#体は心の容器です 第三話 透菜【note創作大賞】
透菜(1)
指揮者はタクトを草原を吹き抜けるそよ風のように振った。それに合わせてオーケストラのメンバーは咲き誇る花のように色とりどりの音を奏でた。そして指揮者が指揮棒をピタリと頭上で止めると、時間が一瞬止まった。そしてステージ中央でオーボエを構えている透菜へ促した。
恋愛小説を朗読するかのように、透菜はオーボエを演奏し始めた。愛する人を失った悲しみの世界が会場を包みこんだ。そして徐々に主人公の絶望に光が差すかのように曲のテンポが上がった。曲の最後にはまるで虹が架かるように主人公の希望の架け橋が会場に降りてきた。
逢崎透菜は、高校1年生の際に日本のオーボエコンテストで最優秀賞を取り、その後の国際的に行われるオーボエのコンテストでも最優秀賞を獲った。はかなげな少女が歌い上げるかのように奏でるオーボエの音色に、日本だけではなく世界にファンが沢山いた。透菜はこのコンサートを終えると、海外の交響楽団へ入団するためにヨーロッパへ移住することになっている。
演奏終了後も観客の拍手が鳴り止まなかった。観客席に座っていた愛慕も大きな拍手を届けた。透菜は観客に何度も頭を下げた。そして最後に頭を下げた瞬間、ゴトンという音ともに床へ倒れた。最初は何が起こったかわからなかった。しかし前に座っているトランペット演奏者が慌てて透菜の体を起こし、そのまあ四人がかりで下手に運ぶ姿を見て、愛慕は異常事態を理解した。
――もしかして私を捕まえようとしてます? ムリムリムリムリムリ #体は心の容器
透菜が目を覚ましたのは病室だった。ついさっきまで演奏していたという記憶があるにも関わらず、なぜ病院にいるのか理解できなかった。そばで父と母が涙を流しており、何が起きたのか尋ねても母は首を横に振るだけで、何も教えてくれなかった。父は言葉を選びながら慎重に答えた。
「脳で出血したみたいなんだ、でも大丈夫だから」
透菜は体を起こそうとした。しかし思ったように体が動かなかった。
「まだ、激しく動いちゃダメですよ」
医者が父の後ろに立ち、透菜に話しかけた。
「あの、来月にヨーロッパへ行くんですけど大丈夫ですよね」
医者は寂しそうに微笑んだ。
透菜は脳に重大な後遺症がないと診断され、医者からは一週間の安静が勧められた。退院を急ぐ彼女はリハビリを始め、医者も彼女の回復を見て早期退院を検討していた。透菜は医者の言葉に励まされ、半年遅れでもヨーロッパ旅行ができるよう両親に相談した。
――助けてくださいって言われて、気持ちいいだろ #体は心の容器
それから約二ヶ月が経ち、退院まであと数日。母は透菜に優しく語りかけた。
「透菜ちゃん、あと少し病院にいようか」
「どうして? 脳出血の後遺症もないし、二ヶ月すれば退院できるって言ってたでしょ」
母は頷いた。
「早く退院して、ヨーロッパの準備しなしゃ。迷惑かけてるんだから」
母は更に強く頷いた。
「ねえ、なんで退院できないの?」
母は涙を隠すために顔を両手で覆った。
「なに? 脳になにか見つかったの?」
母は顔を抑えつつ首を横に振った。
「じゃあなんなの、私のことなんだから教えてよ」
「他にも良くない所があるんだって」
母は透菜の症状を伝えた。別の所に問題が見つかり、既に完治は難しいこと。そして病気の進行は早く、あと一年生きられればいい状態であること。
母から事情を聞かされた透菜は、「早く言ってよ」と叫び、手元の枕を母親に向かって投げつけた。
その後、透菜はベッドから立ち上がった。
「一人になりたい」
母がついて行こうとしたが、廊下に立って話を聞いていた医者は母を止めた。そして、医者は透菜の後を追った。
病院の周りには桜の木が並んでいたが、満開の時期はすでに終わり、多くの花びらが散っていた。透菜は桜の木の下に立ち、空を見上げていた。そのとき、スマートフォンで桜を撮影しながら歩いている若いカップルが通りかかった。
「もう咲いてないね」
「でもさ、来年のお楽しみが増えたじゃない?」
「また来年、桜見られるといいね」
「来年も、再来年も、ずっと」
透菜はカップルの会話を聞かないように耳を塞いでいたが、それにもかかわらずカップルの男性が彼女に話しかけてきた。
「すみません、写真撮ってもらっていいですか?」
男性はスマートフォンを透菜に渡した。彼女は少し強引にそれを受け取った。男性が女性の元に戻ると、二人は寄り添ってポーズをとった。
「来年も同じ写真撮りたいね」
女の声が聞こえた。透菜は二人を撮影するポーズを撮るふりをして、スマホを地面に叩きつけた。
立ち去ろうとした透菜は背後から肩を掴まれた。振り向くとカップルの男が立っていた。
「俺のスマホになにしてくれてんだよ」
男性は透菜に睨みを利かせたが、透菜もまた彼を睨み返した。男性が透菜に向かって拳を振り上げようとしたその時、車椅子に乗った女性が突如として二人の間に割って入った。男性は慌てて車椅子の侵入を止めた。
「なんだよ!」
「ごめんなさい、この車椅子、前世が学級委員なのですぐケンカを止めたがるんですよね」
車椅子の女性がそう言った後、透菜を守るかのように車椅子を男性と透菜の間に滑り込ませた。男性は不満げな表情で車椅子越しの透菜を指差した。
「こいつがスマホを地面に捨てたから」
すると車椅子の女性はカップルの女性に向かって声を上げた。
「すみませーん! あなたの彼氏が怖いんですけど!」
カップルの女性が落ちたスマホを拾い、それを持って男性に近づき、彼のベルトを引っ張った。
「もう、いいよ。帰ろう」
「でも」
「ケンカはダメって先生に教わりませんでしたか?」
男は悔しそうな顔をしながら女を連れて立ち去った。
透菜は車椅子の女性がこちらを見て微笑んでいるのを見て、ため息をついた。
「助けたつもりですか?」
「私は何も。この車椅子の前世が……」
透菜は車椅子の車輪を蹴りつけた。女性の車椅子がバランスを崩して倒れかけた。透菜はそれを無視して車いすの女性に吐き捨てるようにつぶやいた。
「車いすに前世とか無いから」
透菜は車椅子の女性を置いて立ち去ろうとした。しかし車椅子の女性は去っていく透菜へ声をかけた。
「もしかして、余命宣告されましたか?」
透菜は心臓がぎゅっと掴まれるような感覚に襲われた。そして、母から聞いた言葉を頭の中で繰り返していた。
――脳とは別の所に問題が見つかったの。もう手遅れなんだって。
透菜はその場にしゃがみ込み、涙を流した。車椅子の女性は、透菜の肩を優しくたたいて慰めた。
「私で良かったらお話聞きましょうか。ちなみに私は余命六ヶ月です」
透菜(2)
【心交換師事務所:ドーム球場】
ピッチャーマウンドにいるモーリーは、キャッチャーの愛慕と目で合図を交わしていた。一塁側のベンチから、汐里が駆け出しモーリーのもとへと急いだ。
「モーリーさん、お願い事があります」
「ピッチャー交代?」
「ドムさん、一旦試合終了にしてくれます?」
周囲の選手たちは一瞬にして姿を消し、バックネットのスコアボードには「9」の数字が並んだ。
「余計なことするな」
「どうしても心交換して欲しい人がいるんです。昔、私の近所に住んでた女の子なんです」
汐里はモーリーに透菜の話をした。世界的な演奏家として将来素晴らしい成果を挙げるであろう人物が、このまま忘れ去られてしまうのは非常に残念だ。その話を聞いたモーリーは、小さくつぶやいた。
「それで?」
「それでって……」
「仮に心が交換され、その女子高生が別の人間になったとしたら、女子高生の体に入る人は亡くなることになる」
汐里は下唇をぐっと噛んだ。モーリーは汐里を指さした。
「だって。私のために交換してくれる人を探してくれてるんでしょ? 同じじゃないの?」
「それとこれと話が違う」
「一緒じゃない?」
「一緒じゃない! 俺は……」
モーリーは喉元まで上がってきた言葉を飲み込んだ。
「とにかく、俺はできない」
「なんでよ」
「お前はこれから病気で死ぬ人間を俺に選べと言っているのと同じなんだ。そんな権利は俺にない」
「だって。私のために交換してくれる人を探してくれてるんでしょ? 同じじゃないの?」
「それとこれと話が違う」
「一緒じゃない?」
「俺はお前に……」
「そもそも、モーリーに他人の心を交換する権利なんてないでしょ。全然論理的じゃないじゃない」
球場のバックスクリーンに「正論」という文字が大きく表示された。汐里は視線を逸らすモーリーの前に立ち、つま先に頭がつくほどの勢いで深く頭を下げた。
「一生のお願い」
モーリーは汐里の言葉を無視して、キャッチャーに向けて剛速球を投げた。
――誰に断って心の交換してるの? #体は心の容器
透菜は病室で布団にくるまって眠っていた。布団の外から看護士の足音が聞こえたとき、彼女はイライラして叫んだ。
「うるさいから静かにして」
廊下の足音が少し遠のいた。透菜は抑えきれない感情を右手に集めて枕を叩いた。ベッドの隣に置いてあったケースからオーボエを取り出し、組み立て始めた。
廊下には車椅子の音が響いた。
「透菜ちゃん」
透菜は頬を伝う涙を袖でそっと拭った。汐里に気づかれないようにオーボエを枕の下に隠し、車椅子に座る汐里に小さく手を振る。汐里は透菜の不安を消し去るかのような明るい笑顔を浮かべた。
汐里と透菜が楽しそうに話しているところへ、透菜の母親が病室に入ってきた。彼女は両手に大きなかばんと植木鉢を持っていた。
「ほら、病室は味気ないから緑色を持ってきたの」
母親は窓辺に鉢植えのサボテンを置いた。それは丸い形と硬い棘が特徴の金鯱という品種である。
「サボテンって百年生きる事もあるんだって。透菜もサボテンみたいに長生きできるようにって母さん思ってさ」
更に母親はかばんをベッドの横に置いてファスナーを開けた。汐里はその中身を見て驚いた。
「凄い、沢山!」
「そうでしょ。これがね中学の時の文集とコンサートの時の楽譜ね。それでこっちがコンクールのトロフィーと賞状。病室に飾ろうか」
透菜の母親はかばんからトロフィーを取り出し、病室に飾りつけ始めた。汐里はそのトロフィーの一つに近づき、じっと見つめた。
「凄いね、透菜ちゃん。最優秀賞が何個もある。知らなかった」
透菜は首を小さく振った。
「そうなの。透菜はすごいのよ。見て、これなんて透菜が小学校の時に獲った賞」
「小学生? 凄い!」
汐里が感嘆の声をあげる中、透菜はベッドから降りて、透明なガラスのトロフィーを手にした。
「それは、初めて透菜が金賞をもらった時の……」
透菜がトロフィーを床に叩きつけると、トロフィーは大きな音を立てて粉々に砕け散った。
「なにをするの。これは透菜ちゃんが初めて獲った賞なのに」
母親が慌てて割れたトロフィーを拾い集める姿に、透菜はイライラして、枕に隠していたオーボエを母親に向かって投げつけた。
「もう、やめてよ」
「どうしたの透菜ちゃん」
「こんなの全部無駄」
「何を言ってるの!」
「だって、こんなの体ガチャ失敗でしょ?」
透菜の声が病室の外まで届いた。母親は「ごめんなさい」と言ってその場に座り込んだ。
「そうね、私がもっと元気な子に産めば良かったんだわ」
透菜はベッドにうつ伏せになって泣き始めた。汐里はベッドに近寄り、透菜の肩を優しく叩いた。
「知ってる? この病院に十年前から意識不明の人がいたんだって」
「……知ってます。私の幼馴染のお姉ちゃんなんです。でもこの間連絡したらいなくなったって言われて心配なんです」
「やっぱりそうなんだ。オーボエの上手い子がお見舞いにきてたからって聞いてたから」
「はい。何回か汐里お姉ちゃんの横でオーボエ吹いたんですけど。汐里お姉ちゃんと知り合いなんですか?」
「……うん。今は退院してるけど」
「意識戻ったんですか? 元気なんですか?」
「意識が戻ったのは奇跡だって。いつもお見舞いに来てくれてありがとうって言ってた」
透菜は安心したように笑顔を見せた。汐里は落ちたオーボエを拾い、透菜のそばに置いた。
「だから透菜ちゃんも元気にならなきゃ。今度こそオーボエ聴いてもらわないと」
透菜はオーボエを握りしめて大きく頷いた。
――ねえねえ、他人の体で生きてるのどんな気分? #体は心の容器
【心交換事務所:図書館】
本棚には多くの本が整然と並べられていた。その中の一冊が突然飛び出し、床に落下してページが開かれた。そして、開いたページからモーリーが現れた。
「今日は朗報だ」
「なに?」
「汐里との交換候補を見つけた」
モーリーは汐里に紙を一枚見せた。彼女はプロフィールを目にした。年齢は三十歳の女性で、図書館で本を読むような静かな印象の写真が添えられていた。手首には数えきれないほどのためらい傷があった。
「寿命が短くても家族に惜しまれながら死ぬんだったら、今よりよっぽど良いって」
「そうなんだ」
「心交換したら、破産申告した後に整形して、人里離れた沖縄に移住。そこで犯人をまた探せば……」
汐里はプロフィールの女性の引きつった笑顔を見つめた。
「相談なんだけど。この人とこの間の女子高生と交換しちゃダメ?」
モーリーは目を二倍に大きくして驚いた。
「待てよ。お前のためにどれだけの人数探したと思ってるんだよ」
「ほら、もう一人見つかればいいんでしょ」
「その前にお前が……」
「でも、一人見つかったなら、もう一人いるかもしれないでしょ」
「その先に、お前が…」
「透菜ちゃんは私が入院してるときもずっとお見舞い来てくれてたの。もしかしたら透菜ちゃんのおかげで意識が戻ったかもしれないんだから。今度は私が透菜ちゃんのためになってあげたいの」
モーリーは何か話そうとして、そのまま口をつぐんだ。
「一生がそろそろ終わりそうな人間の、一生のお願いくらい聞いてくれない?」
――そろそろ時間切れじゃない? おつカレーピラフ #体は心の容器
透菜は母親と共に汐里の話に耳を傾けていた。その内容は信じがたいものだったが、彼女は最近「心交換師」がバズってることを知っていた。
「それでね、整形して避難してもらう必要はあるんだけど、なんとか生きていけると思います」
透菜の母親は会話に割り込んできた。
「透菜ちゃんはオーボエ吹けるようになるの?」
汐里はこくりと頷いた。
「筋肉とか肺活量のトレーニングは必要ですが、技術は心が覚えていますから」
「あと、私は新しい透菜ちゃんに会っていいの?」
汐里は首を振った。
「できれば、控えていただけると」
「なんで?」
「心を交換する事は、新しい人間になるという事ですので」
母親は透菜の肩を掴んだ。
「母さんは反対。それ、透菜じゃなくなるってことでしょ」
透菜は下を向いて手元の傷ついたオーボエを見つめた。
「ねえ、心交換したらオーボエまた吹けるんだよね」
汐里は優しく頷いた。
「母さん、私ね。オーボエを最初に吹いたときの母さんの笑顔が忘れられないの。あの笑顔のために私はオーボエを吹いてるの。今でも母さんのことを思いながら吹いてるんだよ。だから会えなくても、私の音は必ず届くから。母さんならわかってくれるでしょ、私の音」
「でも」
「だって、このまま死んじゃったら吹けなくなるんだよ」
透菜が突然咳をし始めた。母親はすぐにナースコールを押し、看護師と医師が急いで病室に駆けつけた。汐里は病室から出て、廊下で待っていた。
しばらくすると、母親が病室から出てきた。そして汐里に向かって頭を下げた。
「透菜をよろしくお願いします」
汐里は、母親の辛そうな表情を見ながら頷いた。
そしてスマートフォンを取り出しモーリーに連絡した。
――透菜さんOKもらったよ。
すると、間髪入れずに返事が来た。
――まずいことになった。事務所へ。
汐里は慌てて自分の病室へ戻った。
透菜(3)
【心交換事務所 滝壺】
「嘘でしょ」
汐里は目の前に広がっている光景に愕然としていた。滝壺には、白い服を着た女性がゆらゆらと浮かんでいた。その右腕にはためらい傷が何個もついていた。
「ドム、ありがとう」
女性の死体が浮いている滝壺から、水がゆったりと流れる川辺に場所が変わった。
「待ちきれなかったか」
「さっき、凄く喜んでいたのに」
「お約束、断ってきてくれないか?」
「無理よ」
「こっちも無理だ」
「新しい人探して。一秒でも早く」
汐里は泣きながらモーリーの体を揺すった。モーリーの体が軟体動物のようにグニャグニャと揺れた。
そして汐里は事務所からログオフした。
川の中から水死体のような愛慕がゆっくりと顔を上げた。
「モーリー、ご相談」
まるでスライムのように軟体動物と化しているモーリーが体を起こした。
「なんだ?」
「この交換希望の人、見てくれる?」
モーリーは水死体から渡された書類をじっと読んだ。そして、そのまま難しい表情を浮かべながら、川の中へ潜っていった。
――あーらら #体は心の容器
数ヶ月後。
病院の中庭にて、透菜が汐里の車椅子を押しながら進んでいた。雲ひとつない青空の下、まるでがまんくらべを仕掛けてくるかのような暑さが二人を包み込んでいた。汐里は、車椅子を押す透菜に話しかけた。
「もう完全に夏ね」
「夏は好きです。一度、一面のひまわり畑でオーボエ吹いてみたいって思っていました」
病院の中庭にはひまわりが植えられていた。もう大きく花を咲かせて、どれも太陽をめがけて叫んでいるかのような大きい花を咲かせていた。
「なんか凄そう。見てみたい」
「いつか実現させます。私、森の中でコンサートしてみたいんです」
「森の動物たちと合唱したり?」
汐里と透菜は微笑んだ。そしてすぐに汐里は表情を固くした。
「明日ですね」
「はい」
「後悔しませんね」
「むしろ、この体に代わる人には、申し訳ないです」
汐里はゆっくりと頷いた。
「私もどんな方なのかは知らないんです。最初に予定していた人とは違うのですが、たまたま見つかったそうです」
「その方にもお礼をしたいです」
「最初にお話しましたよね。心交換後は、交換した相手とは決して会わないこと」
「はい」
「元の体に出会うと、心がその体に戻ろうとして剥がれかねません。心が剥がれてしまえば、せっかくの交換が無意味になってしまいます」
「死んじゃうんですか?」
「よくわからないんです。心が剥がれるとしか言われていないので」
透菜は青空を指さした。
「青くて綺麗」
「ホント」
「意識不明になった汐里お姉ちゃん。青空みたいな人だったんです。心交換したらまた会えるかな」
透菜は空の向こうに汐里がいるかのように、空の遠くを見つめた。汐里はうっすらと流れてきた涙を透菜に見られないように慌てて拭いた。
「会いに行ってあげてください」
汐里はその時が来たら打ち明けると心に決めた。二人の間を一陣の風が通り過ぎ、花壇のひまわりが風で優しく揺れた。
心交換の日。
透菜は裸になって湯船に浸かり、膝を抱えていた。そこにいつものように突然モーリーが入ってきた。驚いた透菜は慌てて体を両手で隠した。
「覗かないって言ったじゃないですか」
「覗いていませんよ。入っただけです」
「変態」
「変態というのは通常ではないということになります。しかし本来男性というのは女性に興味がある生き物で、女性の裸に興味があるのは通常の反応です。つまり覗く行為に変態というのはおかしいと思いませんか?」
「でも、私の体は見ないんでしょ」
「ええ」
「異性の裸に興味がない?」
「ええ」
「じゃあやっぱり変態じゃないの?」
モーリーは透菜の言葉を聞いて、負けたと言う顔で笑った。
「負けました。変態でもいいです。ただ、今は心の容器にしか見えてませんから。丸くなってください。羊水にいたときみたいに」
「覚えてません」
透菜はイメージをしながら湯船で丸くなった。そしてモーリーは透菜の頭に右手を置いた。
「ゆっくりと目をつぶってください。少しずつ意識が遠くなっていきます。次に目覚めたら、新しい体になっています」
透菜はモーリーの言葉を聞きながら、少しずつ奈落の底に落ちていくような感じで意識が途切れた。
透菜はシャワーの音で目覚めた。先ほどと同じ湯船にいるようだが、シャワーが止まっておらず、お風呂が蒸気で満ちていた。湯船から出てシャワーを止めながら、お風呂のドアの向こうを見た。ドアのそばには人はいないようだ。そして自分の腕を見た。以前の自分より皺が多く、皮膚にハリがない。少し年を取った体のようだ。しかし、透菜はこの体がどこか懐かしいと感じていた。
透菜は浴室の全身鏡にシャワーをあてながら、自分の体を見た。その瞬間、透菜は裸のまま浴室のドアを勢いよく開けた。
「どういうことなの?」
モーリーは部屋の中央に置かれているソファに座っていた。透菜はモーリーのそばまで近寄ると、モーリーの襟を掴んだ。モーリーは落ち着いた口調で透菜へ伝えた。
「洋服を着ていただいても」
「ちゃんと説明して」
「守秘義務がありまして」
「どういうことか、ちゃんとしっかり説明して!」
透菜はモーリーに向かって叫ぶと、その場に座り込んだ。そして肩を揺らして泣き始めた。
「こんなのひどすぎる」
モーリーは透菜の背中にバスタオルをかけた。
「俺、急ぎの用事があるんで洋服きたら出てってくださいね」
そしてモーリーは先に部屋から出ていった。
――ふざけるのはいい加減にしろ。お前が誰なのかだいたいわかった #体は心の容器
モーリーは汐里の父の部屋にいた。部屋の壁には汐里が子供の頃からの写真が一面に貼られている。その中には小さい頃の汐里と父親の写真も貼られていた。
モーリーはどうしても見つけたいと思っていた。なぜ自分が汐里の父親に殺されなくてはならなかったのか。何か理由があるはずだ。
ムービーフォルダの中には、汐里に関する様々な動画が保存されていた。モーリーは一つずつデータをチェックをしていた。
そしてパソコンのデータの奥の方に鍵のかかった動画を見つけた。モーリーはその動画を見て、血の気が引いた。
ドライブレコーダーの画像だった。
道路を普通に走っている画像だったが、横断歩道にさしかかった時に一人の女の子が走り込んできた。そして向かいから走ってきた車が女の子をはねた。女の子は体操選手のように空中を何度も回転して道路に叩きつけられた。そしてひいた車はそのまま走り去った。
ドライブレコーダーのついた車は側道に停めて、動画は終わった。
モーリーは何度も女の子をはねた瞬間を繰り返して見た。何度も、何度も。そして、一呼吸ついた。
子供の頃の記憶。この車、この番号。よく覚えている。つまり、汐里をはねた車の正体を、汐里の父親は知っていたことになる。
モーリーはパソコンの調査をさらに進めた。気になるSNSが一つあったが、パスワードが自動保存されておらず、どうしてもログインできないアカウントが一つだけ存在した。他のアカウントはアクセスできるのに、このアカウントだけがアクセスできなかった。モーリーは何か重要なものが隠されていると感じ、何度もパスワードを試みたが、ログインには成功しなかった。その時、愛慕からのメッセージがスマートフォンに届いた。
――汐里が怒ってる。事務所へ
【心交換師事務所 事務所】
汐里は激高していた。
「おかしいでしょ!」
モーリーと愛慕は汐里の勢いに押されて、ソファの陰に隠れた。
「だって、何のために透菜ちゃんがオーボエ吹いてると思ってるの?」
汐里は事務所にあるものを片っ端からつかんで投げつけた。それらを避けながらモーリーは言った。
「でも、交換希望が来たから」
「来たって、断ればいいでしょ!」
「他にいなかったし、汐里だって誰でもいいから早く見つけろって言っただろう?」
「言ったけど、そうじゃないよ! 透菜ちゃんの気持ち考えてよ!」
汐里はその後も事務所で暴れ続けた。
透菜は通い慣れた道路を歩き自宅へ向かった。そして自宅の玄関を開けると、リビングに向かった。
リビングには父がいた。父の顔を見ないようにそっと二階へ上がろうとした。
「帰ってきたのか?」
ドア越しに父の声がした。透菜は父に姿を見られる前に二階の自分の部屋へ向かった。
自室のドアの鍵を閉めると、鏡を見つめた。
鏡に映った自分の姿を見つめた。
間違いなく母の姿だ。
机の上に見慣れない封筒が置かれていた。封筒の外側には透菜へと書かれていた。透の文字あたりには涙が落ちたかのようにふやけた跡があった。
透菜は手紙の封を開けられず、じっとその封筒を見つめていた。
突然、鍵を閉めたはずのドアが開いた。
「おかえり」
父が入ってきた。透菜は返す言葉がわからなかった。
「その反応は、やっぱり透菜なのか?」
透菜はスカートの裾をギュッと握った。透菜が母の日に選んだドット柄のスカートだ。父親は机の上の手紙を指差した。
「母さん。泣きながら書いたよ」
透菜は父の顔を見た。
「知ってたの?」
父は頷いた。
「二人で相談した。母さんと決めたんだ」
透菜は父を睨みつけた。そんな透菜に向かって父親は頭を下げた。しかし透菜は父に向かって叫んだ。
「わかってる? 母さん、死んじゃうんだよ!」
透菜は父親に殴りかかった。しかし父親に抱きしめられ、体中の力が抜けた。そのまま子供の頃のように泣き続けた。
――何いってんの、ばーか。 #体は心の容器
一週間後。
透菜は黒いケースを持って病院の門をくぐった。そして病院の入り口を通り過ぎて、中庭へ向かった。
花壇には、ひまわりが咲いていた。ほぼ全てのひまわりが大きく開き、空に向かって笑っているようだった。透菜はケースからオーボエを取り出した。
母親の体になった透菜はオーボエを吹き始めた。優雅で少し切ないオーボエのメロディが病院の中庭に響いた。透菜が吹いている曲は母親と相談して決めた、初めて透菜が日本一になったときの曲だ。
せつなくて苦しくて、それでいて美しいメロディー。そしてなぜか初めてではなく何度も夢の中で聴いていた気がした。
病院の窓にはオーボエの音色を聞いて患者達が集まっていた。拍手をする人、聞き惚れる人、涙する人。透菜はオーボエを吹きながら、中庭から見える窓に一人の人物がいないか探していた。しかしその姿は見つからなかった。
オーボエの音色に合わせるかのように、花壇のひまわりが揺れていた。
――待ってろ、捕まえてやるから #体は心の容器
「聴かないんですか?」
汐里はベッドにいる女性に声をかけた。窓を閉め切った病室のベッドには透菜と心を入れ替えた母親がいた。
「聴くと、会いたくなるから」
「もう一ヶ月、毎日来てるんですよ、お母様にオーボエを聞いて欲しくて」
透菜の母親は首を振った。
汐里はスマホを取り出して再生ボタンを押した。スマホからオーボエのメロディが小さく聞こえてきた。
「私、バイト先の約束を破ります」
「どういうこと?」
「二人は会っても心が剥がれたりしません。でもトラブル回避のためにそう伝えるようにモーリーに言われていました。でも二人が二度としゃべれないなんて我慢できません」
汐里は廊下を指さした。透菜の姿をした母親はそちらを見た。そこにオーボエを持った母親の姿をした透菜が立っていた。
「透菜……」
母親はベッドから降りて、透菜の方へ歩み寄った。透菜が手にしているオーボエは小刻みに震えていた。
「お母さん、お母さん!」
二人は駆け寄って抱き合った。
「お母さん、なんで。なんでなの! 死んじゃヤダ」
「透菜、ごめん。透菜が先に死ぬのなんで母さん耐えられない。だからいいのよ」
汐里は号泣しながら抱き合う二人をじっと見つめていた。
汐里は透菜と母親を見ながら、自分の母親の事を思い出していた。母は私のためにここまでしてくれるのか。汐里が目覚めたときに泣いていたが、この母娘の涙とは違うのではないか。
――私が死んでも、泣いてくれる人はいるのだろうか。
突然、汐里の肺に激痛が走った。汐里は胸の辺りを掴みながら、痛みを訴える声をあげた。透菜と母親が汐里の異変に気付いたが、それより先に通りかかった看護士が慌てて駆けつけ、意識がなくなっていく汐里に声をかけ続けていた。
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