すべてはピンクフロイドのために:ミケランジェロ・アントニオーニ監督『砂丘』(1970)
すべては、ピンクフロイドの「51号の幻想」のためにある。
と、わたしは思った。
いや、スペクタクルな映像が好きな人なら、全編興奮ものだと思う。
イタリア人のアントニオーニがアメリカで撮った作品だけに、
ヨーロッパ的な繊細な美意識とアメリカのダイナミズムが、見事に融合している。
内容的にも、1960年代末の政治の季節(の終わりかけ)の話。
学生運動/新左翼の観念論になのか、集団主義になのか、ウンザリしている青年が一方の主人公。
とはいえ、自分も直接行動をとろうと銃を持つけれど、結局、何もできず、、、なぜかセスナ機を奪って逃走。
そこで「真の自由」を得たのか、それは「かりそめの自由」でしかないのか?その両義性。
飛行の先の砂漠地帯で出会った娘(不動産会社の秘書)。
彼女との交わりも、「真の出会い」なのか、「かりそめの出会い」なのか。
ストーリーは、ちょっと荒唐無稽感もあるし、
テーマ的にも、主題が展開しているとも言い難い。
ただ、物語や意味よりも、圧倒的な映像的スペクタクルが映画を引っ張っていく。それは、セスナ機の飛行の軌道と同じように。
で、ラストに全部が繋がるんですよね。
内容面としても、スペクタクルとしても。
「あ~、そういうことか」って。
(ブルジョワを、そういう権力構造を、、、っていうね)
そこで流れるのが、ピンクフロイドの「51号の幻想」。
そのシーンの凄さは劇場で観た人にしかわからないと思うので、ぜひ。
ほんと、最高なんてもんじゃないんですが、
「音楽がすべてを持って行っちゃって、映画としてそれでいいの?」とは、ちょっとだけ思うけれど。
いや、『欲望』(1967)も、結局、ヤードバーズ(「Stroll On(「Train Kept A Rollin'」の替え歌)」)がぜんぶをもって行くわけだから、
これでいいのかもね。
ということで、
ピンク・フロイドな、あまりにピンク・フロイドな。
それは、絶望なのか、希望なのか?
自由の彼方へ、意味の彼方へ。
