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映画「いまを生きる」を10年振りに観た "いま"

2026.2.1
若き日のイーサン・ホークが出演している「いまを生きる」(1990)を2度目の鑑賞。あらすじ等は割愛する。

この映画を初めて観たのは丁度10年前、高校2年の頃だった。私は勉強が苦手ながらも所謂"自称進学校"へ通っており、決して得意では無い勉強に明け暮れた末に学業難に陥り不登校となった。
その真っ只中に観た当時の私の率直な感想は「大人になる前に観てよかった」。"救済"や"解放"といった前向きな希望に満ちた作品だと感じていた。
では、10年経ち大人になった"いま"も救済映画だったのか。



(ネタバレあり)



キーティングはヒーローなのか

私は信頼できる教師にも出会えず親に言われた通りの敷かれたレールを歩むだけの高校時代に嫌気が差していたからこそ、キーティングのような型破りな教師に出会いたかった。まだ未熟な自分を肯定してくれる存在だと思ったからだ。
しかしキーティングは悩める学生を救うヒーローではないのだ。教科書を破る、机に立つなど授業の仕方にも正直偏りがある。ただ彼が言いたかったことは人生の選択は自分自身にあるというアドバイスだったのかと。
自分の人生は自分で決める。何が好きで何に興味があるか、そして何をしたいか。しかし自分のやりたいことだけをやる、学校の規律を重んじないなどの極端な選択が本当に"正しいか"は別として。

生徒たちはトップレベルの学校に通っているところから背景はある程度伺える。親に言われた通りにする、決まりを守る、親や教師の言うことを聞くなど、それに囚われてしまうのでは自分で意志の決定や選択をする力が衰えてしまう。だからこそ「違う角度から物事を見る」などのあくまで選択肢を広げるためのアドバイスをしていたと思う。彼は反体制の象徴でもないし、規律破壊を推奨している訳ではない。この映画は一度も"正しい"選択をしろとは言っていないのだ。


ニールの死は「誰かのせい」ではない

ニールの死も、彼自身が自分で選択した結果であった。
これはキーティングのせいまでとは言えないが、キーティングに出会わなければ"このタイミングでの自死"は選んではいなかっただろう。ただ、キーティングに出会ったことにより得た希望がまだ未熟なニールには早すぎたのかもしれない。

厳格な家庭で育ち、生徒との間ではトッドに前向きな言葉をかけつつ自分にも言い聞かせているかのような場面も見られた。
そんな彼が親の反対を押し切ってまで選んだ自らの夢。それを絶たれた"いま"、あまりにも未来が真っ暗で人生のどん底から這い上がることができなかった。
ニールの死について学校が悪い、キーティングが悪い、ニールの親が悪いなどとは思わない。誰も悪くない。そうなったキッカケは学校、キーティング、親のそれぞれにもある。しかし最終的に決めたのはニール本人だ。彼は決して大人の操り人形ではなかった。
ニールのように悲しい結末になる者もいれば、トッドのように声をあげることができなかった者が1番に声をあげる。
それぞれの人生だから、それぞれの結末がある。最初から最後まで何が"正しいか"は言い切っていない。ニールの死をもってでも「あの時こうすべきだった」とも言わない。


"いま"を生きてしまった皮肉

彼らと同世代で観た10年前はこの現実から逃げてもいいという"救済"だった。しかしいまの私には、それを選んだ自らの責任を受容できるかがポイントとなった。
大人になったからかニールの死は若さゆえの少ない選択肢のひとつに死があったに過ぎないと思える。しかしそれは若く未熟な"いま"を生きているからこそ起こりうる可能性であった。
実際ニールに救いの手を差し伸べたものは誰1人いなかった。だからこそニールの死は誰のせいでもなく、彼自身に選んだ責任があると言える。


この映画は結末の是非を問うものではなく観た人の人生そのものを問う映画だと思う。自分の選択をし、自分の人生を選べ。正しさとは何かではなく、そういった問いを投げかけてきているのだ。
そして原題は「Dead Poets Society (死せる詩人の会)」だが、一方邦題は「いまを生きる」しかない若者という皮肉。いまを生きる若者それぞれの選択は観客の目にはどのように映っただろうか。

10年前の自分がこの映画に救われたことには違いないし、10年経ったいま全く違う感想を持てたことには自身の成長を感じた。
どちらにせよ、好きな映画であり大切な映画のひとつ。


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