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マイケル・チェーホフの半生から思う

マイケル・チェーホフは言わずと知れたロシアの文豪『アントン・チェーホフ』の甥(おい)にあたる人物だが、氏がその生涯で最も立身出世を遂げたのはアメリカのハリウッドだった。それも演技指導者としての活躍よりむしろ俳優(プレイヤー)として名声を得ている。

私自身が氏の存在を知ったのはもう十数年も前の話だが、映像の世界で俳優を志していた当時、内面から滲み出る感情表現を意識してメソード演技に傾倒していく中で、この「マイケル・チェーホフ メソード」のある種独特な『スピリチュアル性』には正直抵抗を感じていた。いや、もっと単刀直入に言い表せば「拒否」していたのかもしれない。
その位、ある種ヨガにも通ずるような呼吸法、瞑想から想起される自己認識を高め、内面の変化、衝動を見つけることを目指すこの演技向上の為のプロセスに、当時は何だかカルト的な匂いを感じてしまって無意識に遠ざけていた。
それがなぜ、今になってこの方法論に興味を抱いたのか?
それはこの東洋的な発想の医学によって、この数年苦しめられていた腰痛が治ったことも理由の一つだが、それ以前にこのマイケル・チェーホフという俳優さんの人生に深い興味を抱いたことが最大の理由ではないかと思う。

マイケル・チェーホフが生まれ故郷のロシア(ソ連)を離れ西側のドイツに移住したのは1928年だが、そのきっかけとなったのはロシア革命後の母国の政治体制に失望したことが理由とされている。実際、移住直前の氏の生活環境は荒れすさんだ状況で、移住に至ったのはアルコール中毒症や離婚など、幾多の挫折を経験した後の決断だったようだ。
その後、ベルリンで演出家マックス・ラインハルトと仕事をしたり、イギリスでスクールを開校するなどヨーロッパで活躍した後、第二次世界大戦直前にアメリカに移住する。
然るにマイケル・チェーホフがブロードウェイやハリウッドで名声を得るのは戦後となるわけだが、東西冷戦が始まった直後、米ソの緊張が高まる中でなぜ氏は米国内で迫害を受けなかったのだろうか?
それは叔父にあたるアントン・チェーホフ同様、チェーホフ一族にはユダヤ系の血が流れていたからに違いない。
しかし例えば、最初の移住地であるベルリンに第二次大戦時もそのまま留まっていたらどうだっただろう?氏の人生は今の輝かしい功績をそのまま遺していたのだろうか?
そこに想像を膨らませると、つくづく人の運命というのは数奇なものだと改めて唸ってしまう。

話が逸れたが、マイケル・チェーホフが人間の精神の可能性を追求し、それを演技指導法として体系化させる上できっかけとなったのは思想家・哲学者のルドルフ・シュタイナーと出会ったことが大きな転機に結びついたとされるが、氏が母国であるソ連の政治体制に失望した際、次の心の拠り所としたのが共産主義の象徴たる「唯物論」とは対極の、東洋的な神秘思想、自然思想の沿線上にある『人智学』であったことは何だか皮肉な話だ。
そう言えばそのソ連が崩壊した1991年、日本のオウム真理教のヨガ道場がロシア国内で非常に持て囃され、受講生や信者を増やしたことがあったと聞いたことがある。その当時、支部長を務めていたのが地下鉄サリン事件以後に同宗教団体の広報担当として連日マスコミに姿を現していた上祐史浩氏だが、氏も当時を振り返って「ソ連崩壊後のロシアの人々は、なにか物質的でない別の心の拠り所を探していたように思う」と話している。
それを踏まえて考えると、つまり人間の可能性を生産と消費でしか捉えない共産主義、社会主義の限界を見た人々にとって、私らが育む人生観には当たり前に存在する東洋的な精神論は酷く斬新に映るのかもしれない。

マイケル・チェーホフの演技法に取り組んでいる昨今、ふとそんなことを考えた。

皮肉なものだね。

例えば日本の戦後の演劇界では共産主義革命を起こそうとするような赤い人たちが肩で風切り跋扈(ばっこ)して世直しを唱えていたというのに、彼らの理想であったはずのその社会主義、共産主義のメッカと呼んでもいい異国の地では、むしろその体制に失望した一介の演劇人が私らの価値観に旧来から浸透してきた神秘的精神論に傾倒して人間を見つめ直し、独自の演技論を提唱していたのだから。

さあ、選挙だね。

若い演劇人の皆さん、ぜひ投票に行ってくださいね。
明日も自由な演劇が作れる世の中を維持していきましょう

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