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これっきりですか?【アマノ文筆クラブ】

「これっきりですか?」

いつものようにきらきらと目を輝かせながら、小学一年生の小さな体をうんっと伸ばして、健太は尋ねた。

「そうだよぅ、これっきりだ! ケンちゃんのために一つおまけもしといたから、もうお店のコロッケはほら、すっからかんだろ?」

店番の男が、いかにも肉屋らしい逞しい腕で、空になったショーケースを指さしガハハと豪快に笑う。つられて健太も、そしてそれにつられてお母さんも笑った。後ろを見てみると、自分の知らないおばさんも口元に手を当て目を細めているのが見えた。健太は嬉しくなってまた笑った。

「ワハハッ! また、いっぱいつくってくれますか?」
「もちろん! それがおじさんのお仕事だからね。また作っておくからおいで。奥さんも、いつもごひいきにしてくれてありがとうね!」
「いえいえ、こちらこそいつもお安くしていただいてありがとうございます」

じゃあ行こっか、と手を引かれて、健太は大好きなお母さんといっしょに帰り道の商店街を歩き始めた。
その道すがら、なんどもなんども「お母さん、これっきりだったね」と言っては笑うので、とうとうお母さんも可笑しくなって「うん、これっきりだった!」と笑った。家についてもまた繰り返してはおばあちゃんとお父さんを笑わせた。
この肉屋さんのおかげというべきか、最近の健太の口癖はすっかり「これっきり」になってしまっていたのだった。



次の日、学校から帰るなりランドセルを部屋のベッドに放り投げ、お母さんの仕事部屋に健太は顔をのぞかせた。

「お母さん、公園にあそびにいってきてもいい?」
「うーん、お母さんは別にいいけど、ケンちゃん宿題は?」

キーボードを叩く手を止め顔を上げたお母さんはちょっと意地悪そうな笑顔で聞いてくる。健太は少し弱ったが、正直に答えることにした。嘘はつかない、これがお母さんとの約束だからだ。

「……帰ってからやるもん!」
「ほんとに?」
「ほんとだよ!」
「じゃあ、5時のチャイムが鳴ったら帰ってくるのね?」
「うん!」

健太の答えを聞いて満足したのか、よしよし、とお母さんはうなずいた。そしてふっと立ち上がると、

「今日はちょっと暑いから、ちゃんと飲み物もっていかなくちゃね」

と笑いかけ、キッチンの収納棚から青いキャップのプラ容器の水筒を取り出した。

トクトクと、お母さんが薬缶を傾けていくと、容器の水位が波打ちながら上がっていく。トクトクトク。
健太は薬缶が重くて苦手だから、いつもお母さんが薬缶から水筒に入れてくれるのが不思議だった。「大人だから、重くないのよ」と言っていたけど、あんなに重いんだからそんなの嘘だと思う。トクトクトク。
今だってお母さんの手もとのヤカンはひっくり返りそうなほど傾いてる。どうやったらあんなに簡単にヤカンを使えるのかな。

トクトクトクッ、と小気味いい音を立てて、薬缶から最後の一滴が流れ落ちた。
「あら、ちょうどなくなっちゃった。これっきりね」
水筒のふたをキュッと閉めながらつぶやくお母さんに向かって、テーブルの上にずいっと身を乗り出して健太は目を輝かせる。

「これっきり?」
「うん、これっきりでしょ、ほら」

空になった薬缶を90度ひっくり返して、
「すっからかん!」
とお母さんは言った。健太はまた嬉しくなって、お母さんと一笑いした後、その勢いのまま虫かごを持って家を飛び出した。



「これっきり、これっきり……」
公園について、滑り台を滑り、ジャングルジムに登って、草むらの中で虫探しをしてひとしきり遊びまわった後。
大事な「これっきり」の水筒のお茶を飲みながら、健太はベンチに座っていた。
横に置かれた小さな虫かごでは、草むらで捕まえた10センチ弱のショウリョウバッタが狭苦しそうにゴソゴソしている。

今日は友達も来ていない。もう疲れたし、ブランコに乗ってもう帰ろうかな。
そんなことを思いつつ、足をぶらぶらさせていると、遠くで背丈の高い人たちが公園に入ってくるのが見えた。
一人は女の子、もう一人は男の子で、二人とも制服で鞄を持っている。背は健太よりずっと高くて、女の子はお母さんと同じくらい、男の子のほうはそれより大きいように見えた。女の子の鞄にはぬいぐるみやキーホルダーが山のようにぶら下がっている。
その中に、大好きな猫のキャラクターもぶら下がっているのを健太は見つけた。猫も他のキーホルダーと擦れ合ってじゃらじゃらと揺れる。
じゃらじゃら、じゃらじゃらと、彼女の歩みに伴って右へ左へ揺れる。

その動きが、急に止められた。
瞬間、バチン、とこちらまで音が聞こえてきそうな勢いで、猫のキーホルダーは引きちぎられ、地面に叩きつけられた。

「……ふっざけんなよ!? こっちはどんだけお前ら選手のために時間使って応援してきたと思ってんのよ? それなのに『練習の雰囲気も最近悪いし、顧問と話し合って、全員の気を引き締めるために来月の大会は出ないことにしました』って何? なんで顧問とキャプテンのお前ら二人だけで勝手に全部決めてんだ? 意味わかんないでしょ。それって、私たちマネージャーの努力はどうでもいいってことよね?」
「そんなこと言ってないだろ! 俺だってマネージャーのみんなには感謝してるさ! でも仕方ないだろ? 実際雰囲気はよくないんだから、何かカンフル剤的なもの入れないとどうにもならないじゃないか!」
「だったら『次の大会で優勝する、そうじゃなきゃ廃部』くらい言ったらどうなの? なんでそもそも大会に出ないなんて発想になるのかが意味わからんって言ってんの、こっちは。感謝してるんなら結果で示すのが選手でしょ?」
「マネージャーからすると分からないかもしれないけどな、ほんとに陸上が好きで入ってきてくれたやつもいるし、目標立てて頑張ってるやつも中にはいるんだぞ? 廃部なんて冗談でも言えるわけないだろ!」

部長としての矜持と焦りの入り混じった少年の叫びのあと、水を打ったように公園中は静まりかえった。
少女は地面に転がったキーホルダーをしばらく見つめていた。そして突然それを拾い上げるや否や、
「マネージャーには何も分からないって思ってたんだ。そりゃそんな選択もするよね」
と独り言のように呟いて、そのままキーホルダーを彼の胸ポケットに押し込んだ。
「もういいわ。もう部活にはいかない。あんたにも会わない。これっきりよ。キーホルダー、汚しちゃったけど返すね」
「……は?」
「あんたのこと心底嫌いになったから別れるって言ってんのよ。だからさっさと帰って。私が消えるとこだけど、家、すぐそこだから」
「いや、だって……」
二の句を継ごうと少年は口をまごつかせたが、気づいていなかった心の内を言い当てられた動揺からか、掛けるべき言葉が見つからない。
そのまま、彼は帰路に就くしかなかった。

事の一部始終を見守っていた健太は緊張から動けなくなっていた。
あんなに背の高い人が、こんなに大声で叫びあうのなんて今まで見たことがなかった。健太のお父さんとお母さんが喧嘩することもなくはなかったが、いつも二言三言言い合うだけで、次の日には仲直りしていたから。
大人の喧嘩というのはみんなこうだと思っていたのだ。
加えて、いやそれよりも、健太にはさっきの女の子の言葉が気にかかっていたのだ。

呆然としたまま数分が経って、気が付くと女の子が健太の横に三角座りの要領で座っていた。顔をうずめていたので表情は分からないが時々鼻をすする音が聞こえてくる。
よく見てみると前に組んだ手は少し震えていた。

「……お姉ちゃん、大丈夫?」

勇気を出して健太は尋ねてみた。先生が学校で「泣いている子がいたら優しくしなさい」と言っていたからだ。彼女は少し驚いた様子で、何とか笑顔を作って見せると
「……うん、大丈夫だよ。ありがと。あとわたしの名前は美奈ね。君の名前は?」
と答えた。
「ぼくは健太っていうんだ。あだなはケンちゃん」
「ケンちゃんか。ケンちゃんは優しいね。喧嘩なんてしてるわたしと違って」
そういって美奈は自嘲気味に笑った。
ほめられた健太はちょっと得意になって、
「そうだよ、ケンカはダメなんだよ。美奈お姉ちゃんもちゃんとさっきの人と握手しなきゃ」
なんて学校で習ったことを繰り返してみる。
「……確かにそうかもね」
「あした仲直りする?」
「どうかな。無理かも」
そう言って、さっき作った笑顔は何処へやら、美奈はまたうつむいて黙り込んでしまった。

学校で先生が言ってたことは、美奈お姉ちゃんには逆効果かもしれない。
そう気づいた健太は少し困ったが、すぐにいいことを思いついた。
お母さんもお父さんもいつもこれで笑ってくれるんだから、お姉ちゃんも絶対笑ってくれるはずだ。

「じゃあ、美奈お姉ちゃんにいいものあげる」
そういって水筒のふたをくるくる開け、逆さまにしてそれにお茶を注ぎ始める。
「……なに、それ。お茶?」
「『これっきり』のお茶だよ! さっきね、お母さんが入れてくれたとき、ぴったりやかんのお茶がなくなったんだ!」
美奈はポカンとしていた、と思ったら突然吹き出して、
「……プッ、なにそれ、変なの。でも確かに特別だね。いただきます」
と言い、ふたからお茶がこぼれないよう拾い上げると、美奈はそれを一息で啜った。
そうして「ふう」と一息ついたのち、またしばらく遠くを見つめて黙り込んだ。
美味しくなかったのかな、と健太はすこし思ったが、うつむいたときの顔とは違い美奈の横顔は満足そうだ。
美奈お姉ちゃんにも、これは効果てきめんだったらしい。

安心すると、さっき気にかかった言葉が健太の頭に浮かんできた。

「美奈お姉ちゃん、『これっきり』ってイヤな言葉?」
「……ん、ああ、このお茶のこと?」
「ううん、さっきお姉ちゃんがケンカしてたとき、『これっきり』って言ってたじゃん」
「……あー、あれか。うん、確かにあれは嫌な言葉かも。ケンちゃんもお母さんに『もう会わない!』って言われたらいやでしょ? それとおんなじことを私は言ったから。でも、」

言葉を切って少し思案した後、健太の目を見て美奈は続けた。

「でも、さっきのケンちゃんの『これっきり』は嬉しかった。だからあれは嫌な言葉じゃないよ。ちょっと難しいけどさ、これっきりって何かが終わるってことじゃん。だから、悪いことが終わるときとか、たまたま最後の一個だったりとか、そういうときなら嬉しい言葉なんだよ。きっと」

言い切った後、柄にもなく難しいことを言った照れ隠しからか、美奈は少し笑った。一方、健太は難しい顔をしている。

「イヤになったり、うれしくなったりするの?」
「そうだよ。ケンちゃんの『これっきり』は嬉しかったけど、逆にさ、私が言ったみたいに、楽しいことが『これっきり』になっちゃうと嫌じゃない。……そっか。だから、さっきはちょっと悲しかったんだ」

美奈の言ったことは半分くらい分からなかったが、とりあえず健太の「これっきり」は嬉しかったのだ。健太はそのことだけで十分満足だった。

「じゃあ、ぼくが『これっきり』って言っても、お姉ちゃんはイヤじゃない?」
「うん、嫌じゃない。むしろ嬉しかったよ。ごちそうさまでした」

水筒のふたを小さな手に包み込ませるように返して、美奈は立ち上がった。ちょうど夕焼け小焼けのチャイムが5時を告げる。

「よし、そろそろ帰らなくちゃね。いつまでもケンちゃんに慰められてるわけにはいかないし。……うん、こんな情けないのはこれっきりにしなくちゃ」
「その『これっきり』はうれしい?」
「うん、嫌な自分とバイバイする言葉だから」
じゃあまたね、と笑顔で手を振って美奈は帰っていく。翳りは残っているものの、健太が初めに見た笑顔より、ずっとさっぱりとした凛々しい笑顔だった。

チャイムが鳴ったあとの日が落ちていく公園で、お母さんに怒られるのも忘れて、健太はそのままずっとふたを握りしめていた。




アマノ文筆クラブさんのお題「これっきりですか?」に参加させていただきました。ありがとうございました!


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