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他人とAIのやり取りを聞くのって、他人の夢の中の話を聞いている心地がする

これはフェンリル デザインとテクノロジー Advent Calendar2025 24日目の記事です。

信じられないほど面白く、しかも目覚めたときに、その体験の感覚がはっきり残るような夢を見た経験は、誰もが一度はあるでしょう。
心臓はどきどきしているし、涙が本当に流れている。そうした、現実感あふれる夢を見たことは、不思議と誰かに話したくなります。その時抱いた自分の感情は本物で、しかもとても劇的だから、誰かとその気持を共有したくなるのは、人間の性なのでしょう。

フェンリルでは課によっては、始業の挨拶代わりに「今日の一言」を投稿することが推奨されています。
この「今日の一言」に、夢の内容を記すのはうってつけです。ついさっき味わったあの感情を、新鮮な状態で書くことができるからです。私もたびたび、今日の一言として、夢の内容を記してきました。

例えばこんな一言です。

そ、そっか…としか言いようがない夢の話

他にもたくさんあります。というかslackで「From:@自分の名前 夢」で検索したら、7件も投稿したことがあることが判明しびっくりしました。会社で「今日の一言」文化のある人はちょっとやってみてください。

胸焼けしそうな夢の話×6

他人が見た夢の話の数々。これを見たあなたはこう思ったんじゃないでしょうか。
知らんがな、と……。

夢オチの虚無感

よく知らない他人が見た夢って、どうしてこんなに「知らんがな」感があるのでしょうか。
具体的に言うと、どうしてこんなに「一瞬面白いと感じるけど、その面白さはすぐ遠ざかっていき、虚無感が残る」ものなのでしょうか。

「来週大学の入学試験なのに、全然勉強してなくて。参考書をめくっても、覚えていないことばかりで、めちゃくちゃ焦るし、こんなの絶対落ちる! って絶望する夢を見たんだ」

これを聞いたとき、「そういう夢私も見る。焦るよね」と夢を見たことそのものについて共感はできます。朝目覚めたときの疲労感は、想像することができるでしょう。
そして、この焦り・絶望感そのものにも、一瞬は共感したのではないでしょうか。大事な試験なのに、まったく勉強をしていない……その状況を想像して、苦い気持ちになったと思います。
しかし、その共感はすぐに「という、夢を見たんだ」という言葉で裏切られます。せっかくこの夢の語り手に共感したのに、それは現実の出来事ではなかったのです。不思議なことに、それを人間は「損をした」と感じるらしく、なんとも言えない虚無感に包まれます。
語っている人は、騙し討ちをしたつもりは全くありません。なぜならその人にとって、その焦り・絶望感は確かに感じたものであり、感情自体は事実だからです。だから、劇的な夢であればあるほど、共感を求めて人に話したくなります。

(ここまで読んで、「自分も今日の一言に夢を書いてる……みんなに知らんがなって思われているんだ…」と思う人もいるかと思いますが、安心してください、思われていません。あくまで、「よく知らない他人が見た夢」を聞いたときの人間の反応です。一緒に仕事をするぐらい知り合っている仲の人が見た夢は、くすっと笑えて面白いものです。「その人」という背景が付与され、その人自身の面白さになるからです。私も知り合いが自分が見た夢の話を聞くのは好きです)

さてこの、他人の夢を聞いたときの心地、最近別の状況でも感じたことはありませんか?
その人自身の話だと思って聞いていたら、最後の最後で肩透かしを食らう……
そう、夢オチならぬAIオチです。

他人とAIのとのやり取りは夢のごとく

例えばとある映画を見たとします。その映画は、主人公の行動が賛否を呼んでいて、見る人によって受け取り方が異なるようなストーリーでした。その感想をSNSで見つけたときを想像してください。

SNSの誰か「私は、この映画の主人公の選択は肯定したい。確かにその選択によって、多くの人が犠牲になった。しかし、主人公が選択をしなければ、主人公が誰よりも大事にしていた家族が救われることはなかった。その覚悟や愛は本物だと思う」
私「うんうん……それもまた作品解釈の一つ……この人は身近な存在の愛を重視するんだな……」
SNSの誰か「ってAIが言ってた」
私「ほあ〜〜〜〜(脱力)」

「と、AIが言ってた」という言葉の虚無感は、夢オチと似ています。私はあなた自身が考えた言葉だと信じて、共感し、議論を深めようとしていたのに、「AIが言っていた」と添えられただけで、損をしたような気持ちになり、虚無感に襲われる。「という夢を見た」と同じ感覚に陥ってしまいます。

「資料を作りました」と言われて見て、内容について感想を送ったら「AIで作ったので……」と言われたとき。
いい文章の最後に、「AIに書いてもらいました」と添えられていたのを見たとき。
夢オチと同じ感覚になるのは自然でしょう。共感していたはずが、それがその人自身の言葉ではなかったと突きつけられるからです。「AIが言っていた」という言葉さえなければ、本当だと信じられたのに。

そもそも、他人とAIのやり取りを聞いたり、それをほのめかされることは、他人の夢の話を聞くのと似ているのではないでしょうか。
実際、AIは使う側の問いかけ・文脈にそった回答をします。はっきりとした正解のない質問をしたときは、使う側の味方になるような答え方をします。客観的で、中立の立場で答えてくれるイメージのあるAIですが、実のところはそうではなく、あくまでAIに問いかける人のためだけに用意した答えを提示します。
先程の映画の例の場合も、発言した人は単に、AIが言っていたことをそのまま伝えている訳ではありません。AIの言葉が自分の意見に近しい・共感できるからこそ、意見を発信したはずです。AIは過去のやり取りや、尋ねられた質問から、その人にとって望ましい解説をし、人はそれを自らの答えとする。
それはつまり、その人にとってははっきりとした事実であるものの、他人からしたら共感しようがないもの、夢の中で起きた出来事と言えるのではないでしょうか。

AIと夢の中の出来事の大きな違いは、AIはその人の頭の中にはない知識を、答えとして出力できる点です。夢の中で、まったく知らない言語をすらすら読むことはできませんが、AIなら概ね正しく翻訳してくれるでしょう。
それは自分が生成AIと対峙したときの、相手は客観的存在なのだという感覚に繋がります。
しかし実は、AIとのやり取りそのものは、鏡の中の自分と会話するようなものです。人間とAIが互いに誘導し合って生み出された、その人にしか理解のできないごく個人的な体験。そのやり取りそのものを明らかにすることは、夢の出来事を誰かに語るのと同じなのです。
それに気づかず「と、AIが言っていた」と添えることは、夢オチの虚無感を、意図せず相手に与えてしまうかもしれません。

AIの答えはその人が責任をもつもの

AIとのやり取りの末、出力したものは価値のあるものです。その出力したもので伝えたかったこと、議論をしたいことがあるはずです。それを、意図しない虚無感で台無しにしないためにはどうすればよいでしょうか?
答えは簡単です。「AIが言っていたんだけど」と最初にはっきりと言ってしまうか、いっそ「と、AIが言っていた」というオチを添えないことです。
AIとのやり取りの末に生み出されたもの、答え、考えは、AIをものではなく、その人自身のものです。その人が責任を持って引き受けるものです。発信するときには、自分の言葉であると覚悟を決めて伝えるべきものです(だからこそ、それが誰かの権利を侵害していないか重々吟味し、そして責任を持つ必要があります)。
もしその責任が取れないのなら、それはまだその人自身の意見として定着していないということなので、胸の内に秘めるのがよいでしょう。「AIが言っていたんだけど」と枕詞をつけて伝えたとき、よほどその人に興味がない限り、聞き手は少しのやるせなさを覚えます。
なぜなら生成AIとのやり取りそのものは、その人のごく個人的なやり取りの結果であり、その人しか知らない夢の中の出来事と同じだからです。

AIの答えは出力したその人自身の答えで、その人自身の責任である。
人は、夢の内容ではなく、夢を語るその人に興味がある。
AIによって作り出されたものに、一体どれほどの価値があるかはまだ議論は止みません。
一方で、AIを活用した「その人自身」に存在価値あることは、やはりこの先もずっと変わらないのです。

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