を下げた。するとカップルの男は柏木を指さした。
「お前、次はないからな」
 なんだこいつら。僕はスマホから手が出せるのであれば、この男を殴り飛ばしていただろう。しかし柏木は手を出さなかった。おそらく爪が手に食い込むほど拳を握りしめていたんじゃないか。
 突然、カップルの女が悲鳴を上げた。女の頬に獣の爪で引っかかれたような三本の切り傷がついた。それぞれの傷からだらりと血が流れだした。
「おい、お前らなにをしたんだよ」
 男は柏木と責任者に向かって問い詰めた。しかし、さすがにその二人が犯人というのはありえない。ここに立っていたのだから。
「いえ、私たちは決して何も」
「おい、謝れよ」
「そんなことより、奥様の止血を」
「まだ結婚してねえよ」
 すると顔から血を流したままの女が立ち上がった。
「ちょっと待って。それって他の女と結婚する可能性があるってこと? やっぱり他にも女がいるんでしょ。もしかしてユカ?」
「またユカの話かよ」
「三回も前科があるくせに、開き直るのやめてくれる?」
「お客様、まずは怪我を」
 男は女の髪の毛を掴んで、チャペルの式台に血だらけの顔を押し付けた。
「おい、いい加減にしろよ。俺はお前と結婚するからここにきてるんだろ。昔の事ぐちゃぐちゃ言ってると、別れるぞ」
 式台に置かれたサンプルの結婚誓約書は血まみれになっていた。

 柏木と上司は式場の前で救急車を見送ると、ため息をついた。そして柏木は上司に頭を下げた。
「すみません、トラブルになってしまって」
 すると上司は柏木より深く頭を下げた。
「申し訳ない。女性の頭を触っていいのはパートナーだけだよね。君のパートナーにも謝っておいてくれ」
「い、いえ。パートナーなんていません」
「じゃあ未来のパートナーに謝っておく」
 上司は空に向かって頭を下げた。柏木はそんな様子に笑ってしまった。
「私の未来のパートナーは、天国にでもいるんですか?」
 確かに、と上司は笑った。柏木は僕を取り出して、先月お気に入りに登録していたジンギスカン料理のレビューを表示させた。柏木の顔はあの顔をしていた。そう、男に一目惚れする時のあの顔だ。
 そして柏木は自宅謹慎となった。理由は、お客様を侮辱した上に救急車を呼ぶほどの怪我をさせたためである。上司は柏木の事を最後までかばっていたが、柏木は全ての責任を受け入れた。上司は何度も「守りきれなくてすまん」と柏木に謝っていた。

 その日の帰り道、柏木はいつものフードコートでミルクキャラメルマシュマロざくざくクッキーベリーベリーチョコレートカフェオレを飲んでいた。正直、この名前があってるのかもわからない。なんなら注文する側だけでなく作る側すらわかっていないかもしれない。ミルクキャラメルマシュマロざくざくクッキーシュリンプベリーベリーチョコレートカフェオレと言われても海老に気づく人はいるのだろうか。
 夜にも関わらずフードコートは賑やかだ。特に高校生たちがたむろしており、日頃の恋愛話や流行りのメイクなど、五年後には全て忘れていそうな話に花を咲かせている。柏木はうるさい環境の中に自分を置くと、落ち着く性格だ。だからこの場所がとてもあっているのだろう。
 さすがに今日は柏木もへこんでいると思っていたが、特に落ち込んだ表情も見せていなかった。良くも悪くも普段通り、ミルクキャラメルマシュマロ(略)をちびちびと飲んでいた。
 柏木は悲しいことがあっても一切表に出さない。そういうところは本当によくないと思っている。本当は悲しい感情があるはずなのに、自分の心の中に封じ込める。そのひとつが欠点のない女性を演じようとするクセだ。男性に媚びることなんて全くしない。辛い時は誰かに甘えたりしてもいいのに。高校の時に憧れの先輩にだまされて、遊び目的でラブホに連れていかれた。その時だって、なんとか逃げ帰ってきた後に「すごくない? エッチな動画が見放題だったんたけど」と何事もなかった顔をしていた。会社の同期に四股かけられていたときも、「あたし四人の中で格付け二番目だったの。三番目なんてインフルエンサーだよ?」と喜んでいた。
「うるさいなぁ」
 向かい側の席にいる高校生はタブレットを見ながらダンス動画に合わせて踊っている。しかも柏木の声が聞こえなかったようで、ダンスは一向に止まらない。むしろ友人も増えて二人で踊りだした。柏木はミルクキャラメル(略)をぐいっと飲んだ。これはなかなかの迷惑だ。何が起きても無表情でおなじみの大仏フェイス柏木でもこれにはキレるのか。
「だからうるさいって言ってるでしょ」
 女子高生、逃げたほうがいいぞ。独身をこじらせた女は、今までの恋愛の辛酸をブーストにして怒りをぶつけるからな。辛酸ブーストは火星行きロケットの燃料タンクの十倍を超える力を持っているから。
「うるさいのはあんたよ、童貞坊主」
 柏木はミ(略)を飲み干してカップをグシャリと握りしめた。女子高生じゃなかったか。しかし周囲には童貞坊主にふさわしい男子高校生はみつからないが、柏木の目は童貞男子高生が集まっている平行世界でも見えているのだろうか。
「そんなの見えるわけ無いでしょ。あんたよ、あんた。悠斗」
 は?
「あー、もう。マジでずっと無視してたんだけどもう限界だわ。あんたさ、どっから話してるの?」
 待て。僕に話しかけている?
「そうよ、童貞坊主ってあんたしかいないでしょ」
 そんなの日本全国の野球部集めたらいっぱいいる。
「野球部はかっこいいフィルタかかるから坊主でもヒエラルキー上位よ。だから陰キャのゲームオタクは」
 どういうことだ。なぜ僕は柏木と会話ができているんだ。
「あちが聞きたいわよ。あんたはどこからあちに話しているのか。あと大仏フェイス柏木ってなに?」
 嘘だろ、おい。
「あちが言いたいよ、あんた死んだんじゃなかったの?」

 僕がわかっていることを柏木に全て話した。自分はすでに死んでいること。そして柏木のスマホに転生していること。カメラで見る映像とマイクが拾う音はわかるが、それ以外は特にできることがない。
「もしかして、あちの裸見た?」
 見てない。
 (見てない、ことにする)
「見てるじゃん。マジでそういうデリカシーのないところが童貞。幼馴染の裸見てもしょうがないんだから目をつぶってなさいよ」
 そうか、心の声も全部聞こえてしまっているのか。
「なにが、(見てない、ことにする)よ。見たって言ったら傷つくから女性の気持ちを考えて嘘をつきました、的なジェントルマンムーブやめてくれる? 本当にそう思うんだったら、心の声も秘密にするのが礼儀ってもんでしょ」
 そんな事言われても、心の声をどうやって隠すんだ。
「知らないよ。あちスマホじゃないんだから」
 説明書読んでくれよ、書いてあるかもしれないから。
「書いてあるわけないでしょ。FAQ スマホが心の声を秘密にしたいと思ったときには、とかおかしいでしょ」
 目の前の女子高生たちがこちらを盗撮していた。
 おい、柏木。お前盗撮されてるぞ。不審者って思われてるんじゃないか?
「あんたのせいじゃん」
 柏木は急いで席を立った。

 駅のホームにある椅子へ座ると、僕へ聞こえるように小さく囁いた。
「調べてものするから静かにしててね。どうせあちがやってることバレてるんでしょ」
 わかってる。今でも信じられないけど。
「まずは調査の手伝いをして。今は幼馴染でしょ」 
 ちょうど各駅停車の電車が到着した。ほどよく空いている車内を物色し、端の席に座ろうとした。
「痛っ」
 柏木はつり革に頭をぶつけた。つり革に広告で貼られている牛のキャラクターが能天気に笑っている。焼肉屋の広告のようだ。まるでぶつかった柏木を馬鹿にしているかのようににこやかだ。牛は「遠くの韓国より、チカクの焼肉 【焼肉チカク】 #チカクで焼肉 」とキャッチコピーがついている。僕は焼肉よりラーメン派だけど。
「スマホは食事できないくせに。そんなことより不慮のつり革事故にあった幼馴染へ慰めの言葉は無いの?」
 いたいいたいの、とんでけー。
 柏木はため息をひとつついて席に座った。
 そんなことを言ったら、柏木だって不慮の電車事故にあった幼馴染に慰めの言葉は無いのか。
「いま元気そうだからいいでしょ」
 そういうと、柏木はキツネ親父のアカウントを開いた。先週病院へ運ばれたらしい。柏木たちのやり方は傍目に見ていても凄い。言葉だけでここまで人の心を粉々にできるものかと感心する。
 しかし成田がいなくなって、中嶋と二人になってしまったが、どこまで続けるつもりなのだろうか。
 僕がスマホになった時、すでに柏木は清掃団だった。柏木はあの事故でスマホが壊れたようで、僕は新しいスマホとして柏木の元へ来た。すでにチカはいなくなっていて、柏木を通して存在を認識しているだけだった。
 これは僕の推測だが、柏木はチカになりたかったのかもしれない。容姿端麗で人望もあり、リーダーシップも持ち合わせている。それがうらやましかったのではないか。柏木はチカがいなくなって、清掃団のリーダーのように振る舞っている。とても楽しそうに。まさか柏木が――
「あち、そんなことしないから。それより作業に集中して」
 僕は柏木の操作に合わせて、あのアカウントを表示した。

 キツネ親父 @tpa6tgdw
 誰だ、俺をこんなに苦しめて楽しんでるやつは。俺が死ねばいいんだろ、わかってるよ。お前の望みどおりにしてやるよ。

 チカは軽く笑みを浮かべると、あるアプリのツールを走らせた。すると中傷用の複数の匿名アカウントがAIで作ったリプをキツネ親父のコメントにぶら下げた。

〈でた、死ぬ死ぬ詐欺〉
〈先生、言うことを聞いてくれなかったら僕死んじゃうからw〉
〈さぁ、では歌ってもらいましょう。キツネ親父さんで、地獄へ〉
〈ああ、キツネ親父さん死なないで〜(定期)〉
〈こうして地球上からまたひとつゴミが消えていくのであった〉

 柏木はキツネ親父のアカウントを閉じた。そしてニュースアプリを立ち上げて一週間前の事件を見始めた。

2025年9月14日 毎目新聞 
日本全国動物園大脱走!街はパニック、緊急事態宣言も検討

 昨夜未明、日本全国の動物園から動物たちが一斉に脱走するという前代未聞の事件が発生した。ライオン、トラ、ゾウ、ゴリラなどの大型動物が街中に出没し、各地で混乱が広がっている。政府は緊急対策本部を設置し、一部地域では外出禁止令の発令も検討されている。東京都内では、上野毛動物園から逃げ出したライオンが銀座の繁華街を歩き回り、警察が必死の対応を続けている。大阪ではトラが商店街に現れ、住民が避難する騒ぎとなった。福岡ではゾウが高速道路を歩き回り、交通が完全に麻痺。
「こんなことが現実に起こるなんて信じられない。家から出るのが怖い」と、都内の住民は不安を口にする。全国の動物園でほぼ同時に檻が開放されたことから、警察は「計画性を持った組織的犯行の可能性が高い」として捜査を進めている。同日、あたま動物園にて、動物園の飼育員、羽田さんの死体が発見された。近くに頭をナイフで刺されたライオンがいたことが確認されており、なにかの理由で刃物に刺されて興奮したライオンに襲われたと見ている。羽田さんはペンギンやライオンの担当だった。一方、覆面の男がライオンの檻からライオンを逃がす所を生配信していたという情報もあり、覆面の男が羽田さんではないかという情報もある。そのため警察は事件と事故の両面で捜査を始めている。なお、監視カメラの映像は、全てデータを消されており、犯人グループの特定には至っていない。また羽田さんと犯人グループとの関係も明らかにされていない。一部の専門家は「動物解放を訴える過激派の可能性もある」と指摘しているが、犯行声明はまだ出ていない。

2025年9月15日 毎目新聞 
政府、緊急事態宣言を検討
 この事態を受け、政府は緊急対策本部を設置。一部地域では外出禁止令の発令も検討されている。環境省は「動物たちの安全確保を最優先にしつつ、市民の命を守るために全力を尽くす」とコメント。専門家チームが 麻酔銃を用いて安全に捕獲する作戦を展開中だが、動物の数が多く、対応が追いついていない。警察は「猛獣を見かけても決して近づかず、速やかに通報するように」と強く警告。特に夜間の外出は極めて危険であり、不要不急の外出は控えるよう呼びかけている。この未曾有の危機がどのように収束するのか、今後の捜査と対応が急がれる。

 逃げ出した動物で数日間は日本中がパニックに陥った。しかし同時に自衛隊の凄さを改めて知った。およそ三日で、自衛隊によって逃げ出した動物はほぼ捕獲した。まだ捕まっていない動物はいるようだが、害のない小動物だけだそうだ。日本はあっという間に通常運転に戻った。実行犯人も捕まり始め、成田がその一味であることも判明した。なぜこんなことをしたのか、理由はもう誰にもわからない。
 成田がライオンに食べられ続ける動画はSNSで拡散されていた。映像はなく音声だけなので、AIがセンシティブ判断できずに次々と拡散されていた。一部では動画の考察もはじまっていた。特に成田が食われる間際、動画に入っていた声がいくつかあり、それらが考察対象となっていた。
「そっか、そういえばつけるの忘れてた」
 柏木は小説アプリを立ち上げると、成田の名前の前に×をつけた。どうやら今回は自分たちで殺さずに済んだようだな。
「人聞きの悪い事言うのやめてくれる?」
 じゃあ、お前をフッた男たちが清掃活動のターゲットになったのは偶然か?
「たまたまでしょ」
 小説アプリに名前が載っていた三人の男は彼女たちの手によって死んだ。フラれた腹いせだと今でも思っている。
「だから、違うって」
 電車が揺れた。ちょうど駅と駅の間で加速している。
 次に柏木は別の事件を調べ始めた。動物脱走の裏で地味に拡散されはじめている投稿だ。
〈マジでみんな信じないかもしれないけど、スマホから指が2本出てきたwあのスマホ呪われてるw機種変したwwwwwマルカリで転売したけどw買った人ごめんwww〉
 普通ならこんなつぶやきは、いいねもつかずにSNSの海の底へ消えていく。しかしこの投稿に〈私も出た! マジ怖いんだけど。アタシは手のひらまで出てきた〉とリプがついた。続けて同様に被害に遭ったというリプが続いた。スマホから腕が生えているようなイラストを投稿する人もいた。そんなわけがないと多くの人に叩かれていたが、一部の被害者は同意し、スマホから手のような怪異が生えてくるという書込が後を立たなかった。
「こんなの集団幻覚よ。みんなが見たと言っているけど存在しない映画のシーンみたいな」
 いや、ひとつ可能性として考えられることがある。もしかして僕以外にもスマホに転生した人間がいるのかもしれない。しかもその転生した人間は、画面の外へ物体として現れることができるとしたら。
「そんなことある?」
 もしかしたら、僕も画面から手を伸ばすことができるかもしれない。
「やめてよ。あんたの指が出てきたら気持ち悪い」
 ちょっとだけ操作やめて。画面から指が出せるのか試してみるから。
 柏木は操作をやめた。僕は自分の手が液晶から飛び出すイメージを念じた。固くて全然出てこないチューブ型のアイスをひねり出すかのように。しかし、指どころか爪の垢すらスマホから飛び出すことは無かった。
「ダメじゃん」
 ダメだ。じゃあ、この事件は一体どういうことなのだろう。やはり柏木がいうようにただの幻覚なんだろうか。
 再びスマホの怪異を調べようと検索をかけたら、ひとつの投稿が目に入った。頭をペコペコと下げている男女の動画だ。あの夫婦。あんな事を言いながら、結局SNSに投稿したようだ。しかも投稿された文章も被害者ムーブが凄い。
〈申し訳ないと思いながらオプションを色々とお願いしたので、合計いくらになりますかって優しく聞いたんです。そしたらプランナーの女性が不機嫌そうに電卓を叩きながら「ガチバカだなぁ」と言ったんです。あたしは算数苦手だけど、確認はしっかりと取ったほうがいいと思ったので聞いたのに、そんなことを言われるなんて信じられません。算数は昔からできなかったから私が悪いんだけど。彼氏はそんなことないよって慰めてくれます。子供の頃から憧れていた結婚式場だったのにショックで結婚を諦めようかなと悩んでいます〉
 動画は柏木が喋っている所を切り取り、「ガチ、バカだなぁ」という字幕がついている。いいねはすでに十万を超えており、柏木に対しての誹謗中傷がはじまっていた。柏木は慌てて自分のアカウントを鍵アカウントへ変更したが、すでに沢山の誹謗中傷コメントとDMが溜まっていた。通知オフ設定していたのが仇となって気がつくのが遅かった。僕も早めに気づいてあげられればよかった。
「そうよ、あんたスマホなんだから」
 自分でアプリ立ち上げられないし、せめて操作してくれないと無理だよ。
「昔っから使えないわね、童貞坊主」
 それやめてくれ。もう坊主じゃないし。
「童貞だけどね」
 うるさい。スマホがヤリチンだったらおかしいだろ。
「そもそもスマホは性行為できないしね。あ、盗撮はできるか。あちの裸を盗撮したみたいに」
 撮影はしてない。心の中にとどめておいただけだ。
「そもそも立つものがないんだからエロ匂わせるのやめて。しかも幼馴染に欲情するのキモいから」
 別に欲情していないけどな。あんなパンケーキみたいな胸、始めてみたわ。
「ふざけんな。機種変するぞ」
 どうぞ。今の時代は十万以上かかりますけどね。お金ないでしょ。自宅謹慎だし。それより一人でスマホに喋ってるあなたは周りから気持ち悪がられてますけど?
 電車は満員というほどではないが、それなりに混んでいる。ヒソヒソ話しているとはいえ、周りの乗客が柏木から少し遠ざかっている。
 柏木ははっと我に返って左右を確認した。そして鞄からマスクを取り出して装着した。
 つり革の焼肉の広告を柏木はうらやましそうに見て、一言つぶやいた。
「焼肉、食べたいな」
 また電車が揺れた。少し大きな揺れだったので、柏木はつり革を掴もうとした。そしてつり革でバランスを保った瞬間、違和感に顔をほんの少しだけ歪ませた。その拍子でスマホの向きが変わり、カメラに柏木が握っているつり革が映った。
 それはつり革ではなかった。本来つり革がある位置に、一本の手がぶら下がっていた。彼女は握手をするかのように、その手を握っていた。
 柏木は悲鳴を上げながら手を離そうとした。しかし、ぶらさがっている手は柏木の手を強く握りしめて離さなかった。僕は手を観察した。博物館で見たミイラのように細く、濁った肌色だった。手首にはリストカットの跡が残っており、長く伸びた爪が柏木の手の甲に刺さっていた。
 柏木は「離して」と叫んだ。その直後、逆側から同じようにつり革にぶら下がっている手が柏木の口を塞いだ。
 周囲の客は不審な人がいるかのように距離をおいて目を反らしていたので、柏木の異変に気づいておらず、自分のスマホを見続けていた。柏木は僕の角を使って口を塞いでいる手を殴った。そして口から手が離れると、握られている方の手のくるぶしを僕の角で殴った。そのまま僕を凶器かなにかとして使って、襲いかかってきた手を追い払った。そのまま別の車両へ逃げた。
 隣の車両には沢山の客がいた。彼らは柏木の緊迫した様子に一瞥を向けると、再び自分のスマホへ戻った。
 柏木はドア越しに元の車両をな注意深く見た。
つり革にはない問題がなく、先程の手の姿はどこにもない。
「あんた見たよね」
 あきらかに手だった。ネットでバズっていたやつもこんな感じなのかもしれない。
 そして録画ボタンを押して、乗り換える前の車両に向けた。特に何の変哲もない普通の車両だった。ただ、乗客は柏木のいた場所から少し距離を置いているようだ。柏木は腑に落ちない表情で今の車両へカメラを向けた。
 その瞬間、周囲にいた十人以上のスマホから、一気に手が飛び出した。十数本におよぶ手は、なにかを掴むような形をしながら柏木へ向かって襲ってきた。柏木は咄嗟にしゃがみ込んだ。そして「これは幻覚だ。あちは疲れてる、あちは疲れてる」と何度も繰り返した。僕は柏木の体が邪魔をして周りがなにも見えていなかった。乗客の悲鳴と、壁になにかがぶつかる音がした。柏木は体を揺らして暴れている。先ほどの手に襲われているのだろう。
 そして、車内のどよめきが収まった。柏木は顔を上げ、ゆっきりと立ち上がった。周囲には誰もおらず、柏木から距離をおいた状態で乗客が団子状態になり、柏木の様子を見守っていた。スマホのカメラで柏木を撮影している者もいた。
 柏木はなにもなかったように座席に座ると、最寄り駅で降りた。柏木が振り返ると、降りた社内のつり革が全て手になっていた。そしてこちらを襲うかのように手を大きく開き、大量の手の平が待てと言わんばかりに張り付いていた。

【ゆっくり解説】電車内に現れた呪いの手
オカ  皆さん、こんにちは。オカです。
ルト  ちわーっす、ルトでーす! いやー、最近電車に乗るのが怖いよね!
オカ  ルト先輩、どうしたんですか? そんなキャラでしたっけ。
ルト マジシャンルトです。はい、ここにあったつり革が、ジャーン! 人間の手に変わりました!
オカ  (少し呆れ気味に)先輩、それは全く笑えません。本当にそういう事件があったんです。
ルト は? マジで?
オカ ふざけたら呪われます。
ルト ご、ごめんなさい。つい、持ち前のマジシャンマインドが。
オカ そんなマインドは分別して捨ててください。わかってますか? 通勤電車内で突如として無数の人間の手が出現し、乗客を襲ったんですよ。
ルト 怖すぎるな。
オカ 目撃者の証言によると、最初は一部のつり革が、まるで皮膚のような質感に変化し始めたそうです。
ルト まさか、つり革の超進化が始まったとか? ダーウィンもびっくりだな。
オカ それはわかりません。最初のうちは、乗客も「なんか変だぞ?」程度にしか思っていなかったようですが。
ルト まさかつり革が手になるなんて、夢にも思わないだろ。そんなの二度見どころじゃ五度見くらいして、「まだ俺寝てるのかな?」って頬つねるな。
オカ でも、複数の乗客はつり革が完全に人間の手に変化して被害者女性の手を引っ張ったり口をおさえたりしていたと証言しています。
ルト マジでホラー展開! どんな手? ゴツゴツしたオッサンの手とか、ヌメっとした子供の手とか、異星人の緑色の手とか。
オカ 掴まれた手を振りほどこうとしても、まるで吸い付くようにしがみついてきたと言います。
ルト ひええ、吸い付くとかマジ勘弁。もう、完全にホラー映画のワンシーン!
オカ さらに恐ろしいことに、その女性は掴まれた手を強く引っ張ったところ、なんと指がもぎ取れてしまったそうです。
ルト ええええ、指が取れる!? グロすぎ。でも、それで終わりじゃないんでしょ?
オカ はい。もぎ取れた指の断面からは黒い液体のようなものが滲み出し、すぐに新しい指が生えてきたというのです。
ルト マジか! 不死身のつり革の手。完全に詰んだわ、もう、電車に乗るのやめる。徒歩通勤だな。って、うちから会社まで徒歩三時間以上かかるわ!
オカ 車内はパニック状態となり、乗客たちは我先にとドアを開けようとしましたが、なぜかドアは開かず、非常ボタンも作動しなかったようです。
ルト 閉じ込められた上に、得体の知れない手に襲われるとか。まさに悪夢。逃げ場なしの絶望空間だわ。
オカ そして、さらに信じられないことに、電車が緊急停車した後、被害者女性の近くにいた人のスマートフォンからも、一斉に手が現れて襲われたというのです。
ルト もはや意味不明だな。つり革の手だけじゃ飽き足らず、スマホにまで侵食してくるとか。
オカ この時の現象、実は動画で撮っていた人が一人いたんです。その動画にて検証が始まって、ひとつの推理が出ています。
ルト さっすが! ネット考察班は警察より凄いまである。
オカ この動画に出てきている手は、かなり細い。そして手首に大量のリストカットの跡があった。
ルト 女性だ。
オカ そうなんです。そして特徴的なのは手の甲に彫られていた、小さな蝶のタトゥー。この一連の異常現象の背景には、とある女性インフルエンサーの強い怨念が関わっていると考えられています。
ルカ まさかインフルエンサーが仕込んだドッキリ?
オカ その女性の名はチカ。かつてSNS、特にインスタグラムで絶大な人気を誇ったインフルエンサーでした。彼女のスタイルとファッションだけでなく、その料理のレシピはオリジナリティに溢れていて、彼女の投稿するファッションと料理は多くの女性たちの憧れの的だったのです。
ルト  キラキラ女子だ。俺と一番対角にいる人種だ。
オカ  チカは、フォロワーからの「いいね!」やコメントを何よりも重視していました。エゴサマニアであることも有名で、自分の名前がタグについてたらすぐにリアクションするのでも有名でした。しかし、その承認欲求は次第に歪んでいきました。
ルト  ぐにゅって?
オカ  ある日、食事が床にぶちまけられた写真が投稿されました。そこに【悪魔はこいつらだった】と書かれていました。チカはレシピも投稿しなくなり、投稿される体も極端に細くなっていきました。
ルト  拒食症?
オカ  その通りです。チカは誰にも相談できず、孤独の中で病状を悪化させていきました。そして、ついに限界を迎え、自宅で餓死という悲しい結末を迎えてしまったのです。
ルト 全然キラキラしてない。
オカ  最期の投稿に食べたいって100回くらい書いてあったそうです。
ルト 辛いな。でも、チカは、なぜその女性を襲ったんだろう。
オカ わかりません。被害に遭った女性も、そのまま電車から逃げてしまいました。
ルト なんだか不思議な事件ですね。
オカ でも、電車の女性についてわかったことがあります。皆さんもよく知っているかもしれません。つい最近、ニュースにもなった動物園の事件を覚えていますか? ライオンに襲われた男。
ルト 怖かった! サイが道路歩いているなんて初めて見た。
オカ 男がライオンに食べられている動画を分析すると奇妙なことがわかってきたのです。
ルト まさか、ライオンがスマホをいじってるとか!?
オカ ライオンに襲われる寸前に、ライオンの後ろに奇妙な手が写っていたんです。それは細くて長い指の手のようだと。
ルト まさか、電車の手と同じ!? チカがライオンを使って男を殺したという事? でも電車の女性とその男は何の関係があるの?
オカ 電車に手が現れたの事件の日の夜、一枚の写真が投稿されました。その写真にはライオンに襲われた男ともう一人の女性が写っていました。その女性というのが、今回の電車で手に襲われた被害者と言われています。
ルト ということは?
オカ これはあくまで想像です。チカさんは失恋で拒食症になり餓死した。でも自分を捨てて幸せに別の女と暮らしている元カレの事を知ったら。
ルト 手も出したくなる、と。鳥肌立ってきた!
 
「あちが、成田と恋人? 好き勝手言ってるよね」
 その割に少しだけ嬉しそうな顔をしていのはどういうことだろうか。ベッドの上で動画を見ていた柏木は動画を停止させた。
「一週間前のあち、疲れてたんだよ。手が襲ってくるわけないし。疲れ疲れ。医者も原因わからなかったらストレスのせいにするじゃん。おばけなんてないさ」
 じゃあ死んだ僕と話せることはどう説明するつもりだ。
「知らない。幼馴染だからじゃない? 腐れ縁が結ぶ時空の歪みとか。あち、十年前に生きてる時のあんたと喋ってるのかもしれないよ」
 幽霊は信じないけど、SFは許容するんだ。ちょっと意外だった。
「SFは科学の延長だからね。それよりお風呂入ってくるから見ないでよ」
 見られたくないならタオル巻いて出てこいよ。全裸で出てきて見るなって言われても無理だから。
「なんで自分の家で他人の目を気にしなきゃいけないの。マジで意味不明」
 柏木は悪口の残り香を部屋に漂わせたまま、風呂場に入った。
 童貞童貞、うるさいな。この大仏フェイス。
 ――聞こえていないな。
 どうやら三メートルくらい距離があくと、僕の考えはわからないらしい。
 しかし手の件については僕も不思議でならない。このカメラで見た以上、幻覚と言い張るのも難しい。僕はドラッグをやったりしないので、人間のように幻覚を見るようなことはない。カメラの光学センサに検知された映像は目の前で起きている事実そのものであるから。あの日、確かにつり革の代わりに手がぶら下がっていたことになる。手が生える現象を現代科学で説明できるのであれば教えて欲しい。
 先程、柏木は人間が幻聴や幻覚を見るメカニズムを調べていた。満足する情報がなかったのか、途中でBLを読み始めた。
 柏木、もういい加減目の前で起きたことを信じてみてはどうかな。おまえがつり革の代わりに握ったのは、間違いなく人間の手だ。いや、人間の形をしたなにかの手と言ったほうが良いのかもしれない。そして僕はひとつ思い出したことがある。突然頬を怪我したあのカップルな女だ。あの怪我は、スマホから飛び出した手が行ったのではなかろうか。女がスマホでなにを見ていたのか、僕のメモリの奥に残っている映像を鮮明に思い起こした。その画面には、成田が食われている映像が映っていた。どうやらSNSで動画を引用しているようだ。引用の投稿はこうだった。

 これ、影の後ろに手が見えるよね。
#もしかしてチカ

 そしてこの【#もしかしてチカ】のタグについて不穏な噂が回り始めていた。
 【タグのついた投稿を行うと、スマホから手が出てくる】
 本当かどうかはわからないが、このタグがつけられた投稿を見ていたらスマホから手が飛び出してきたという。他にもラーメン屋でこのタグのついた投稿を見たら客のスマホから、手が飛び出してまるでライスを食べるかのようにほじくり始めたという。
 以前、スマホから手が出てきたという投稿を見るだけで、手が飛び出してきたという人もいる。すでに最初の投稿はデジタル呪物として扱われている。どれも真偽のほどはわからないが、少なくとも僕は信じている。
 柏木がタオルを巻かずにパンツを履いた姿で出てきた。あんな風に目がビー玉みたいな時は、なにかを思いついた時だ。
「私、いいこと思いついた。あんた手伝ってくれる?」
 僕は早くスリープの時間が来ないかなと思いながら、カメラの焦点を手前の目覚まし時計に合わせた。

連続通り魔、ついに社会の弱者へ牙か
 崎河市で立て続けに発生している通り魔事件は、ついに浮浪者や高齢者といった社会的に弱い立場の人々にも被害を広げています。本日、新たに2件の類似事件が確認され、警察は同一犯による連続犯行の可能性を強めています。本日午前六時二十分頃、高槻区の四角公園で、寝ていた浮浪者の男性(七十歳代)が刃物で切りつけられ、右腕に重傷を負いました。男性は意識があり、病院に搬送されましたが、指の一部が切断されているとみられています。男性は「フードを被った人物に、突然襲われた」と証言しており、事件の状況は過去2件の女性被害の事件と酷似しています。
 さらに、その約2時間後、同じ高槻区の住宅街で、早朝の散歩中だった高齢女性(六十歳代)が襲われ、左手の指を負傷しました。女性は犯人の顔を見ていないものの、「物音ひとつせず、突然襲いかかられた」と話しており、手口の類似性が指摘されています。崎河警察署は「市民の皆様には、不要不急の外出を控えるとともに、不審な人物を見かけた際は、直ちに110番通報してほしい」と改めて注意を呼びかけています。また、地域住民に対しては、見守り活動の強化や、互いに助け合う防犯意識の向上を訴えています。

 数日後、中嶋と柏木はあの地下室にいた。
「ぼ、僕、プロジェクタとか持っていないんで。これですみません」
 中嶋はパソコンを操作して、SNSで拡散されている動画を開いた。柏木が頭を下げている動画だ。
「この男と女を次のターゲットにしたい」
 いいこと思いついたというほどのアイディアではないが、これに関しては同情する。しかし命を奪っていいとはさすがに思わないが。
「うるさいな」
「す、すみません」
「あ、ごめん。独り言。今、頭の中に童貞飼ってるから」
「ど、童貞?」
 一般人として見本の反応だ。
「それより、方法はどうする? 多分女も男の言いなりだと思うの。だから男の方を落とせばOKなのよね。このままだと披露宴で大損するから、披露宴中止に追い込みたいのよ」
 中嶋は首を振った。
「ぼ、僕は反対です」
「どういうこと?」
「あ、あんまり私怨を晴らすようなことをするべきじゃないと思うんです。ぼ、僕たちは世界を平和にしようとしているんですよね。ぼ、僕はチカさんの信念が好きだったんです。こんなの、チカさんだったら絶対反対する」
 柏木は中嶋の反応に驚いた。
「このカップル、あち以外にもいろんな人に迷惑をかけていくと思う。そのたびに誰かがあちみたいにひどい仕打ちに遭う可能性があるんだよ」
「な、なんで柏木さんは『ガチバカ』って言ったんですか?」
「言ってないわよ」
 中嶋は動画を再生した。柏木が「あち、バカみたい」と呟いたところに、【ガチバカみたい】と字幕がついている。
「い、言ってますよね」
 柏木は肩を落とすと、中嶋のパソコンを閉じた。
「解散しよ」
「え、ええ?」
「協力できないなら、一緒にやる意味がないよ」
「そ、そんな」
「だからさ、もう一回考え直……」
「ぼ、僕と同じことを柏木さんが考えていたなんて。やっぱり解散するしかないですかね」
 柏木は驚いた。同情を引く計画だったようだが、中嶋はむしろやめたかったようだ。
 中嶋はチカが死んだ頃から気持ちが辛くなっていたようで、いいタイミングで辞めようと思っていたそうだ。柏木は中島の気持ちが全くわかっていなかったようだ。柏木、ミスったな。
「うるさいなぁ、バカ」
「ぼ、僕は真剣に考えてます。バカなんて言わないでください。やっぱり柏木さん、ガチバカって言ったんじゃないんですか?」
 柏木は慌てて否定した。しかし中嶋はそれを受け止められる器を持ち合わせていなかったようだ。中嶋は荷物をまとめると地下室の階段を上がろうとした。
その途中で、柏木の方を振り向いて言った。
「SNSで柏木さんが襲われたの見ましたよ。あれ、チカさんの手じゃないんですか?」
「どういうこと」
「だって、チカさんを殺したの柏木さんですよね」
 柏木は中嶋の言葉に無表情で返した。

 自宅に戻った柏木は、僕に問いかけた。
「ねえ、あんた。手伝ってくれるよね」
 なぜ。
「幼馴染でしょ。あちの悩みに乗ってくれてもいいじゃない」
 乗ってくれても、乗ってあげなくても、どっちでもいいんじゃないか?
「勘違いしたら困るんだけど。あちのスマホでしょ。あんたに月額使用料払ってるんだから」
 厳密には僕に使用料払ってるわけじゃないけど。
「めんどくさいなぁ、いいから協力しなさいよ。あちのスマホなんだから」
 確かに、僕は柏木の所有物でしかなかった。柏木は自分が考えていることを僕に説明した。
 いつものように誹謗中傷を行う。ターゲットは男。男の精神をすり減らして、結婚すると不幸になると信じ込ませるように持っていくそうだ。正直、そこまでする必要があるのか僕にはわからなかった。でも、僕は彼女の所有物なので、彼女の手伝いをしなくてはならない。柏木は中嶋へ実行計画についての詳細を送った。しかし、最後の柏木のメッセージに既読はつかなかった。中嶋はアプリを消したのかもしれない。
「結局、中嶋も世界を平和にする覚悟がなかったという事ね」
 
 柏木はわかっていない。
 昔から中嶋は臆病な一面があった。しかし僕から見ると、ある意味賢い選択をしている。地下室でドミノの祠を壊して以来、愛以と成田が死んだ。しかも明らかに怪異と思われる現象が、その周囲で起きている。そして柏木にも怪異の手が伸びてきている。愛以と成田が死んで、柏木も怪異に襲われているとなると次は自分が怪異に襲われると考えているのだろう。それは当然だ。
「んなわけないでしょ。逃げたのよあいつ」
 柏木は不満そうにベッドに転がって僕をいじっていた。柏木は電車で襲ってきた手を映像であると考えている。映像に触れると触感を感じ取ることができるというハプティクスという技術について調べている。しかしハプティクスに関する技術論文の言葉が難しすぎるのか、僕を握りしめたまま眠ってしまった。僕は柏木のパンケーキの上にポトリと落ちた。
 僕の背面カメラには柏木の部屋の天井が見える。シンプルな照明で何の変哲もない天井である。しかし、右の隅に顔のようなシミがさっきほどから徐々に浮かび上がってきている。目だ。大きな目玉がこちらを監視するかのように。その横には、人間の口だ。その口は徐々に大きく開き始めている。もうひとつ目が現れた。そのまま天井一杯に顔が現れて、柏木を見下ろしていた。柏木、これでも霊はいないって思うか?
 
 柏木は例の動画で炎上してから一か月、出社はしていなかった。柏木も会社に迷惑がかかるからとテレワークで対応することを希望していた。会社もそれを許可していた。
 来月は例のカップルの結婚式がある。この結婚式には柏木は出席するように夫婦から要望されている。おそらく、自由にわがままを言えると考えているのだろう。しかし柏木も着々と男のアカウントへ誹謗中傷を繰り返している。来月までになんとか結果を出そうと必死である。柏木は僕をキーボードの側に置きっぱなしにして、パソコンに向かっている。
 僕は柏木が眠ってから、考え事をするようになった。柏木に心が読まれないように。
 電車で襲われた手と、柏木の客の女のスマホから飛び出したものは同じ手だ。爪が長く、異常に痩せた手。あれが、人間の憎悪が生み出した悪意の具現化ってやつだ。俗に人間が幽霊とか呪いと表現するものだ。僕の考えは霊というのは量子もつれの一種ではないかと考えている。
 量子もつれとは、二つ以上の粒子が遠く離れていても、お互いに影響を与え合う現象のことだ。例えば、ある二つの粒子がもつれている場合、一方の粒子の状態を観測すると、もう一方の粒子の状態が即座に決まる。しかも、この影響は光の速さを超えて瞬時に伝わるため、普通の因果関係の概念では説明が難しい。
 人間の負の感情は、物質に影響を及ぼすと言われている。例えば犬に毎日ため息をついたら犬の寿命が縮まることや、花に愚痴を聞かせていると花が咲かなくなるというアレだ。あくまでも都市伝説なのかもしれない。しかし、科学は全ての地球上の現象を説明できているわけではない。それは量子もつれも同様に。そう考えると、人間の強烈な感情が物体化するということが現実として起こる可能性がある。
 あの手は、確かにそこにあった。チカはそれぐらい、柏木たちを憎んだ。僕はそれを否定できない。なぜ否定しないかは、僕そのものが証明だ。僕がなぜこのスマホに存在しているのか。それは僕の想いが具現化したからに他ならないからだ。
「霊なんているわけないし」
 このよだれはどう見ても寝ているのだが、寝言にしては僕の思考が読めすぎている。
 僕は幼馴染ではあるが、今は柏木のスマホだ。柏木のいう事を何も考えずに遂行するのが僕の役目だ。披露宴まで、あと一か月。無事に披露宴を中止させられるように手助けするしかない。
 そして柏木の攻撃は見事に失敗し、夫婦の披露宴は無事に開催されることとなった。

 「それでは、新郎新婦の入場です」
 真っ暗になった披露宴会場で、赤や黄色の照明が会場を駆け回った。会場の一番目立つところに設置されたドアが係員によって開かれると、あの夫婦が派手な衣装を身にまとって登場してきた。来場した五十人を超える招待客は一斉に拍手をした。部屋の脇で係員として参加している柏木も拍手をしていた。
 なぜそんなことがわかるのか。それは僕のメモリに披露宴会場の仕込まれている隠しカメラの画像が転送されてきているからだ。柏木は胸ポケットに入れた僕の液晶をちらりと確認し、カメラがしっかりと録画されていることを確認して再びポケットへしまった。
 僕は新婦の体を見て驚いた。以前打ち合わせの時より激やせしていた。もしかしたら男への攻撃によるストレスが女の方へ向かったのかもしれない。決して通用しなかったわけではないことを知れて、少し安心した。だが、この披露宴が行われている以上、柏木と僕のミッションは失敗だ。
 新郎新婦を迎える招待客は、彼らの入場を大きな拍手で迎えた。披露宴会場は二人の幸せを願うオーラに包まれていた。中に一人だけ負のオーラを放つ会場係がいることには誰も気づいていない。
 来賓の挨拶、続けて乾杯が行われた。柏木は優秀な披露宴の社員として、夫婦の会場係をしている。新郎の方が柏木を見るたびに「お前、わかってるな」と言わんばかりの笑いを浮かべる。個人的にはこんな性格の悪そうな男と結婚するなんて、新婦がかわいそうになってきた。若干、痩せこけてしまった新婦に申し訳ない気持ちになっていた。
「あちの方がかわいそうでしょ」
 柏木が小さな声でつぶやいた。そんなことより、式の進行に集中しろよ。ここから仕込みがあるんだろ。柏木は頷いた。

 料理の提供が次々と始まっている。列席している客のテーブルには醤油やワサビなどの調味料が並んでいる。この披露宴会場が自慢のひとつとしている和食のフルコースだ。料亭で提供するような見た目が華やかな料理だけでなく、新鮮な刺身、またホテルバイキングのようなローストビーフなどもラインナップされている。柏木のせいで完全に赤字だが。
 僕たちは、夫婦が披露宴を開催できてしまった場合でも復讐のシナリオを進める事を計画していた。
 どのような方法が良いか考えた結果、【#もしかしてチカ】のタグを使う方法を考えた。まず、このタグの都市伝説は本当であるか検証を行った。柏木には量子もつれ理論による過去からの人間の思念を物体化する技術であると伝えた。柏木はこの現象が霊ではないと理解することで、この現象についての受け入れ度合いが大きく上がった。
「これでいいわけ?」
 ああ、それでいい。
「このタグの投稿を見たらブロックされるみたいだけど」
 別にいいだろ。お前の匿名アカウントにそもそもフォロワーいないだろ。
「そっか。じゃあいくよ」
 柏木は投稿した。

 会いたいよ
#もしかしてチカ

 柏木は飛び出してくる手に備えて包丁とフライパンの蓋をもった。しかし何も起きなかった。
「何も起きないじゃない」
 おかしい。何が悪いのだろう。
「あなたの頭が悪いんじゃない?」
 少なくともお前よりはいいはずだぞ。ハプティクスも量子もつれも僕が理解して教えてるんだし。
「勉強できることが頭の良さじゃないって、だいたい二十歳超えたら気づくはずなんですけどね」
 スマホに年齢なんてないし。
「うわ、前世をなかったことにしようとしている。そーだよねー、黒歴史だもんね。童貞くんは幸せな恋もできなかったんだもんね」
 お前だってそうだろ。男とつきあったことない癖に。
「失恋だって、恋愛なの。あんたみたいに人肌よりキーボード触っている方が気持ちいいみたいなのとは違います。童貞くん」
 うるさい、処女が恋愛を語るな。
「知ってる? 恋ってとてつもない力があるんだよ。両思いになった二人はテレパシーで気持ちを通じ会えるんだよ」
 恋愛漫画の読みすぎだよ。幽霊信じないのにテレパシーとか理屈が合わない。
「恋愛は理屈じゃないの。あー、お腹空いた。ポテチ食べよ」
 話聞けよ、おい。あ、でも僕もなんだかお腹が空いてきた。いや、かゆくなってきた。基板の奥がむずがゆい。なんだこれは。人間で言うとトイレに行く前に漏れそうなこの感覚は。なんだ。これは。スマホが漏らすはずないのに。やばい、マジで。出る、出ちゃう。
 そして漏らしてしまった感覚が液晶全面に行き渡った。ああ、なにかいけないことをしてしまったんだ。開放感と背徳感でメモリがいっぱいだった。しかしそれは、チカの合図だった。
 僕の液晶から、腕が飛び出していた。液晶に腕が生えているかのように。そして腕は僕の画面から飛び出して、床に落ちた。肘を何度か曲げたり伸ばしたりすると、手のひらを床につけた。五本の指後からだけを用いて、床をゆっくりと這い始めた。
「なによ、これ」
 何かを思いついたように、手は肘を高く上げた。そして付け根と手のひらをうまくつかって、イモムシのように動き始めた。
 飛び出した手は柏木を狙っていた。柏木は向かってくる手に包丁で対抗した。包丁を振りおろすと、手首は傷を負って赤い血を吹き出した。
「ええ! 部屋が汚れる!」
 柏木は鍋の蓋でそのまま腕をおさえつけた。そして近くにあったブラジャーで手首を巻き、そのままぶら下げた。
 手は必死に逃げようと暴れているが、結び目には届かない。柏木はそのまま腕を吊ったブラジャーをユニットバスのカーテンのレールにぶらさげた。
 そして部屋へ戻ってくるなり、めったにない好奇心たっぷりな表情で僕に質問してきた。
「どうやったの、ねえ、どうやったの?」
 わかんない。
「すごい、本当にスマホから手が出てくるんだ。技術の進化も凄いね」
 多分違う。でも、それでいいや。
「今、あちに解説するのをあきらめた?」
 気にしないで。そんなことより、なぜあの手が出てきたかが重要だ。おそらく、このタグともうひとつなにか必要なんだと思う。
 さっき、なんて言った?
「童貞くん」
 たぶんそれじゃないな。その後は?
「テレパシーとか?」
 いや、違うな。腕がでてくる直前。
「えっとね、ポテチ食べよ?」
 また僕の体中に漏れそうな感覚が蘇った。そして開放感がスマホ中に満たされた。チカの腕がまたスマホから飛び出した。柏木は腕を見慣れてきたのか、合気道の要領で器用に手首を掴んでおさえつけた。腕は二の腕をバタバタと暴れさせた。
「この子、おやつ食べたいのかな?」

 こうして柏木と僕は、意図的に手を出現させる方法を見つけてしまった。仕組みはこうだ。【チカ】の文字が入っているタグに対して食事関係の言葉を投げかけると、それに応えるようにスマホから手が伸びてくる。つり革の手についてはつり革の広告 #チカクの焼肉  が原因だろうと僕は推測している。つまり
 そしてその手は動物や食料、つまり人間が食べられるものに向かってくる。人間が人間を食べられるかどうかはわからないが、食用という意味では可能なのだろう。しかし手は口を持っていないため、実際に食事を食べることはできない。まるで歯で食べ物をすりつぶすかのように、指で食べ物を潰していく。そして人間が口で食べ物を食べるかのように、手の平で食事を飲み込むような仕草を見せ、そのまま下にボロボロとこぼす。
 今、出てきた腕は延々とポテチを食べようとしている。袋から一枚取ると、指で粉々にしては足元にこぼしていた。いや足がないので腕元だろうか。まるで食事をこぼしながら食べる赤子のように。
「これ、なんなの?」
 手。
「そんなのわかってるわよ。なにが起きているのって聞いてるの」
 だから、手の幽霊がスマホからでてきたの。
「幽霊ってもっと怖いんじゃなかったっけ」
 まぁ、確かに。
「むしろペット感あるんだけど。幽霊なら幽霊らしくして欲しい」
 幽霊信じてないんじゃなかったっけ。
「幽霊なんかいるわけないじゃない」
 今、幽霊らしくして欲しいって言ったよね。
「揚げ足を取る人嫌いだから」
 それよりポテチなくなったけど、大丈夫か。次に柏木が襲われるんじゃないか?
「大丈夫、やめられない止まらないやつもあるから」
 柏木が新しくスナック菓子を開けて目の前に置くと、袋の中から取り出して先程より固いスナック菓子を指で粉々にしていた。相当の力があるようだ。
「やっぱり、チカの手?」
 間違いないと思う。あの蝶とか。
「そうだよね」
 ねえ、柏木。もし披露宴が開催されることになったら、この手で披露宴をぶち壊そう。
「どうやって?」
 僕は思いついた計画を柏木に伝えた。
「はじめて幼馴染で良かったって思ったわ」
 はじめてって、少し失礼じゃない? なんども助けてきたろ。
「ねえ、あとさ。ひとつだけ質問」
 なんだよ。
「この手、出し方はわかったけどさ。どうやってスマホの中に戻ってもらうの?」
 さぁ。
 手はスナックを食べようとする動きを一瞬止めた。そして再びその動きをはじめた。
 すでにユニットバスのカーテンレールには、腕が七本ぶらさがっていった。

 そして僕たちが仕込んだ仕掛けが始まる。
「それでは、ケーキカットになります。どうぞ皆様、お近くにきていただき、素敵な写真を撮影ください」
 夫婦は立ち上がると、柏木の誘導でケーキの側へ向かった。
「おい、これ模型じゃなくて生ケーキにしただろうな」
「はい、特注でご用意させていただきました。後ほど切り分けて皆様にお召し上がりいただく予定です」
 新郎新婦の席の横に出てきたケーキの高さは四メートルある。ノーマルなプランは模型なのだが、このケーキは全て食用の特注となっている。これらも全て無料であの夫婦にアップグレードにさせられた。新郎は柏木に耳打ちした。
「特注って言っても、お金かからねえよな」
「はい、全てサービスでございます」
 柏木はよく我慢している。僕なら新郎の顎にグーをぶち込んでいる。目にチョキでもいい。柏木はニコリと笑って、ケーキカット用のナイフを二人に差し出した。
「こちら、お二人で持ってください」
 夫婦はそして柏木が渡したナイフを持ち、ケーキの前に立った。観客のスマホが一斉に夫婦の方へ向いた。大量のシャッター音が不規則なリズムを奏でているようだ。
「お待たせしました。それでは、ケーキ入刀です」
 夫婦は客に笑顔を振りまくと、ケーキにナイフを入れようとした。その瞬間、柏木がマイクでしゃべった。
「その前に、新郎新婦へのサプライズ企画です。こちらのスクリーンの方をご覧ください」
 新郎新婦の背後にスクリーンの画像が浮かび上がった。彼らは嬉しそうに互いを見合わせた。特に新婦は何が起きるのだろうと嬉しそうだ。新郎はその様子を見て、柏木に向かって親指を立ててグッジョブとサインを送った。柏木は軽くお辞儀をした。
 何が起きるか、わかってないくせにな。楽しんでくれ。
 新郎の小さい頃の写真が次々と流れていく。赤ちゃんの頃から少しずつ大きくなっていく新郎のエピソードが、写真と共に紹介されていく。新郎が生まれ育ったのは山の中にある小さな村だった。それが大学となって一気に都会らしく風貌が変わった。素直な少年に見えたのに、どこでこんなクズのような性格になったのだろう。新郎が終わったら次は新婦だ。新婦の子供の頃は海外で暮らしていたようだ。アメリカの生活から日本に移って大学で新郎と出会ったようだ。二人のデートの様子が次々と表示された。
 突然、二人が披露宴の事務所で座っている画像に切り替わった。それは、あの日僕がこっそりと盗撮したものだ。カップルは謝り続ける柏木と上司に向かって、高圧的な態度を見せていた。招待客はその様子を見てざわつき始めた。
 新郎は柏木の前に立った。そして胸ぐらを掴んだ。
「どういうつもりだ、なめてんのか」
 柏木は表情を変えずに新郎を睨んだ。柏木は滅多なことで動揺しないんだよ。そんな脅しはびくともしないから。正直、僕の幼馴染をなめてるのは、お前の方だ。柏木、いくぞ。柏木は表情を変えないまま、強くうなずいた。そして塔のようにそびえるウェディングケーキに向かって叫んだ。#チカと書かれたプレートを何個も忍ばせておいたケーキに。
「チカ、お食事の時間よ」
 その瞬間、ウェディングケーキの中に忍ばせておいたから一気に何本もの手が飛び出した。一本の手はナイフをわしづかみにして、放り投げた。別の手はケーキのクリームを新郎の顔に塗りたくった。ケーキからイソギンチャクのように何本も生えた手は、何かを探すように辺りを破壊していった。着ていた客は悲鳴を上げて、テーブルの方へ逃げ出した。
 各テーブルの座席表から手が飛び出した。座っている客の顔を掴んだり、乾杯で使ったグラスをテーブルに叩きつけていた。先ほど夫婦が入ってきた入口は、ドアが開かないように二本の腕がドアの取っ手を押さえていた。
 観客はパニックになり、入口に押し寄せたが、開かないことがわかると部屋中を逃げ始めた。柏木はテーブルの裏にも#チカと書かれた紙を忍ばせておいた。そのためテーブルの下から何本もの手が生えて招待客を襲っていた。ウェディングケーキには二十本を超える手が新郎新婦を襲っていた。最初の方はスマホで動画を撮っていた者もいたが、その異様な状況に、すぐさま逃げ出した。
 柏木は司会のマイクを取った。
「そこの新郎、美味しいよ」
 ケーキから生えている全ての手は柏木の声をきっかけに新郎を集中的に襲った。新郎は伸びてきた手を椅子で殴りつけようとしたが、複数の手は椅子を受け止めて、会場の奥へ放り投げた。その後、手は新郎の顔を目がけて突っ込んでいった。
 新郎は群がる手の攻撃に耐えきれず、叫び声をあげた。まるで大きな虫に群がる大量の蟻のように、新郎の顔にたくさんの手が集まっていた。手は爪で新郎の顔を少しずつ剥いでいる。周りに赤い血と肉が散乱し始めた。

□のなめろう
アジ以外でもなめろうを作れます。このレシピは□肉を使ってます。ぜひチャレンジしてみてね。

 材料(2~3人分)
 □肉(刺身用) 200g
 味噌 大さじ1
 生姜(すりおろし) 小さじ1
 長ねぎ(みじん切り) 1/2本
 青じそ 2枚
 醤油 小さじ1/2(お好みで)

作り方
1.□の下処理
 □の皮を剥ぐ。
 骨を丁寧に取り除き、身を適当な大きさにちぎっておく。
2.薬味の準備
 長ねぎをみじん切りにする。
 生姜をすりおろす。
 叩いて混ぜる。
3.調理
 まな板の上にちぎった□肉を置き、味噌、生姜、長ねぎをのせる。
 ナイフで細かく叩きながら混ぜ合わせる。
 筋があったらフォークで取り除く。
 粘りが出るまでしっかり叩く。
4.盛り付け
 器に青じそを敷き、その上になめろうを盛る。
 お好みで醤油を少量かけて完成。

 手は次々とテーブルの上で新郎の肉を使って調理をはじめた。招待客は手の奇行に悲鳴を上げるものがほとんどだった。柏木は茫然として座り込んでいる新婦の体を支えていた。そして新婦を手がいない、高砂の席の方へ逃がした。新婦は席に座ると、新郎が調理される異様な状況を受け入れきれていないのか茫然と涙を流していた。感情が暴走すると、涙が勝手に出ると聞いたことがある。おそらく解放された嬉しさと目の前で起きている事の恐怖の二つで、心がマーブル模様になっているだろう。柏木は新婦の肩を何度も優しくさすった。
「落ち着いて。あなたは私と同じあの男の被害者でしょ。もう大丈夫だから」
 新婦は首を横に振った。柏木は新婦に強く伝えた。
「あなたは洗脳されていたの。このままだとあなたは旦那さんにいつか殺される。もしかしたらこうやってあなたも手になって誰かを呪うようになるかもしれません」
 柏木は新婦の頭を優しく撫でた。新婦は柏木の腕に絡みつくようにしがみついた。本当は彼女も怖かったに違いない。良かった、間に合った。
 新婦は柏木の手を強く払った。
「これ、あなたがやったの?」
 新婦は柏木を睨みつけた。柏木は彼女の様子に驚いて、少し後ずさりした。
「違います。あなたの旦那さんに対する憎悪が具現化してチカになったの」
 本当は違う。これは僕のシナリオだ。そうすれば新郎は柏木の復讐で死んだことにならないので、余計な嫌疑がかけられることは無い。電車の手の話ともつじつまが合う。真実は違っているとしても。
 しかし新婦は僕たちの予想を大きく裏切る反応をしている。
「私は、愛してるから」
 新婦は新郎に群がる手を引きはがし、新郎の元へ走った。そして群がっている手を引きはがして、新郎の体を抱きしめた。もうすでに体の一部は手に捕食されている。もはや人間というより肉の塊と呼んだ方が正しいのかもしれない。それでも彼女は新郎の体を強く抱きしめた。
 これが愛なのか。もしそうであるというのならば、愛は人の心に覆面をするのだろうか。
「童貞が愛を語る資格ないから」
 新婦の友人たちがまるで引き寄せられるようにそばへ駆け寄った。皆、モデルのようにスタイルの良い友人だ。赤や黄色などのドレスが華やかだった。新郎の血さえついていなければ。
 新婦は振り向くと、柏木を強く睨んだ。まるで全ての悪意を投げつけるかのように。
「あんた、許さない」
 友人たちの細い腕が、赤褐色に変化した。彼女たちの腕から幽体離脱するかのように手が浮いた。指の先端で何かを探すような動きを見せた直後、柏木を目がけて一気に襲ってきた。変色した手の大群が柏木の顔めがけて一斉に伸びた。柏木はマイクを振り回して手をはねのけると出口まで走った。会場の出入り口のドアは、群がっている手で塞がっている。ドアの脇に逃げようとしている客が沢山座り込んでいる。柏木はドアを開けようとしても開けられなかった。
 突然柏木の両足首を手に捕まれた。柏木は動けなくなり、その場で倒れた。必死に這いずろうとしても、その場から動けなかった。さらに手首を掴まれて動けなくなった。さすがの柏木も恐怖で悲鳴を上げた。
 柏木が悲鳴をあげるなんて、人生において最初で最後だろう。
 彼女はどんなときだって取り乱すようなことはしなかった。起きることの全てが彼女の想定の範囲内なのだろう。それでもこの事態は想定できなかったのかもしれない。

 柏木は僕が死んだ日も感情を取り乱すことは無かった。
 僕は電車にはねられて死んだ。自殺じゃない。混んでいるホームで、誰かに押されたからだ。それは電車のホームで偶然にも柏木を見かけた日だった。朝の通勤でいつもの電車に乗ろうとホームで持っていたら、柏木が近くにいた。僕は話しかけようか迷ったが、一旦声をかけない事にした。すると突然、カシャンと物が壊れる音がした。音の方を見ると、線路にスマホが落ちていた。そのスマホはさっきまで柏木が持っていたスマホだった。僕は慌てて拾おうとしたが、もう少しで電車が来るかもしれない。僕は線路の向こうに電車がいないか確認した。
 その直後!僕は誰かに背中を押されて線路に落下していた。押したのが誰なのかはわからなかった。かすかに派手な赤いジャケットの男が目に入った。落ちる瞬間、その男に押されたのかもしれないと僕は思った。近くにいた人たちも赤いジャケットの人が押したのではないかと証言していた。しかし赤いジャケットの男はただそこにいただけで、無実だった。それらを知ったのは柏木のスマホになってからだ。あとから調べたら監視カメラからちょうど映らない位置での犯行だった。
 今になって思う。あの赤いジャケットの男は共犯だったのではないかと。目立つ服の男が怪しげな動きをすることで、真犯人の動きを隠していたのではないかと。しかし、それを誰かに告げることもできないし、そもそも僕はもう死んでいる。
 あの時、僕はホームに柏木と二人で立っていた。線路に落ちた時、僕は慌ててホームを見上げた。ホームにいる人たちは皆がパニックだった。しかし柏木だけは冷静だった。僕から目線を外さぬように柱へ歩いていき、非常ボタンを押した。彼女は僕を助けるために最短距離で動いてくれた。決して感情で自分を壊すようなことをせずに。彼女の対応は間に合わなかった。それだけだ。

 そして今、彼女に向かって霊のように体から浮かび上がった新婦の友人たちの手が柏木の首に向かって少しずつ迫っている。一本の手が柏木の髪の毛に触れた。まるで髪の毛一本一本を確認するかのようにゆっくりと。そしてその手は柏木の首へゆっくりと伸びていった。
 柏木は息ができなくなり、苦しんだ声を出した。さらに喉に次から次へと手が押し寄せてきた。柏木は両手両足を動かせぬまま、首を絞められそうになっている。
 助けなきゃいけない。僕が事故に遭ったときに冷静に動いたてくれた彼女のように、僕も彼女を助けなきゃいけない。でも僕に何ができるのだろう。僕は彼女の胸ポケットに入っているだけで、何も動くことができない、ただのスマートフォンだ。いや、スマホが人を助けることなんて普通は出来ないので、この計画を一緒に立てただけでも凄いスマホだ。また彼女がピンチの時に何もできないのか。

 僕は考えていた。
 考えていた、じゃないわよ。何とかできるならなんとかしてよ。
 できるかどうかはわからない。しかし、幼馴染のピンチを助けようとしないで、なにが幼馴染だ。
 そうだ、そうだ。
 冷静に判断しろ。手は配膳されている先付を必死に食べようとしている。冷静に見ると指でほうれん草のおひたしをバラバラにし、手のひらから飲み込もうとしていた。しかし咀嚼しようと何度も手のひらに送り込んでは、ボロボロと落としていた。まるで食事で遊んでいる赤子のように見える。
 そうか。
 チカは食べたいんだ。
 柏木、ローストビーフだ。そして僕は作戦を一瞬で柏木に伝えた。柏木は頷くと、強引に自分の耳を塞いだ。
「音量最大で、いつもの曲流して」
「ワカリマシタ」
 僕の中のAIは返事をした。そして、指示通りに僕は曲を流した。
 マーラー「交響曲第1番 第4楽章」、僕はBluetoothで会場のスピーカーへつないだ。披露宴会場で耳を塞ぐような大音量で曲が流れた。会場にいる人たちは慌てて耳を塞いだ。そして会場にいた手の霊も耳を塞ごうとして手のひらを大きく開いた。しかし塞ぐべき耳がなく、床やテーブルなどを塞ぐしぐさを見せた。
 柏木、今だ。
 耳を塞いだまま柏木は頷いた。心を読まれることが役に立つとは思わなかった。柏木は辺りを見渡し、配膳スタッフのデスクへ向かった。そこには本日のメインディッシュであるローストビーフが切り分けられていない状態で置かれていた。柏木はナイフを手に取ると一枚切った。そして迫ってくる手に向かって投げた。手はレアに焼けたローストビーフめがけて、飛びついた。
 よし、読み通り。お客様にメインディッシュを配膳するんだ、柏木。
 何枚も肉を切り取り、手をめがけて投げつけた。人間を襲っていた手は次々とローストビーフに食いついた。まるで鳩にポップコーンを投げる謎のおじさんのように、柏木はローストビーフを主賓テーブルの近くに投げた。全ての手へローストビーフが行き渡ったのを確認した。
「メインディッシュの配膳終了しました」
 そしてナイフを片手に披露宴の出口へ近寄った。まだ出口のドアノブを手が押さえていた。思い切りナイフを振り下ろすと、少しすき間の空いたドアを一気に押した。すると、会場にいた招待客たちが一気に押し寄せた。満員電車から人が出ていくかのように出口から次々と人が出ていった。僕は披露宴会場の外にはカメラが仕込まれていないからよくわからないが、おそらく柏木も一緒に外へ出られただろう。
「大丈夫、脱出した」
 良かった。危うく人につぶされていないか心配だった。

 そのまま柏木は披露宴会場から逃げ出した。式場の映像も距離が開いたことで、通信が途絶えて見えなくなった。最後の映像は、新婦が泣きわめきながら新郎の体にまとわりつく手を何度も振り払っている様子だった。新婦に引きはがされても、手は肉を何度も食べようとしていた。周りにちぎれた肉が散乱している様子から考えると、すでに新郎の体は原形をとどめていないだろう。
 柏木は僕を胸ポケットから出して、歩き出した。しかし自分が新郎の血で汚れていることに気づき、大通りから小道に入った。いったいどこに向かっているのはかわからないが、とりあえず逃げるのが先決だ。
 僕は披露宴会場でローストビーフを食べようとしていた手の事を思い出していた。口がないにもかかわらず、食事をしたい手というのは、なんて悲しい存在なのだろう。あの手は永遠に満たされることがない。どんなに食材が提供されようとも、最高級のローストビーフでも、人間が食べることのない肉だとしても。味わうことができないのだから。人間の脳は不思議なもので、無くなってしまった手の痛みを感じることがあるそうだ。決して触れないのに、なくなった指が痛む、そんな感覚になることがあるそうだ。俗にファントムペインと呼ぶ。もしそう考えると、手たちの空腹状態は、ファントムアピタイトと言える。
「アピタイトってなに?」
 食欲。少しは自分で調べたらどうだ。
「なんでよ」
 お前には僕がいるんだから。
 言ってみたものの、なんだか恋人のセリフみたいで恥ずかしくなった。
「恥ずかしいのはこっちだよ。なに調子に乗ってんの。ただのあんたは相棒です」
 ハイハイ、童貞の相棒です。相棒と呼ばれたことが少しうれしくなっていた。今までは童貞か幼馴染だったから。
「深い意味は無いからね」
 そうか、聞こえているんだった。聞こえてるならいいや、嬉しいぞ。
「やめて。なんかむず痒いから。あちはもう恋愛をしないと決めたんだから」
 じゃあ、ファントムラブだな。
「まぁ、あんたは幽霊だしな」
 ラブの方は認めていることに僕も柏木もは気づいていなかった。気づいていなくても、それでいい。あえて言葉にしないことがよいことだってある。
「だから、童貞が恋を語らないでくれる?」
 童貞だって、恋するんだからな。
 僕の気持ちに返答するように、柏木は立ち止まった。そこは小さなビルが立ち並ぶ隙間に小さく開いた地下鉄の入口だった。
 待って、その格好で電車乗る気?
 柏木は自分の格好を見た。スーツには返り血が大量についており、明らかに電車に乗ったら不審者と間違えられる。
 ちょうど目の前をタクシーが横切った。柏木は手を上げてタクシーを呼んだ。運転手は後部座席を開けようとしたが、柏木の服をちらりと見るとアクセルを吹かせて立ち去った。
 突然、背後から突然声をかけられた。警察に捕まることを覚悟した。しかし柏木が逮捕されるわけではなかった。
 
「か、柏木さん」
 柏木が振り向くと、そこには中嶋が立っていた。
「なんで、ここにいいるの」
「柏木さん、凄いニュースになってますよ」
「そうか、そうよね」
「結婚披露宴で手に襲われた新郎が変死しているって投稿を見て、心配になってきちゃいました」
「裏切ったくせに」
「その件に関してはすみません」
「また一緒にやる?」
 中嶋は首を振る。
「じゃあ何しに来たの?」
 中嶋は真っ赤なジャケットを柏木へ手渡す。
「柏木さんに逃げてもらおうと思って。捕まったら僕だってまずいです」
「そっか。あんたも小賢しい一面もってたんだ」
 中嶋は照れた評定をした。そして鞄から服を取り出した。
「あと、これ、柏木さんに借りた奴。僕が持ってないほうが、柏木さんも安心しますよね」
 柏木は受け取るなり、驚きの声を上げた。
「重くない?」
「ポケットに、リンゴいれときました。お腹すいたら食べてください」

 どういうことだ、柏木。そのジャケットは忘れもしない。あの時ホームにいた男のジャケットだろ。それを中嶋が持っているということは、どういうことだ。柏木から借りたという事はどういうことが。おい、柏木。聞いてるのか?突然聞こえなくなるなんておかしいだろ。な、柏木。僕は聞いているんだよ。つまり、中嶋は僕を殺したという事か。それは、もしかしてお前たちが僕を。
「それを着れば、タクシー乗れるんじゃないんですか? 代わりにその血だらけの服処分しますよ」
 柏木は自分のジャケットを脱ぐと、赤いジャケットを着た。
「目立つんじゃない?」
「血だらけよりいいですよ」
 手渡されたジャケットを袋にしまいながら中嶋は笑った。そして走っているタクシーを捕まえた。
「逃げてください」
「ありがとう」
 柏木はタクシーの乗り込むと、運転手へ長野県のとある町を告げた。運転手は驚いたが、財布を取り出してお金を見せると納得してメーターを上げた。そしてぼそりと呟いた。
「幼馴染は恋愛対象にならないっていったの、あんただからね」
 タクシーは走り出した。柏木は後方を振り向いて手を降った。おそらく中嶋が見送っているのだろう。
 そして一息つくと、柏木はどんなニュースが流れているのか確認した。参列者が投稿したSNSでの動画がバズっている。まるでホラー映画のように手が新郎を襲う映像は、AIが作ったかのようだった。こんなのは偽造だという人達が大半を占めていた。投稿者のモラルがないとして投稿者を叩くものまで現れていた。
 モラルという言葉は、いつ人間を攻撃していい理由になったのだろうか。

 通知が一通届いた。
 柏木がこの通知を見たら喜ぶだろう。ずっと彼からの連絡を待ってたはずだから。僕は正直なことをいうとこれを柏木には見せたくない。ジンギスカンを食べながら楽しそうに話す柏木を傍で見るのなんて苦痛だ。いままでずっと僕はそうだった。僕に恋人ができなかったのは、僕が童貞なのは、僕が成仏できずにスマホになってしまったのは。
 全部、理由はひとつだ。

 でもわかったことがある。結局僕は柏木にとってスマホと一緒なんだ。いや、スマホになる前から僕はスマホなんだ。ずっとそばにいて、言われたことは何でもこなして。僕はいつだって柏木の便利な道具なんだった。
 だから、このメールをみて柏木が喜ぶということを受け入れなきゃいけないだ。その覚悟をする必要があるんだ。ジンギスカンでもジャンバラヤでも食べにいけばいい。 
 柏木は通知を押した。僕は、届いたメッセージを表示した。
 あとごめん。今、心で嘘をついた。そのメール、あの優しい上司からじゃないから。

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いただきます

 次の瞬間、僕の体の中を深い憎悪が通り過ぎた。直後に、僕の液晶から滝が流れ出すかのような解放感を感じた。次の瞬間、赤褐色の手が柏木のこめかみをわしづかみにした。さらにたくさんの手が柏木を襲った。何本も、何本も。まるで大量の鳩が餌に群がるかのように。正直、僕にも柏木がどうなっているのかわからない。たくさんの手の隙間から見える柏木の顔は、次々と赤くなっていた。前の座席が少しずつ赤い血の跡で染まってきた。
 車の急ブレーキの音がした。柏木がもがき苦しむ声もする。運転手の悲鳴、からのドアを開閉する音。タクシーの後部座席は、真っ赤に染まった地獄だった。
 どんどんと僕の液晶から手が飛び出してきている。その数が多すぎてインカメにも柏木が襲われている様子は見えなくなった。大きな獲物に群がる小さな蟻の大群のように、チカの手が柏木の顔へ、首へ、胸へ、腕へ、至る所に群がっている。

 はじめてサッカーボールを買ってもらったときに、「貸して」といいながら公園で華麗にドリブルをはじめたのは柏木だった。
 柏木がはじめて作った手作りチョコレートを試食したのは僕だった。
 どんな関係なのかと友人に聞かれるたびに腐れ縁と
 いつも柏木がそばにいた。
 それだけでよかった。
 幼馴染との恋愛は、この世で一番難しい恋愛なんだ。近くて、近すぎて、それが恋なのか、愛なのか、友なのか、家族なのか、まったくわからない。
 本を目の前においたら文字が読めなくなるように。
 そこにどんな思いがかかれていたとしても。
 柏木、お前の心にはなんて書いてあるんだ。
 僕には最後までわからなかった。

 助けて。助けて、悠斗。あち、死んじゃう。

 これは彼女から届いたテレパシーなんだろうか。
 それとも僕の妄想が作り上げた幻聴なのだろうか。
 濡らした粘土を子どもが捏ねているかのような音がマイクに流れ込んでくる。それが何の音か考えるのは止めることにした。車内は柏木の血で真っ赤に染まっている。座席も、窓も、柏木の服も、何もかもが真っ赤だった。後ろからクラクションが何度も鳴っていた。もしかして車の後ろに停まっているのは、短気な運転手なのかもしれない。降りてきて窓をゴンゴン叩いたりする人じゃないといいけどな。気をつけてね、運転手さん。ドアを開けたら、襲われるよ。
 そうか、こんな気持ちなんだ。フラレた相手を殺すというのは。
 柏木はどんな気持ちだったんだろう。
 僕は、一度でいいや。

#創作大賞2025 #ミステリー小説部門

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