防災の日は過ぎましたが、金子みすゞも関東大震災の詩を書いてるんですよ
東日本大震災以前の公演でお世話になったご縁から、東北へ舞台の出前を続けています。
今年、7月30日の地震でも津波警報が出ました。
そんなことから、岩手県陸前高田市のSさんという仲間から「小さな懐中電灯を持ち歩くように」とラインがありました。
「スマホでも代用できるけど、充電できなければソコで詰みます。暗闇では、人は何もできないと知りました」と。
そんなわけで、ヘッダー画像の懐中電灯を100均で買いました
ランタンモードの意味が最初はわからなかったのですが…
通常は、頭のところが光るんです(箱の左上の絵みたいに)。
ランタンモードは、ヘッダーの写真みたいに置いて、手元を照らせる仕様になってるの。
モバイルバッテリー、飲み物、飴2つと下着の他に、この懐中電灯も持ち物に加えました。
家で被災するとは限りませんから。
みすゞは、関東大震災の一年後に、この詩を書いています

二連目の最後の行【母さまお瞳(めゝ)がありました】とは、どういう意味なのだろう。
震災の夜に自分を抱いててくれた母親は、瞳があって目を開けていたが、その後亡くなって目をつぶり、瞳が無くなってしまって寂しいという意味なのだろうか。
いや、きっと違う
みすゞは、三歳になる頃に父親を亡くしている。その後、弟・正祐は、下関で一番大きな上山文英堂書店にもらわれていった。
そこの養母が亡くなり、みすゞの母(正祐にとっても母)は、上山文英堂書店に再嫁。

みすゞも大正12年春、母の再婚先であり、弟の養子先でもある上山文英堂書店に移り住んだ。
ほどなく、書店の跡継ぎとしてもらわれた弟は、日本橋の六合館書店へ見習いに。
そして9月1日、関東大震災が起きた
下関の上山文英堂では、首都壊滅のニュースに、正祐の無事を祈る日々だったろう。
その間だけは、母の心がみすゞのほうを向いていた。あまりの心細さに、励まし合わずにはいられなかったのだろう。
いつも弟にしか関心がなく、こっちを向いてくれない母親が、この時だけは自分のほうを向いてくれていた。それが【母さまお瞳がありました】ではないだろうか。
そのかけがえのない時間を、まるで大切な宝物を隠すかのように、意味を取りにくい言葉の奥に秘したのかもしれない。
みすゞはこの詩を、さらに一年経ってから『童話』という雑誌に投稿
大正十四年十月号で佳作となった。
『童話』への掲載作では、次の表記となっている。

『童話』に載せる詩を選ぶ選者だった西條八十はフランスへ留学中。
代りの選者だった吉江孤雁も八十と同じく、作品に手を入れていると思われるが、後ろから二行目【あの日の、母さんかへらない。】の直しは理解できる。
これだと、震災の夜は自分を抱っこしてくれていたお母さんは、その後亡くなってしまったと解釈できるからだ。
【お瞳がありました】という謎過ぎる言葉が、落ち着く場所を得て定まり、解り易くなっている。
それにしてもみすゞは、震災から一年後に創った詩を、なぜさらに一年寝かせてから投稿したのだろうか
震災という不運な災害に旬という言葉は適切ではないかもしれないが、そういう意味ではとうに時機を逸している。
母との大切なメモリアルとして秘密にとっておこうとしたけれど、やっぱり世に出して光を当てたくなったのだろうか…。

