自分のパンツは自分で洗え〜9、婚活をしたことのある者のみが石を投げよ①
6月のある日。トイレで用を足していた私は、トイレットペーパーが赤く染まっていることに気づいた。
この血……どこから出た?
生理の周期ではない。繁忙期で心身ともに疲れ果て、不正出血も日常茶飯事になっていたが、この血はいつものそれとは違う気がした。
水を流したあとだった。便器を覗いても何も残っていない。
不正出血? しかし、34年女として生きてきた本能が違うと告げる。
「……血尿?」
過敏性腸症候群、逆流性食道炎の悪化、ふと休んだときに動悸に襲われる。日付が変わる前に帰宅し、そのまま力尽きて朝まで眠る日もあれば、明け方に目が醒めてベッドに移動し、仕事のことを考えまんじりともできぬまま朝を迎えることもあった。
食事はスーパーの半額弁当と惣菜が中心。酸化した油に胃がやられるが、夜遅くに食事をするにしては体重が増えず、むしろ若干の減少を見せていた。
繁忙期も6月末には終わる。けれど私の身体はすでに限界を迎えていた。
『田丸さん。あと一ヶ月、活動を頑張ってみませんか?』
桜田さんが相談所の退会を引き留めたあと、紹介される男性の質が変わった。
会員ページを経由して、こちらから申し込む人にはことごとくお断りされた。プロフィールをありのままの姿に変更してから『家庭的な女性』を求める男性たちの条件を外れたことがわかる。お見合いにこぎつけても仮交際が成立しないのがわかっている相手だが、結婚相談所に登録する男性の理想とは、つくづく相手にとって都合の良い相手なのだなと思う。
しかし、相談所の活動では『仲人から紹介された相手はなるべくお見合いに進める』という暗黙のルールがある。桜田さんは私のお見合いを成立させることで退会を阻止したいのだろうと思った。
『今週もお仕事お疲れ様でした』『また来週も頑張りましょう』のやりとりしかしない仮交際のJさんとは、ようやくランチで会うことができた。次の週末に両親が遊びに来るんですと、そんな会話をしたのを覚えている。実際に会うぶんにはスムーズにやりとりがすすむのだが、次の予定が決まらないと『好印象』だった私の気持ちも『交際終了を検討』に移りつつあった。
スケジュールの埋まらなかった5月が嘘のように、6月は週末ごとにお見合いの予定が入っていた。
今日のお見合い相手はLさん。年齢が近い相手とはなるべく仮交際につなげたい。会う前にプロフィールを読み込み、私は彼の経歴が気になっていた。
Lさんは大学卒業後に一般企業に勤めをしたが、一念発起して転職活動をしたとあった。お見合い相手で転職を経験している人は珍しくない。彼は今、自分が学生時代に学んだ資格を活かして働いているのだという。
目標を持って行動する人を私は尊敬する。職場でも、結婚して子供を産んでから看護学校に入学した看護師や、サラリーマンを経て薬科大に入学し直した薬剤師もいる。Lさんもそういったタイプなのだろうと思った。
「僕、最初は農業系の営業をしていたんです」
お見合いの時はプロフィールをもとに会話が進む。私が仕事について質問すると、Lさんは快くそれについて話しはじめた。
3歳上の彼は実家暮らしだった。スーツ姿がこなれていると思ったが、営業職であればそれが毎日の戦闘服だったのだろう。清潔感のある身なりにすらっとした体型。数々の同世代男性とお見合いをしたが、健康的な姿はそれだけで好印象につながるものだ。
Lさんは札幌の大学に通い、就職活動でご縁があった農業系の会社で営業マンとして勤める。そこで数年頑張ったが、彼が学生時代に勉強したのは心理学についてだった。カウンセラーの道を諦めきれず、転職活動の末にとある会社のメンタルヘルスについてのケアを任されるようになったらしい。
「カウンセラーになるのは自分の夢だったんです」
「夢を叶えてすごいですね」
「ただ、その会社での仕事は思っていたのと違う内容で……そこでまた違う医療機関に転職しまして」
カウンセラーの世界はわからないが、産業カウンセラーと医療機関のカウンセラーは違うものなのだろう。
「医療機関は女の園で、お局から毎日ねちねち言われるのが辛くて。それで、今度はカウンセリングからコーチングの分野に移ろうと思って」
カウンセリングは過去の問題や感情の整理を目的とするのに対して、コーチングは未来の目標達成や行動計画に焦点を当てて相手の行動変容を促すことを主とする。異なる世界への挑戦はさぞたいへんだったに違いない。
「コーチングの会社にも何年かいたんですが、やっぱり自分は組織に属するのは違うなと思って。今は独立してフリーのコーチング講師として働いています」
「………………」
なんか、プロフィールに書いてあった内容と印象が違うな。
仮交際に進んだ人でも、転職歴が多い人はいた。その人の場合はスキルアップを目的とした転職であり、より収入の高い会社に移るための行動だと本人も説明していた。
はたしてLさんもそれと同じだろうか?
「新しい世界に挑戦するのはすごいと思いますが、収入が不安定になるときは大変じゃなかったですか?」
「幸い実家暮らしなので、生活はなんとか。会社の産業カウンセラーをしていたときがいちばん給料も良かったんですが……」
病院に転職した際に給料が下がったらしい。
「それでも病院での仕事はやりたいと思っていたことだったので頑張ったんです。でも、収入とお局たちから受けるストレスが見合わないなと思って」
「つまり人間関係が嫌になって辞めたんですね?」
包もうとしていたオブラートが破れた。私はコーヒーを飲んで次の言葉を探す。
「私も医療業界にいるから、人間関係のいざこざは経験してますよ。自分の心が壊れるくらいなら転職するのもありですけど、お局が嫌っていう理由で転職したら、どこに行っても同じじゃないですか?」
女の園では日々どろどろとした争いが繰り広げられている。私も人間関係の悪い職場に悩み、体調を崩したことがあった。自分の心を壊すまで働く必要はないが、社会人経験を積むうちに、お局や派閥や社内政治や、そういったことに対する処世術を身につけて行くものではないだろうか。
「……久深さんは、ちゃんとされた考えを持っているんですね」
自分で自分を養っていかなければならないのだから、いつまでも子どもみたいなことは言ってられない。お局にターゲットにされないよう媚びを売るスキルも必要だが、そりの合わない相手と割り切って働く気持ちのコントロールも必要だ。
Lさんとは仕事の話題を切り上げ、趣味など明るい話に変えると思いのほか盛り上がった。別れの挨拶も和やかで、せっかくの同世代なのだからとお見合い後は仮交際を希望したのだが。
「……Lさんからは、お断りのお返事でした」
定期面談の際、桜田さんが申し訳なさそうに言った。
ショックな気持ちもあるが、やっぱりなと思う自分もいる。あのお見合いの席で、私は彼の転職癖に苦言を呈していたのだから。
しかし、Lさんの転職歴は見ていて不安だった。本人はそれっぽく語っているが、ようするに「思っていたのと違うから」「人間関係が嫌だから」という逃げの姿勢で仕事を辞めている。以前、仮交際をしていた男性のステップアップとは大きく違った。
その場しのぎの転職をくり返すとどうなるか、それを私は知っている。
