音楽が繋いだ物語 8
8−聖夜へのプロローグ
由紀子の問いに、翔太は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。そして、すぐに包み込むような優しい微笑みを浮かべた。
「はい。きっと。僕が歌う理由は、由紀子さんの中に眠っている『答え』を一緒に探すためでもあるんですよ。」
その言葉は、由紀子が長年心の奥底に封じ込めていた重い扉を、静かに、けれど確実に叩いた。
ファミレスを出ると、夜の空気はさらに冷え込んでいた。しかし、隣を歩く翔太の存在が、由紀子の体温を少しだけ上げているようだった。
「来週、待ってますから。絶対ですよ。きてくださいね。」
古い軽自動車に乗り込む直前、翔太はそう言って、少し子供っぽく小指を立てた。由紀子は戸惑いながらも、自分の小指をそっと絡める。
軽く触れ合うぐらいの優しいふれあい。でも、子供のように心が躍るそんな仕草に由紀子はふっと、笑顔になっていた。
家路につく道すがら、由紀子は街を彩るイルミネーションを眺めていた。これまでは「自分には関係のない、眩しすぎるもの」だと思っていた光が、今夜は少しだけ違って見えた。
(私、何を期待しているんだろう…。)
由紀子の脳裏には、かつて自分を深く傷つけ、心を凍らせた「ある出来事」の断片がよぎる。翔太の歌は、その傷跡に触れようとしている。それが怖い反面、彼にならすべてをさらけ出してもいいのではないかという、危険なほどの期待が膨らんでいった。
「私は…。」
少し頬を赤らめて、シクラメンの花を見つめながらベッドに横になった時、
「お前、不倫してるんだろう。」
林田智の冷たい瞳と、掠れた声が耳の奥にこだました。
バッとベッドから跳ね起きた由紀子の目には、涙が溢れてきた。
「私のこと、なんで信じてくれなかったの?どうして、私を否定したままいなくなったの?」
忘れていた「あの出来事」が、由紀子の心に蘇ってきた。
「忘れたいのに、あの人のことなんか。…。」
由紀子の震える吐息が、静まり返った寝室に白く溶けていくようだった。
智のあの言葉は、鋭い氷の楔(くさび)となって、今も由紀子の心臓を縫い止めている。数年前、身に覚えのない疑いをかけられ、弁明の機会さえ与えられないまま、智は不慮の事故でこの世を去った。彼の中では、由紀子は「裏切り者」のまま凍結されてしまったのだ。その誤解を解く術は、もう永遠に失われている。
「…。ひどいよ、智さん。なんで。…。」
シクラメンの花びらが、月光に照らされて、まるで滴る血のような深い赤色を帯びている。
由紀子は膝を抱え、ガタガタと震える体を抱きしめた。翔太は「答えを一緒に探す」と言ってくれた。けれど、もし彼が自分の過去を知ったら? 夫に不倫を疑われ、その汚名をそそげないまま未亡人となった女だと知ったら、あの眩しい微笑みは曇ってしまうのではないか。
(行っちゃいけない。これ以上、彼に近づいたら、私の闇が彼を汚してしまう)そう思う反面、心のどこかで、翔太の歌声がこの呪いを解いてくれることを渇望している自分もいた。
あの指切りの感触が、まだ小指に残っている。「きてくださいね。」
翔太の、少し子供っぽくて、けれど真っ直ぐな声が耳の奥で再生される。
由紀子は泣き疲れて、いつの間にか浅い眠りに落ちた。夢の中で、彼女は雪の降るステージに立っていた。客席には誰もいない。ただ一人、智だけが冷たい視線で彼女を見下ろしている。
由紀子が必死に何かを訴えようと口を開いた瞬間、どこからかギターの優しい音色が聞こえてきた。それは、凍てついた世界を溶かすような、柔らかな旋律。光の粒が降り注ぎ、智の姿を白く塗りつぶしていく。
翌朝。窓の外は、雲ひとつない冬晴れだった。由紀子は腫らした目で鏡の前に立ち、少しだけ迷ったあと、シクラメンに水をやった。
「一週間後…。」
カレンダーの、クリスマスの日に小さく印をつけた。翔太との出会いは智との決別か、それとも新しい絶望の始まりなのか、それとも、答えはまだ見えない。けれど、由紀子はクローゼットの奥から、ずっと着る機会のなかった、少し華やかなボルドー色のコートを取り出した。
「私は、生まれ変わりたいの。もう、終わりにしたいの、智さん。」
白い息がゆっくりと部屋の中に広がっていく。でも、温かい日差しが由紀子をほんのりと包んでくれていた。
「大丈夫。私は、ただ歌を聴きに行くだけ」
自分に言い聞かせながらも、指先は微かに震えている。智の最期の言葉が、今も耳の奥で澱(おり)のように沈んでいる。けれど、小指に残る昨日の温もりだけが、彼女を前へと押し出していた。
