華北分離工作
森水学園第三分校のサイトに、「日本が壊れるまでの道(16) 華北分離工作」を追加しました。
ここに全文を転載します。
イシ: 話を中国大陸に戻そう。
日本軍は1931(昭和6)年に満州事変を起こし、1932年に満州国を設立。それだけでは飽き足らずに1933年に熱河侵攻で実質的領土を広げた。蒋介石は日本軍の侵攻を食い止めることより中国共産党勢力の一掃を優先して塘沽停戦協定に応じた。
……と、ここまではすでに学んだね。
中国国内では抗日運動がどんどん激しくなっていった。これに対して、日本国内では1934(昭和9)年12月に陸海外三相関係課長の間で「対支政策に関する件」という方針が決定された。内容は、すでに実質上日本がほぼ制圧している中国北部に国民政府の支配力が及ばないようにしつつ、抗日運動、排日感情を抑え込み、満州国のような親日傀儡政権を樹立し、日本の経済権益をさらに増やしていく、というものだ。
関東軍は満州国内での抗日運動や労働力不足などの問題にぶつかっていて、それを解消するためには、満州国に隣接する華北五省にも満州国のような傀儡政権を作ろうとしていた。
凡太: 満州国のようなものをもう一つ作ろうとしたということですか?
イシ: そういうことだね。華北五省は黄河流域を含んだ広大な地域で、鉄や石炭の資源もある。しかも河北省には現在の中国の首都である北京という都市もある。まさに中国の中枢部といっていい場所だ。

蒋介石は、日本のこうした動きを察知してはいたものの、日本と本格的な戦闘を始めるだけの力はまだないと分かっていたので、1935年1月、「日本人と中国人は手を携えなければいけない。日本に対しては領土侵略をさせずに経済提携関係を結ぶべき」と表明した。岡田啓介首相や広田弘毅外相も、日本は中国を侵略しない、平和的解決を求めるということで了承したので、3月には中国国民党政府が排日運動をやめるようにと表明した。
しかし、軍部はその間もどんどん華北五省を中国国民党から分離させる工作を進めていく。5月、天津に司令部をおいている支那駐屯軍の梅津美治郎司令官は、「匪賊」による抗日ゲリラ戦闘が頻発しているという理由で、国民党政府の華北軍事責任者・何応欽に対して、塘沽停戦協定を守って河北省から撤退しろと迫り、これを呑ませた(梅津・何応欽協定)。この協定の内容については梅津司令官は当初は知らされず、駐屯軍の酒井隆参謀長と高橋坦陸軍武官が策動したとされている。
蒋介石はこれを知って日本に抗議したが、広田外相は「これは塘沽停戦協定に関わる軍事事項なので、それに関与していない日本政府は管轄外だ」として取り合わなかった。
凡太: ええ~? 日本政府が、軍部のやることだから政府は関係ない、って言っちゃってるんですか?
イシ: そうなるね。もう、政府の体をなしてない。
さらに、河北省の北に位置する内蒙古・察哈爾省でも、同様に「日中国交に悪影響を及ぼす機関を察哈爾省より撤退させる」という内容を含む「土肥原・秦徳純協定」を結ばせた。これは当地で特に反日感情を強く持つ宋哲元が率いる国民軍第二十九軍の勢力を排除する目的だった。

土肥原賢二(1883-1948)
岡山県出身。陸軍士官学校(16期)、陸軍大学校(24期)を経て、参謀本部中国課付大尉として北京を中心に対中国工作を担当。昭和6(1931)年、奉天特務機関長。満洲事変では奉天臨時市長。甘粕正彦を使って溥儀の天津脱出工作も成功させる。華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。その後も特務機関・土肥原機関を設立し、多くの工作任務を遂行。
昭和16(1941)年4月に大将に昇進し、以後、航空総監、東部軍司令官、シンガポール第7方面軍司令官、教育総監、第十二方面軍司令官兼東部軍管区司令官、第一総軍司令官、軍事参議官などを歴任。敗戦後はA級戦犯として死刑を宣告され、処刑される。満65歳没。

梅津美治郎(1882-1949)
大分県中津市出身。陸軍士官学校(15期)、陸軍大学校(23期)を経て、参謀本部編制動員課長、陸軍省軍務局軍事課長を歴任。昭和9(1934)年3月に支那駐屯軍司令官に就任し、11月に宋哲元の軍と衝突した際には宋哲元と折衝し、関東軍の追撃を中止させる。翌1935年6月に国民革命軍の何応欽と「梅津・何応欽協定」を締結し、河北省内の国民党支部、中国軍を撤廃、撤退させた。二・二六事件では反乱軍の排除に努め、事件後、陸軍次官に就任。寺内寿一陸軍大臣の下で陸軍皇道派の排除人事を断行。その後、関東軍司令官に就任し、政府を無視し続けた関東軍参謀らの粛正人事を断行。太平洋戦争では承和19(1944)年7月、辞任した東條英機の後任として参謀総長に就任。海軍が対米細菌戦(PX作戦)を計画した際には、「人類対細菌という終わりのない戦いになる」として反対し、撤回させた。1945年8月9日の御前会議では本土決戦を主張したが、天皇にポツダム宣言受諾を翻意させようというクーデター計画を知ると断固反対し、阻止した。9月2日、米海軍の戦艦ミズーリ号艦上での降伏文書調印に大本営を代表して署名。東京裁判では終身禁固刑となり、昭和24(1949)年1月8日、直腸癌により獄中死。満67歳没。
もはや政府は蚊帳の外で、軍部がどんどん勝手に協定だのなんだのを結んで中国侵略を進めている。
昭和10(1935)年10月4日、広田外相は、(1)中国は排日言動を取締り、欧米依存から脱却すること (2)満州国を事実上黙認すること、(3)赤化(共産主義)勢力排除への協力 という三箇条からなる「広田三原則」を蔣介石政府に伝えた。
蒋介石は広田三原則には同意したが、これ以上日本が問題を起こせばそれ以上交渉はしないとも告げた。
凡太: 蒋介石はそこまで譲歩しているんですね。
イシ: うん。これで日本は、華北から中国軍を追い出すことに成功した。
10月21日には河北で民衆が減税と自治を要求して暴動を起こしたんだが、この背景には日本軍の工作があったという指摘もある。
凡太: まさに陸パンに書いてある「敵国の民族問題を利用し、内部対立や独立運動を煽ることは、思想戦の重要な戦略である」というのを実践しているわけですね。
イシ: その通りだね。暴動が起きたので同胞の保護のためやむなく軍を投入した、ということにするわけだ。
で、このタイミングで、11月4日、中国国民党政府の蒋介石は、突然、銀の海外流出を防ぐために中央・中国・交通三銀行発行の銀行券だけが有効であり、今後は銀での決済を禁止するという条例を出した。
この政策は一時的には混乱を呼んだが、結果的には中国経済を立ち直らせ、景気を回復させる成功へと導いた。しかし、日本にとっては脅威だった。日本はすでに満州国、朝鮮、台湾で円を通用させていたから、中国が独自の通貨圏を確立すれば、大陸への経済支配力が低下する。そこで、華北分離工作をさらに加速させた。
11月には中国国民政府にいた殷汝耕を担ぎ出して、塘沽停戦協定で非武装地帯とされていた地域に、殷を政務長官とした「冀東防共自治政府」というのを作った。
殷は日本に留学したこともあって、妻は日本人。日本が利用しやすい人材だったんだな。
これは表向きは、自治を要求する地域の農民らの要請を受けて殷が樹立した自治政権だということになっていたけれど、もちろん裏には日本軍の工作がある。
この冀東防共自治政府(後に「冀東自治政府」と改称)は600万人の人口を持つ22県で構成され、国民政府からの離脱を宣言した。これを実質支配していたのは日本の支那駐屯軍で、この頃は約1800名の兵力だった。
ちなみに、冀東自治政府は、日本の商品を正規の関税より安く輸入することを黙認したため、それによって日本は諸外国よりも利益を得た。その利益が冀東自治政府の財源にもなった。
当然、関税を無視された中国は、密輸同然の日本の貿易を阻止しようとしたけれど、関東軍が頑張っているのでできなかった。
さらには、この地域はアヘンの生産地域でもあったので、日本はアヘンや、アヘンを精製して作られるヘロインでも大儲けした。
日本はもともと日本国内の製薬会社の工場で作ったアヘンやヘロインを中国に持ち込んで売りさばいていたんだが、大正末期くらいからは中国国内に工場を作って製造し始めた。中国はイギリスとのアヘン戦争で痛い目に合っているので、当然これを取り締まろうとしたけれど、日本の業者は日本軍の駐屯地で製造したために、中国の官憲はこれを取り締まりきれなかった。
こうして製造されたヘロインは天津や上海などで密売され、日本の業者はボロ儲けし、中国国内では中毒患者が増えていった。
凡太: 日本はここでも、かつてイギリスなど、列強がアジアでやってきた手口を真似たんですね。

殷汝耕(1885-1947)
1902年、日本に留学。留学中に東京で清朝打倒を目指す中国同盟会に入会。日本人女性と結婚。1911年、帰国して辛亥革命に参加。中華民国成立後に国民党に加入。第二革命で革命派が敗北すると再び日本へ留学。1926年、国民政府の北伐軍に参加し、蔣介石により国民革命軍総司令部通訊処処長兼参議に就任。蔣介石の日本語通訳も担当。
1935年11月、土肥原賢二に従い「冀東防共自治委員会」の成立を宣言。国民政府から逮捕令が出される。翌月、冀東防共自治政府となり、政務長官に就任。1937年7月、宋哲元と通じていた冀東保安隊の張慶余、張硯田が蜂起(通州事件)。殷汝耕は捕縛されるが、護送隊を日本軍が襲い、殷の身柄を拘束。通州事件の首謀者と間違えられ処刑される寸前に助命され、以後は北京で隠棲。
1942年、汪兆銘の南京国民政府に参加。山西煤鉱公司董事長、国民政府経済委員会常務委員、治理運河籌備処主任、治理運河工程局局長などを歴任するも、役職に不満を抱き、辞職。
日本敗戦後の1945年12月、漢奸(抗日戦争下、日本に協力した裏切り者)として逮捕され、翌年12月に銃殺刑に処せられる。満62歳没。

一方、蒋介石は、この冀東自治政府に対抗するために、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会というのを立ち上げて、日本軍部による支配に歯止めをかけようとした。
この冀察政務委員会というのは実に興味深い組織で、国民政府側が河北省(冀)と察哈爾省(察)を統治する機関として設立したんだけれど、支那駐屯軍の了承を経て、日本人軍事顧問を招聘し、華北での自治運動と南京国民政府からの独立を支援しているような形をとっている。日本の傀儡政権のふりをした中国国民政府の機関、みたいなものかな。トップに据えられた宋哲元はいろんなものと板挟みになって、相当苦労したはずだ。

宋哲元(1885-1940)
山東省楽陵県出身。国民軍総司令・馮玉祥の部下となり、北伐に参加。陝西省政府首席代理、第九師長などを歴任後、張学良の配下となり、東北軍第三師長、中央軍第二九軍長、チャハル省主席、軍事委員会北平分会委員などを歴任。1933年日本軍の熱河省侵攻に抗戦。1935年末冀察政務委員会の委員長に就任したが、土肥原・秦徳純協定によって罷免されたが、その後、冀察政務委員会委員長となり、国民党、中国共産党、日本などと複雑な交渉をする立場となる。1937年7月、盧溝橋事件が起きると、日本軍側と難しい交渉の末、一旦は停戦に持ち込むが、中国国民政府軍参謀本部次長・熊斌に説得され、日本に抗戦する。しかし、敗北して北平、天津を放棄。中国国内世論に糾弾され、その後、軍を引退。1940年に四川省で病没。満54歳没。
凡太: そのまま日本の華北分離工作はうまく進んだんですか?
イシ: いや、学生や軍閥などの抗日運動が激化する一方で、結局はうまくいかなかった。
1935年8月1日には中国共産党が指導して抗日民族統一戦線の結成を呼びかける八・一運動が起きた。「日本帝国主義打倒」「何梅協定(梅津・何応欽協定)廃棄」「冀察政務委員会反対」をスローガンにしたこの運動は全国に広がって、12月9日には北京で大規模な学生運動が起きる(十二・九学生運動)。
これに対して、日本は、翌1936(昭和11)年1月、華北分離工作を実質的に認めることになる「第一次北支処理要綱」を閣議決定した。ただし内容としては「自治の区域は北支五省をめどとするが、地域の拡大に執着しない」「冀察政務委員会に対する指導は、当分、宋哲元を通す。民衆の自治運動も、正当なものは許容しつつ、北支五省の自治を確立する」「冀東自治政府に関しては、なるべく広汎な自由を認めつつ、南京政府が反日政策を行わないようにする。ただし、自治を急いで認めさせるような無理はしない」「日本からの指導は、金融、軍事、一般民衆の指導に重点を置き、細部は中国側に任せる。満州国のような独立国を作るというような方向はとらない」「日本人顧問は冀察政務委員会内と宋哲元率いる第二十九軍内に限定し、人数も小数にとどめる」「公共事業や産業開発などに対する人的、財的援助・融通も、日本国内の民間資本の自由進出に委ね、中国と日本の共存共栄の方針を守る」「内蒙古への工作は長城線以北に限定し、東部綏遠四蒙旗の地域には広げない」「経済進出に対して、日本軍はあくまでも側面的、内面的な指導に徹し、主導的立場には立たない」……といったもので、軍の暴走を抑え込みたいという政府の意向が読み取れる。
しかし、4月になって、日本政府は支那駐屯軍の増強を決定して、北京、天津、豊台などに送り込んだ。
中国国民政府はこれに抗議し、北京や天津では学生や市民が抗日デモが起き、各地で日本人襲撃事件も起きた。
この時期、日本国内では陸軍皇道派の青年将校らがおよそ1500名の兵を使って政府要人を襲撃する二・二六事件が起きている。これについては次の回で詳しく学ぶことにして、大陸での日本軍と中国軍の衝突について、引き続き見ていこう。
綏遠事件・西安事件
イシ: 1936年11月、自治運動が盛んだった内蒙古地区で、日本軍との協力関係を築いて徳化で蒙古軍政府を作っていたデムチュクドンロブ(徳王)が、関東軍の支援を得て綏遠省に侵攻する綏遠事件が起きた。この侵攻は田中隆吉中佐が現地で直接作戦を指揮し、十数人の予備役軍人が顧問として参戦。日本製の武器を使い、関東軍飛行隊も支援したんだが、綏遠省主席・傅作義と宋哲元が率いる中国軍に反撃されて失敗した。
凡太: 田中隆吉? 第一次上海事変のときも工作していた人ですよね。川島芳子さんとの関係も深かった……。
イシ: そう。ここでまた出てくるんだねえ。
で、内蒙古(モンゴル)の状況については少し補足説明が必要かな。
内蒙古では、もともと中国からの独立を目指す自治運動があったんだけれど、1932年の満州国成立に刺激を受けて、1934年4月、パイリンミヤオ(百霊廟)にデムチュクドンロブ(徳王/1902-1966)とユンデン・ワンチュク(雲王/1871-1938)が中心となって内蒙古政務委員会(蒙政会)という自治組織を立ち上げた。
しかし、この蒙政会は、親日派の内モンゴル軍政府(ユンデン・ワンチュク主席、デムチュクドンロブ総裁)と、中国国民政府寄りの綏遠省蒙政会に内部分裂していった。
日本政府は、綏遠事件は中国の内政問題だから日本は関知しないという立場を取ったんだが、関東軍はすでに深く関わってしまっているわけだよ。
これも表向きは「現地の住民が自らの権利と独立を求めて起こした戦いであり、それを援助しただけ」と取り繕うわけだ。これも陸パンに書いてある「敵国の民族問題を利用し、内部対立や独立運動を煽ることは、思想戦の重要な戦略である」の実践だね。
凡太: 中国、ロシア、日本との関係が絡み合って、モンゴルの状況もいろいろ複雑だったんですね。
イシ: そうだね。で、結局、この事変は中国軍が、日本軍の支援を受けた内蒙古軍を撃退したことによって「日本軍も大したことないじゃないか」となり、中国国内の抗日運動に弾みをつける結果となった。
で、直後の12月には西安事件が起きた。
西安事件というのは、簡単にいうと、張学良が蒋介石を監禁して、国共内戦をやめて日本との戦いに専念しろと説得した事件だ。
凡太: 張学良は中国国民党と手を結んで、蒋介石の配下になっていたんですよね?
イシ: そうだよ。でも、蒋介石が中国共産党との内戦を重視するあまり、日本に対して妥協し続けていることにずっと不満を持っていたんだね。
張学良は、国民革命軍の第十七路軍(西北軍)を率いる楊虎城と共に、西安にいた国民党軍のもとにやってきた蒋介石に、内戦をしている場合じゃないだろうと申し入れたんだけれど拒否されたので、兵を使って拉致・監禁し、さらに強く説得した。一種のクーデターだね。
要求の具体的内容は、内戦の即時停止、南京政府を改組して諸党派共同の救国体制とする、政治犯の釈放、民衆愛国運動の解禁など8項目。
蔣介石は当初は拒否したんだが、張学良が中国共産党の周恩来を西安に呼んで説得させ、さらには蒋介石夫人・宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)も上海から飛行機で駆けつけて夫を説得。結果、蒋介石は要求された8項目を受諾して釈放された。

楊虎城(1893-1949)
陝西省出身。孫文の紹介で中国国民党に入党。第一次国共合作が解消した後は中国共産党にも入党申請していたが、1929年からは反共主義者の蔣介石に従い、陝西省政府主席、西北綏靖公署主任に就任。国民革命軍の第十七路軍を率いた。しかし、反共より抗日を主張する張学良に同調し、張と共に西安事件を起こして国共内戦収拾に向かわせた。
1937年、日中戦争勃発後、妻や直近の人間ともども蒋介石に捕らえられ、12年間各地で監禁される。妻は虐待の果てに1947年に病死。1949年9月、蒋介石の命令で、監禁中に生まれた幼い娘、秘書夫妻ら6人と共に惨殺される。満55歳没。その直後、中国人民解放軍によって遺体が発見された。
凡太: 張学良さんは長い監禁生活に耐えながらも100歳まで生きましたが、楊虎城さんは悲惨な晩年だったんですね。家族ともども殺されるなんて。中国国民政府と中国共産党の確執というのは凄まじいものがありますね。
イシ: 張学良は晩年、「私は日本によって一生を台なしにされた」「当時の中国が日本より遅れていたのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その資源や物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし、かつての日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と語っている。
ちなみに西安事件のとき、米英は、張学良・楊虎城に対して「蒋介石の指導者としての資質は得がたいものだから、その指導的地位はできるだけ維持するように妥協しろ」と働きかけた。
一方、共産党の毛沢東は蔣介石が捕らえられたと聞いて歓喜し、ただちに処刑すべしと表明した。ところが、孫文の妻だった宋慶齢を通して、スターリンからの「蔣介石を釈放せよ」という電報を受けとって激怒したという。
凡太: アメリカ、イギリスもソ連も蒋介石の指導者としての能力を買っていたということですか?
イシ: 米英が共産党勢力の拡大を防ぐために蒋介石を守ろうとしたことは理解できるよね。一方、スターリンは、もともと蒋介石の統治能力を評価していて、最終的には統一戦線戦術に利用できると考えていたようだね。
中国国民党政府はこのクーデターを極秘にしようとしたんだが、上海に駐在していた日本の共同通信記者がこっそり東京本社に伝えたことで世界に広まった。日本がニュースの発信源となったことや、その直後に「蒋介石暗殺される」という誤報も出してしまったことで、これはまた日本の陰謀じゃないかと疑われたそうだよ。張学良は父親を謀殺した日本を恨んでいたし、日本は中国の共産化を臨んでいなかったわけだから、日本が張学良を使って蒋介石を失脚させるというのは、まずありえないことなのにね。
まあ、この事件はいろいろ謎が多いし、各国の思惑も錯綜していた。張学良は死ぬまで西安事件については口を閉ざしていたという。もし楊虎城が殺されずに生き延びていたら、どんな証言をしていただろうと思うよ。
この西安事件を受けて、1937年4月には陸軍参謀本部の石原完爾や佐藤尚武外務大臣が主導して、華北分離工作を放棄するという内容の「第三次北支処理要綱」をまとめたんだが、軍部や右翼から弱腰だと非難されてうやむやになってしまった。これが日本破滅への道を止める最後のチャンスだったかもしれない。
その直前に起きた二・二六事件で、日本国内は国民全体を巻き込んで異様な空気に包まれていた。
「驕慢な中国」から「満蒙の権益」を守るために「膺懲」(こらしめること)が必要だ(暴支膺懲)。皇国日本がアジアの盟主になるのだ(大東亜共栄圏)。邪魔をする米英何するものぞ、みたいな高揚感だね。
そうした世論を味方につけて、大陸の関東軍と支那駐留軍がさらに中国侵略を進めていった先が、本格的な日中戦争だ。

佐藤尚武(1882-1971)
東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。明治38(1905)年、外務省入省。在ロシア公使館書記官、ハルビン総領事、在スイス公使館一等書記官、在フランス大使館参事官、在ポーランド公使などを歴任。ロシア革命時にはハルビン総領事として、他のハルビン駐在連合国領事らと共に中華民国政府(北京政府)に介入を要請し、ボリシェヴィキ勢力をハルビンから排除。日本のシベリア出兵にも関与。
大正15(1926)年、駐ポーランド大使兼任で国際連盟組織委員会委員に就任。昭和4(1929)年のロンドン海軍軍縮会議では事務総長。その後、駐ベルギー特命全権大使就任。この時期に満洲事変、第一次上海事変が起きて、世界からの非難を受けながら、日本政府に自制を訴えた。昭和8(1933)年のリットン調査団報告書の採択の際は、代表団の一員として松岡洋右代表と共に議場を退席。同年、駐フランス特命全権大使。昭和10(1935)年、外務省を退任。
昭和12(1937)年、平和協調外交、中国と平等の立場での話し合いによる紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4条件を出して林銑十郎内閣で外務大臣就任。軍部や右翼から「軟弱外交」と攻撃されながらも石原完爾らと共に華北分離工作に反対。中国問題解決のために日華貿易協会会長・児玉謙次を団長とする経済使節団を中国に派遣し、中国政府要人、経済人と会合させる。しかし林内閣が総辞職。その直後に盧溝橋事件が勃発し、本格的な日中戦争に突入。その解決のために有田八郎とともに外交顧問に就任するが、頓挫。
敗戦後は参議院議員として緑風会の結成に参加。参議院外交委員長、参議院議長を歴任。昭和40(1965)年に政界引退。昭和46(1971)年12月に86歳で死去。
ここまで見てきて分かるように、現代日本では、「先の大戦」というと昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争だと認識されているけれど、実際には太平洋戦争は日中戦争の延長、あるいは日中戦争に付随した戦争だ。
で、日中戦争は1937年7月の盧溝橋事件でいきなり始まったわけではなく、実際にはそれより前の満州事変あたりから中国各地で日本軍と中国軍の戦闘状態は勃発し続けていた。さらにいえば、1915年、第一次世界大戦を利用して日本(大隈重信内閣)が辛亥革命後で混乱していた中国の袁世凱政権に突きつけた対華21か条要求あたりからずっと、中国は日本に対する敵意や鬱憤を抱え続けていたんだよね。
そこから数えれば20年以上、日本は中国の内乱につけ込んでやりたい放題してきた。その期間のことを抜きにして、太平洋戦争での対アメリカ戦争だけを取り上げて、あれはアメリカに仕組まれた戦争だとか、オレンジ計画で日本は戦争に追い込まれたとか主張する人たちがいるけれど、まずはちゃんとその前からの歴史を学ぼうよ、と言いたいね。大正末期から昭和初期にかけての日本の対中国政策がなければ、太平洋戦争が起きていたか、と。
張学良の言葉にもう一度耳を傾けてみよう。
「日本は中国を兄とは見なくても弟分と見て、その資源や物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし、かつての日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」
中国や欧米に対して、当時の日本はむしろ有利な状況に恵まれていたのに、それを政治的にうまく利用できなかった。武力と謀略で制圧することしか思いつかない人たちによって、日本は世界の中で手のつけられない問題児としてどんどん孤立していった。軍部や国粋主義者たちが日本国内で「思想戦」を仕掛け、日本の将来を大きく書き換えてしまったといえるだろうね。
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現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。
