爆笑問題・太田光が好きだからこそ、苦言も呈したいし、擁護もしたい
爆笑問題・太田光をずっと見てきた。
中学時代から深夜ラジオを聞き始め、『カラス』『日本言論』など著作も読んできた。
ラジオは今でも聞いているし、『太田上田』もチェックしているし、小説はまったく読んでないけど、向田邦子をはじめとした文芸論もいつも感心させられる。
だから、世間からバッシングされているのを見るのは辛い。
今回のバッシング
太田バッシングはこれで何度目かわからないが、今回のバッシングは、衆院選後に高市総理へインタビューした際の言動によるものだ。
自民党の公約である「2年間、食料品の消費税率を0パーセント」が実現できなかった場合の責任について、選挙特番で首相に問うたのだが、その質問の内容や態度が波紋をよんでいる。
主な批判点としては、「的外れ」「不愉快」「失礼」「言質取ろうとしてんのか」などが多いようだった。
太田本人は、その後のラジオで、どういう意図でこの質問をしたのかを説明していたし、これからやる気になっている人に向かって水を差すような質問をした自身の行動に怒る人たちがいることも理解していた。
それでも、あの質問をしたのは、時代の空気が盛り上がる中で、一時の勢いや気分に流されず、責任の所在を明らかにしておきたかったからだと説明していた。
この説明で理解する人もいるだろうが、大方の怒っている人は納得しないだろうなとも思う。
太田光のファンとしては擁護したい気持ちがあるが、今回は、太田と世間との相性が悪すぎたなと思う。
(だから、ある程度、批判されても仕方ないのかなと思う)
芸人と政治
「芸人」と「政治」は遠いようで近い。
政治に関わる芸人の系譜を仮に作った場合、太田光は、オーソドックスな芸人の系譜に分類されるだろう。
「オーソドックス」というのは、歴史を鑑みてである。
かつて、中世のヨーロッパでは、権力者は自ら、宮廷に道化師を抱え、自身を嘲り、馬鹿にする立場を特別に道化師に与えていた。
社会のヒエラルキーのトップに位置する権力者を、一番の底辺、もしくは、ヒエラルキーの中に入れてさえもらえないような道化師が馬鹿にすることで、庶民の鬱憤は適度に解消された。
たまに「キング」が「ジョーカー」に負ける姿を見ることで、社会はうまくガス抜きをしてきたのだ。
太田光もそうした「クラウン」「ジョーカー」「ジェスター」の系譜の上にいる。
なので、彼の政治家へのアプローチは、基本的に「下からの突き上げ」である。
「下層に位置する芸人」として「上方にいる権力者」を笑いものにする。
昨今は、芸人の地位も上昇し、芸人が「コメンテーター」として、社会に一家言あるかのようなスタンスを取ることも多くなってきた。
しかし、地位の低い者が王様を笑うからこそ面白かったのであって、地位が高くなった芸人にその役回りは務まらない。
そのことを、太田光はわかっている。
だから、敬愛する明石家さんまと同じように、人の笑いを評価する立場には立たないし、同じく敬愛するビートたけしと同じように、他分野で評価された後も、道化を演じ続けている。
今回の騒動
太田光が政治問題でバッシングされるのはこれが初めてではない。
これまで何度も炎上してきた。
20年前から『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』で政治家とやりあってきたし、数年前から選挙特番のMCとして、度々、批判の的になっている。
『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』が放送されていた当時、つまり、SNSが今のように普及する以前、政治家と一般人の距離はもっと離れていた。
テレビの中でしかつめらしい顔をしている政治家に対し、太田が不躾な質問をぶつけ、上段にいる偉そうな政治家を庶民の側に引っ張ってくる構図は、見ていて気持ちよかった。
しかし、それはあくまで政治家と我々に「上下」の差があり、そこにコミュニケーション通路がなかった時代のやり方だった。
政治が積極的に SNSを使って「会いに行ける権力者」と化し、「双方向のやりとり」とまではいかないが、一般人が政治家に声をぶつけられるようになった時代において、「上下」を前提とした権力者いじり方は、少し時代とずれてしまっているといえる。
だから、今回の選挙のように、民意が権力者に「GOサイン」を出したにもかかわらず水を差すような発言をしてしまえば、反発を食らうのも当然である。
民が権力者に信任を与えた時に、オーソドックスタイプの、「王様を笑う道化師」が入りこむ隙はない。
太田光の「ピカソ芸」
しかし、それは、太田が社会に求められていないということを意味しない。
芸人としてのポピュラリティを持ちながらも、文芸に造詣が深く、ヒューマニティの観点から社会を語れる人間は、太田の他に(まだ)いない。
皮肉にも、それが確認されたのは、社会で凄惨な事件が起こった時だった。
2019年、川崎で多くの児童の生命を男が奪った後に自殺するという事件が起きた。
SNSでもテレビでもこのセンセーショナルな事件が取り上げられる中、太田は、自身がMCを務める番組内で以下のようにコメントし、注目を集めた。
(長いけど、すみません)
俺なんか(容疑者と)同じ50代ですけれど、高校生くらいの時に、何も感動できなくなった時があったんですよ。物を食べても、味もしない。
そういう時に『これはこのまま死んでもいいな』っていうぐらいまで行くんだけど、そうなっちゃうと、自分もそうなら人の命も大切には思えないよね。
だけど、その時に俺のきっかけだったけど、たまたま美術館行ってピカソの絵を見た時に、急に感動が戻ってきたの。
何を見ても感動できなかったんだけど、ピカソが理解できたってわけじゃないんだけど、その時の俺には『こんな自由でいいんだ表現って』っていうことで、そこからいろんなことに感動して、いろんなものを好きになる。
好きになるってことは、それに気づけた自分を好きになるってことで、それっていうのは、人でも文学でも映画でも何でもいいんだけど、そういうことに心を動かされた自分て、捨てたもんじゃないなって思うと、他の生きている生物や人間たちの命も、やっぱり捨てたもんじゃないって思える」
太田は、他のコメンテーターが事件の犯人を非難したり、同じ犯行が繰り返されないための対応策を提案したりする中で、一人、自分と犯人を重ね合わせて事件を語った。
それは、事件を、どこか遠くで起こったできごととして語るのではなく、自分にも起こる可能性のあった個人的なできごととして語ったということだった。
その、個人的な視点が、テレビを見ていた人たちの心に届き、一部で共感を呼んだのだ。
最近はSNSの浸透で、誰もが気軽にコメントできるため、事件が起こると、犯行を事前に防げなかった社会システムの悪口や改善点が口にされる。
個人の問題であったものが、「社会」や「システム」の問題として原因究明がなされる。
しかし、人は、「自殺相談窓口」があるから自殺を思いとどまるわけでもないし、役所に「社会福祉課」があるから引きこもりを止めるわけではない。
その必要性は存分にあるとしても、自殺や引きこもりなどの問題は、どこまでいっても個人的なことであり、サポートシステムが整っていようがいまいが、社会の支援体制とはまったく関係なく、個人的な理由でひきこもりから脱したり、個人的なきっかけでリストカットをやめたりする人は山のようにいる。
太田がピカソに救われたように、つまづきから立ち直るきっかけは、芸術作品だったり、何気なく眺めた虫の羽ばたきだったり、コンビニ店員と交わした一言の挨拶だったりする。
そのきっかけは、社会のシステムとは無関係の、個人的な物語の中に入り込んでくる”なにか”なのだ。
社会のシステム側にいる人たちは、良いシステムを作ることに懸命になってほしいが、社会の機能をどれだけよくしても、全員がハッピーになるわけではないことは、誰もが知っているだろう。
太田のコメントは、そのことを思い出させる。
(そして、そのコメントの後、講談師の神田松之丞に、「ピカソだって。笑っちゃうねえ」と小バカにされている。ここまでがワンセットである。)
現代社会は何か問題が起こるとそこに責任の所在を問い、「悪者」を見つけようとする。
ある問題に対し、「賛成」か「反対」かの二択が迫られる中で、太田は人間が持つ弱さや人間が背負っている業も含めて考えるスタンスを取る(敬愛する立川談志の系譜に沿って)。
そうした社会や人間を「できごと」ではなく「人間性」から考えるスタンスは、生き延びること自体がシビアになってきた現代社会においては、あまり歓迎されない。
特に、選挙当日の「大勝」気分の中では、その姿勢はバッシングの対象となる。
それでもラジオは面白い
世間から何度目かのバッシングを受け、「こりゃまた奥さんに怒られてるだろうな」と心配して、深夜ラジオ『爆笑問題カウボーイ』を聴いた。
番組のなかで、太田は自身への強いバッシングを受け止めながら、しっかりと質問の意図を説明しつつ、その話から派生した羽賀研二をいじり、千原せいじをいじって、笑いをおこしていた。
太田は社会のヒエラルキーから外れた「道化師」である。
だから、相手が殺人者であっても、権力を持った政治家であっても、自分と地続きの「人間」として受け止め、考え、質問する。
そのスタンスが世間に迎え入れられる時もあるし、そうでない時もある。
そして、そうでない時も結構多いので、そのたびに、太田は、世間と奥さんに怒られ、落ちこんで、それでも気を持ち直して、45度のお風呂に入り、階段の昇り降りトレーニングを毎日して、また可笑しなことを言い始める。
その弱さ、落ち込み具合、立ち直りの早さは、どこまでも見る価値のある「人間」である。
今後、時がたてば、また、世間の空気は変わるだろう。
(政党の支持率の話ではなく、政治家との対し方として)
その時、太田光の感性は、どこかで必ず必要とされる。
それまでは、ファンとして、ただただ面白い人間としての太田光を、うるさいラジオ番組などで、堪能するだけである。
(タイタンシネマライブに行くほどのファンではありません)
