かつて大移動した民族の末裔のマイノリティ民族
歴史上、大規模な民族移動とそれに伴う征服活動は数多く起きてきました。もっとも有名なものが、「ゲルマン民族の大移動」「テュルク系民族の西進」「アラブ人のジハード」「モンゴル人のユーラシア征服」でしょうか。
こうした民族移動の結果、多くの人が祖国とは遠く離れた場所に移り住み、長い時が経った後も、当時の言語や慣習を今に色濃く残しながら民族のプライドを持って暮らす集団もいました。多数派集団に言語的にも文化的にも吸収され消えてしまうケースが多かったのです。
今回はそうしたマイノリティ民族集団の中で特に興味深い事例をピックアップしていきます。
1. グリコ人

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グリコ人は古代ギリシア時代に地中海沿岸に植民した人々の末裔で、現在は南イタリアに一部残っている民族集団です。
紀元前8世紀頃、南イタリアは「マグナ・グラエキア(大ギリシャ)」と呼ばれ、多くのギリシア人入植者がやってきて、交易や鉱物開発に携わっていました。イタリア半島南部とシチリア島はカルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国、ノルマン人、スペイン(アラゴン家・ハプスブルク家)と支配者が次々と変わっていきましたが、ギリシア人は15世紀ごろまでこの地域への移住活動を続けました。
しかし15世紀から16世紀にかけて、南イタリアのギリシア系住民に対するカトリック化・ラテン化が進行し、多くのギリシア人コミュニティは、現在はイタリア人と称される周辺の多数派民族に同化していきました。
しかしごく一部の農村コミュニティは山間部や半島の端で孤立し、独自のギリシャ語とアイデンティティを守り抜き、現在に至っています。現在でもプーリア州とカラブリア州、シチリア州に数万人が暮らしています。
2. クリミア・ゴート人

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クリミア・ゴート人はすでに滅んでしまっているのですが、かつてゲルマン民族の大移動でクリミア半島に渡ってきたゴート人の末裔です。
3世紀頃、スカンジナビアやバルト海沿岸から南下してきたゲルマン系部族のゴート人は、黒海北岸に一大勢力を築きました。
しかし4世紀後半、フン族の襲来によってゴート人の大半は西ヨーロッパへと逃れ、西ゴート族はイベリア半島、東ゴート族はイタリア半島で独自の王国を築いていくのですが、この時に西へ逃れずにクリミア半島の山岳地帯へと逃げ込み、そのまま定住することを選んだ一派がいました。これが「クリミア・ゴート人」の始まりです。
中世後期になると、クリミア・ゴート人はクリミア半島の南部山岳地帯にテオドロ公国というキリスト教国家を築きます。しかし1475年にオスマン帝国の侵攻を受け、テオドロ公国は滅亡しました。
公国滅亡後、クリミア・ゴート人たちはオスマン帝国の支配下のもと、クリミア・タタール人の支配下に置かれ、次第にイスラム化していき、クリミア・タタール人と同化していきました。18世紀後半になると、わずかに残ったクリミア・ゴート人も、ロシア帝国のエカチェリーナ2世の命令により、アゾフ海沿岸へと強制移住させられコミュニティは壊滅しました。
3. タジキスタン・アラブ人
タジキスタンを中心に中央アジアに居住するタジキスタン・アラブ人は、かつてのアラブ帝国・イスラム帝国が中央アジア征服を行った際に移住したアラブ人の末裔です。
7世紀後半から8世紀にかけて、ウマイヤ朝やアッバース朝などが現在の中央アジアに侵攻しました。この征服活動によってアラブ人の兵士やその家族がサマルカンドやブハラといった都市周辺の農村部に定住しました。さらに14世紀のティムール時代には、中東からアラブ人が強制移住されたりもして、何波かに渡ってアラブ人の移住が行われたようです。
現在タジキスタン・アラブ人は、タジキスタン南部でアフガニスタン国境に近いハトロン州シャーリトゥス(Shakhritus)、カボディヨン(Kabodiyon)という村に住んでいます。
彼らは伝統的に独自に進化を遂げたアラビア語を使ってきましたが、ソ連時代の教育により言語的にはほぼタジク語化をしてしまっており、アラビア語を話せる人は極めて少なくなっているそうです。
4. リプカ・タタール人

リプカ・タタール人は、リトアニアを中心に存在するムスリムのタタール人の末裔です。「リプカ(Lipka)」とは、クリミア・タタール語で「リトアニア」を指します。
14世紀後半、ルーシ諸国を制圧したジョチ・ウルスの内部で激しい権力闘争が起こり、敗れたトクタミシュ・ハンの一派がリトアニア大公国へと亡命・移住しました。
リトアニア大公ヴィタウタスは、彼らの高い騎馬戦闘能力を評価し、領地と「イスラームの信仰の自由」を与える代わりに、国境警備や宮廷親衛隊などの軍事義務を課しました。これにより、彼らはリトアニア貴族として定住を許されたのです。
彼らはポーランド・リトアニアの精鋭な騎兵として知られ、ドイツ騎士団を打ち破ったグルンヴァルトの戦い(1410年)や、オスマン帝国を打ち破った第二次ウィーン包囲(1683年)など、ヨーロッパ史の重要な合戦で大活躍しました。
しかし、ロシア革命や第二次世界大戦、その後のソ連による支配の中で、多くのモスクが閉鎖・破壊されるなど、コミュニティは壊滅的な打撃を受けました。
現代では、ポーランド東部(クルシニャニ村やボホニキ村が有名)、リトアニア、ベラルーシの国境地帯に、合わせて数千〜1万人程度が暮らしています。
5. ハザーラ人

ハザーラ人は現在アフガニスタンに住むモンゴル帝国の末裔です。
「ハザーラ」とはペルシャ語で「千」を意味する「ハザール(Hazār)」に由来し、モンゴル軍の軍制単位である「千人隊(ミンガン)」が語源と考えられています。13世紀のチンギス・カンの中央アジア征服、その後のフレグ・ウルス時代に現在のイランやアフガニスタンにやってきたモンゴル系の兵士やその家族が、ペルシャ系住民と通婚・同化して形成されました。
彼らの見た目は現代のモンゴル人に非常に近く、周囲のイラン系・インド系の彫りの深い顔立ちの民族とは異なっています。しかしそれもあり、現在ハザーラ人はアフガニスタンにおいて激しい迫害を受けるマイノリティとなってしまっています。見た目に加えて、アフガニスタンの多数派はスンニ派であるのに対し、彼らがシーア派であることから、19世紀のバーラクザイ朝や現代のタリバン政権下で、虐殺や土地の強奪など大変な目にあっています。しかし現代でも彼らは独自のコミュニティを維持しています。
6. カルムイク人

カラムイク人は17世紀初頭、モンゴル高原からロシアのヴォルガ川下流域へと大移動してきたモンゴル系オイラート族(トルグート部など)の末裔です。
17世紀当時、彼らはロシア帝国と交渉し、広大な草原の防衛や遊牧地を求めて移動し、カスピ海北岸地域に定住しました。彼らはロシア帝国の国境警備を担い、ナポレオン戦争ではロシア軍の騎兵隊として撤退するフランス軍を追いかけてパリまで進軍しています。
1936年にはソ連内の自治共和国カルムイク共和国の設立が許可されました。

しかしソ連時代には、スターリンによって「対独協力の疑い」をかけられ、民族丸ごとシベリアへ強制移住させられるという凄惨な迫害を経験しました。スターリンの死後に帰還が許され、1957年にカルムイク共和国の復興も許されました。現在でもカルムイク共和国は「ヨーロッパ唯一のチベット仏教国」というとても珍しいアイデンティティを持つ地域です。
7. ウクライナ・スウェーデン人

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ウクライナ・スウェーデン人は、もともとバルト海のダゴー島(現在のエストニア領ヒーウマー島)に住んでいたスウェーデン農民でした。 1781年、大北方戦争の勝利により、ロシア帝国がダゴー島を含む周辺地域を領有すると、女帝エカチェリーナ2世は約1,000名を開拓民としてウクライナ南部へと強制移住させました。
長旅や過酷な環境で多くの死者を出しながらも、生存者たちがドニプロ川沿い(現在のヘルソン州)に建設した村がガンマルスヴェンスクビュー(現ズミイウカの一部)です。居残った人々や、スウェーデンに馴染めずにソ連に戻った人々は、その後のスターリンによる大粛清や第二次世界大戦、シベリア抑留などで多大な苦難を経験しました。
ソ連が崩壊し、ウクライナが独立した後も、ガンマルスヴェンスクビューには数十名程度のスウェーデン語を話す高齢者やその子孫が残っています。
8. ヴォルガ・ドイツ人

ヴォルガ・ドイツ人は現在は存在しませんが、かつては200万人以上もの規模で存在したヴォルガ川沿いの住んだドイツ人の集団です。
1763年、ロシア女帝エカチェリーナ2世は、オスマン帝国や遊牧民との国境地帯であったヴォルガ川下流域(サラトフ周辺)の開拓のために、ヨーロッパ全域に「開拓者」の募集をかけました。この呼びかけに応じたのが、長引く戦争で困窮していたドイツの農民や職人たち約3万人でした。彼らには信仰の自由の他、30年間の免税や軍役の免除といった特権が付与されたのです。彼らはヴォルガ川沿いに「ドイツ人村」を次々と建設し、勤勉さにより過酷な環境を切り拓き、ヴォルガ川流域を広大な小麦地域へと発展させていきました。また、ビール製造や製粉業、織物業といった産業もおこしていきました。
ソ連が発足すると、ソ連政府は民族自決策の一環としてヴォルガ川沿いにドイツ人の自治共和国であるヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国の設立を認めました。ドイツ語が公用語となり、人口60万人を誇る活気ある共和国となったのです。
しかし第二次世界大戦の勃発により、スターリン政権は「ヴォルガ・ドイツ人がナチス・ドイツの別働隊として破壊活動を行う恐れがある」として、自治共和国を即座に廃止し、約40万〜50万人のヴォルガ・ドイツ人がシベリアや中央アジアに強制移住させられました。大戦終結後も、彼らがヴォルガの故郷に戻ることは長く許されませんでした。
1980年代末のペレストロイカおよびソ連崩壊に伴い、ドイツ政府はソ連のドイツ系住民に対して市民権を与える受け入れ政策を実施しました。これにより、200万人以上のドイツ系ロシア人がドイツへと移住しました。
9. 高麗人

高麗人は中央アジアに住む朝鮮人移民の末裔です。
1860年代、李氏朝鮮の末期に飢饉や貧困から逃れるため、多くの朝鮮人農民が国境を越えてロシア帝国の沿海州へと移住しました。1910年の日本による韓国併合後は、日本の支配を嫌った独立運動家をはじめ一部の人々も亡命し、1930年代前半には極東ロシアの朝鮮人人口は17万人を超えるまでになりました。
しかし1930年代後半、スターリン政権は、満洲国を建国するなど拡大する日本を警戒するあまり、「極東ロシアの朝鮮人と日本人はそっくりだ。日本人のスパイ活動に利用される恐れがある」という理不尽な疑いをかけたのです。
そして1937年9月、極東ロシアの朝鮮人は強制移住命令が下され、約17万人が、わずか数日間の猶予で貨物列車に詰め込まれ、中央アジア(ウズベキスタンやカザフスタン)の荒野へと連れてこられました。厳しい冬の寒さと飢え、劣悪な環境により、移動中や到着直後の数ヶ月間で数万人が命を落としました。彼らが後に「高麗人」と呼ばれるようになったのです。
高麗人はウズベキスタンやカザフスタンの半砂漠地帯に泥の家を作り、持ち前の農業技術を活かして運河を引き、中央アジアで不可能とされていた大規模な水田稲作に成功しました。また、彼らが結成した集団農場(コルホーズ)はソ連全土でトップクラスの収穫量を誇るようになり、多くの高麗人がソ連の最高栄誉である「社会主義労働英雄」の称号を授与されました。これにより、彼らは徐々に社会的地位と市民権を回復していきました。
ソ連崩壊後も、多くの高麗人がウズベキスタン(約15万〜17万人)やカザフスタン(約10万人)に住んでいます。一部の人はモスクワや極東ロシアへ再移住し、近年では労働や定住のために韓国へ渡る高麗人(チェヒョン・コリョサラム)も数万人程度いるようです。
まとめ
ユーラシア大陸は広大で数多くの民族が居住しているため、ある特定の民族が大集団で移住してコミュニティを継続するケースもいくつもありました。しかし今回のケースのように、100年単位でコミュニティを維持し、文化や言語を守り抜くのは相当な苦労があったに違いないと思います。似たようなマイノリティ・コミュニティがあったけど、周囲の多数派の集団に吸収されて消えてしまったケースがこの何十倍、何百倍もあったのだろうと思います。おそらく記録にすら残っていないものもあったでしょう。
そう考えると、集団が「ある」ということそれ自体が価値のあるものだし、「少数しかなくて非効率だからやめてしまえ」というのは相当な暴論であるのだろうと思います。
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