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坂田藤十郎の芸

もう一人忘れられない歌舞伎役者がいた。
坂田藤十郎、私が知った時は中村扇雀だった。このころ本当に凄かった(以外ややこしいので坂田藤十郎でいきます)

坂田藤十郎という名を語るとき、やはりその出発点として女方の芸がある。中でも、近松門左衛門の作品における女方の演技は、藤十郎の芸の粋と情念が凝縮された領域であり、彼の生涯を通じて繰り返し演じられた「お初」や「梅川」は、単なる女の役ではなく、「愛に生き、愛に殉ずる人間」の象徴として結晶していた。

女方の演技において、藤十郎が最も大切にしていたのは、「女を演じる」ことではなく、「女の中に生きる情念を映すこと」であった。たとえば肩の落とし方、指先の角度、裾のさばき、そのすべてに微細な感情が込められている。視線ひとつにしても、愛を乞うときと、死を覚悟する瞬間ではまったく違う色合いを持つ。それを藤十郎は、ひとつの作為も見せずに「ただ、そうあるべくしてそうなる」ように表現するのである。

また、藤十郎の女方には、決して「可憐さ」や「優美さ」だけではない、深い陰影としたたかさがあった。たとえば『冥途の飛脚』の梅川。忠兵衛との情愛に生きるが、同時に彼女は一個の「芸者」としての矜持と現実を見据えた強さも持っている。藤十郎はその二面性を、柔らかな声の裏に滲む厳しさ、伏し目がちの表情に潜む覚悟として描き出す。その演技は、絵巻のように美しく、しかし紙の裏には血のにじみを見るような、生々しさと真実があった。

声の使い方にも、藤十郎ならではの工夫がある。高く澄んだ声で哀訴する場面もあれば、低くくぐもった声で情念を沈める瞬間もある。その緩急、濃淡のつけ方は、まるで音楽のようであり、観客の心を揺さぶる。女方の声が単に女らしいかではなく、「その声に、どれほどの感情が含まれているか」が問われる。藤十郎はその点において、常に第一人者であった。

そして、老いてなお女方を演じ続けたことの意味も大きい。若さと美貌が前提となりがちな女方という領域において、藤十郎は「老いもまた美である」ことを証明した。しわの浮いた手、やや重くなった所作。それらが一層、お初や梅川の「人生を重ねた女」としての重みを与える。若き日の透明な情熱ではなく、歳月の中で磨かれた深い情。その変化をこそ、藤十郎は舞台で生き抜いた。

藤十郎の女方は、観客に「この人を演じているのは男だ」と思わせることなく、むしろ「この人は今、この情に生きている人間だ」と思わせる力を持っていた。その演技は、性別を超え、時代を超え、近松の描いた哀しき人々の魂を現代に届け続けた。女方の芸は「型」の世界でありながら、藤十郎はその「型」の中に、人間の「生」のすべてを宿らせたのである。

近松の世界において、女は決して弱い存在ではない。むしろ、時に男よりも強く、深く、過酷な決断を担う存在である。藤十郎は、その近松の「女」を、見事に現代に蘇らせた。身体の隅々にまで情念を行き渡らせ、観客の記憶に深く刻み込む。その姿こそが、真の意味での「女方の演技」であり、坂田藤十郎が到達した、ひとつの頂であった。

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