妻の高いシャンプーで、人形を洗う娘の話
「かわいくなったやろ?」
お風呂場に、泡だらけの人形が転がっていました。
お風呂用のメルちゃんです。
髪にも顔にも白い泡がついたままで、床にももわっと広がっています。
拾い上げたら、指がぬるっとすべりました。
すすいでいません。
そこで、匂いに気づきました。
うちが普段使っている詰め替えのやつの匂いではありません。
妻が自分の分だけ別で買っているボトルやつの匂いです。
以前、値段を見て、そっと棚に戻した記憶があるやつです。
風呂場に戻って確認しました。
キャップが閉まっていませんでした。
「この子には、ええ匂いのやつがええねん」
娘に聞くと、まったく悪びれずにそう返ってきました。
言い訳でもごまかしでもなく、なぜそうしたのか説明してくれました。
この人形にはこの匂いが合う。
だからそれを使ったんだという自信に満ち溢れた顔をしています。
一瞬、感心してしまいました。
だって、選んでいるのです。
棚には他にもボトルが並んでいます。
そのなかから、この子にはこれと決めている。
しかも理由が「いい匂いが好きだから」ではありませんでした。
「この子には、いい匂いのほうが合うから」です。
自分の好みではなく、人形の側に立って選んでいます。
やり方は、めちゃくちゃは雑です。
すすぎもしていない。
泡は残ったまま、床にも垂れている。
あとの片づけのことは何も考えていません。
なのに、何で洗うかだけは厳密でした。
そこだけは絶対に譲らないという選び方をしています。
そんな判断、いつのまに覚えたんやろ。
誰も教えてへんのに。
感心している場合ではありませんでした
ボトルを持ち上げてみると、思っていたより軽くなっていました。
そこで浮かんだのは、妻の顔。
いつ気づくか…。
減り方でわかるものなのか。
黙っといたら、しばらくバレへんのちゃうか。
そんなことまで考えました。
バレへんのちゃうかの時点で、もう自分がやったことみたいになっています。
やったのは娘です。
これに関しては、娘を守る義理はありません。
しかも、頭のなかで妻に報告する練習まではじめていました。
最初の一言は「娘がメルちゃん洗っててん」です。
主語を先に置いて、自分は発見者の側に立つ言い方。
3秒で組み立てていました。
そういうことだけは速い。
そして、もし娘に何か言うなら、たぶんわたしはこう言うでしょう。
「それ、お母さんのええやつやで。もったいないやろ」
言いかけて、止まりました。
「もったいない」が指していたもの
もったいないと言うとき、わたしは何を惜しんでいたのでしょうか。
人形はきれいになりました。
娘は満足しています。
減ったのはシャンプーの中身だけです。
それでも口から出かかったのは、その一言でした。
つまりわたしは、あのボトルを値段で見ていたということです。
棚の上のほうにあって、レジで一瞬ためらったやつ。
だから特別扱いする。
中身の話ではなく、値段の話でした。
娘は、値段を知りません。
知らないまま、この子にはこれが合うという基準で選んでいます。
判定はちゃんとやっているのです。
ただ、その基準表に「いくらしたか」の欄がないだけです。
高いものは特別に扱う。
これは大人のあいだで共有されているルールで、誰かに教わった覚えはありません。
気がついたときには持っていました。
それを娘はまだ渡されていない。
それだけの差です。
もし「なんで子ども用のやつにせえへんかったん」と聞いたら、娘はきっと答えを持っています。
この子の髪の感じとか、この子のイメージとか、こちらが思いつきもしない理由が出てくるはずです。
そのとき答えに詰まるのは、たぶんわたしのほうです。
なんであのシャンプーだけ特別なのか、値段以外の言葉で説明できません。
まだ迷っています
このあとどうするか、まだ決めていません。
妻に先に言うか、娘に自分で言わせるか、それとも何も言わずに、減ったぶんを黙って買い足しておくか。
いちばん平和なのは最後です。
いちばんずるいのも最後です。
ひとつだけ決めたのは、娘に言うときに「もったいない」から入るのはやめようということです。
あれを言った瞬間に伝わるのは「高いものにさわるな」だけで、この子にはこれが合うと考えた部分には一言も触れないことになります。
じゃあ何と言えばいいのか。
メルちゃんは、いま洗面台の端に立たせてあります。
すすいだので、いい匂いはもうだいぶ薄くなりましたけどね。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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