見出し画像

写真植字……石井賞・創作タイプフェイス・コンテスト

以前にもお話したことがありますが、小生はある時期、タイポグラファー志望青年でした。
いつの頃からか、活字を見て字体としての魅力に魅せられていました。

中学でSF少年〜青年仲間になった親友の親父が、日本の有数のタイポグラファー研究者・大学教授だったかも知れません。
彼と一緒に同人誌を発行するに当たって、ガリ版に鉄筆でいわゆるガリ版文字を書いていたからかも知れません。

ガリ版とは、戦後の日本で大いに普及していた簡易印刷です。
学校や会社の印刷物に日常的に使われていました。
謄写版といわれる孔版形式の印刷です。その後(1977年)、理想科学社から発売された「プリントゴッコ」も、これを発展させた同様の印刷方式です。

謄写版印刷で「ガリを切る」あるいは「原紙を切る」と言われるのが、一種の製版作業で印刷用の版を作る工程です。
「ガリを切る」とは概ね、ロウ原紙に文字を刻んでいくことです。これを「筆耕」と言います。

辞書に寄れば「筆耕」とは、報酬を得て筆写をすること。
100年前の東京で、あの宮沢賢治が関わっていた仕事が、くしくも謄写版印刷の「筆耕」でした。
苦学生だった賢治が、文信社という謄写屋で生活のためのバイト仕事だったそうです。

筆耕という作業はプロフェッショナルな実用書道として現在も残っています。賞状や卒業証書などの名前部分は筆耕ですし、熨斗を扱うお店や御朱印帳を受け付ける神社やお寺なども一種の筆耕作業です。

ガリ版に話を戻します。
マス目の入ったロウを塗った原紙を、鉄やすりの台の上に置き、鉄筆でカリカリと文字を手書きで刻んでいきます。
紙面に文字を書き終わったロウ原紙を、謄写版=スクリーン印刷台にセットし、インクの付いたローラーで印刷します。

この先端が鉄製の筆記具「鉄筆」はいまでも文房具として販売されていると思います。単に文字を書くということではなく、一文字一文字読みやすくきれいに仕上げる技が求められます。
この時、ロウ原紙のマス目にカリカリと書いた文字の多くは、フトコロの深い字体(私見ですがナールの原型になった字体)で書かれました。

当時はゴシック体・明朝体・楷書体と書き分けるプロがいたようですが、小生はただ書きやすく読みやすいよう、基本字体を書いただけ…それがフトコロが深く、少し丸みを帯びた文字になったのです。
そして何度も言いますが、私見で想像するに、中村さんもこうしてナールを作ったんだなぁと思いました。

小生がサラリーマンデザイナーになった頃、1970年頃に日本社会で広まり始めた、写真植字いわゆる写植。
写真植字は、日本の長く続いた印刷文化・鉛製の活字による組版からの脱却です。

1970年代の初頭、東京でデザイナーになった小生も、仕事で写研の書体を使っていました。
当時からMM-OKL(中明朝体・オールド大仮名)の優雅さは憧れでした。

ガリ版の筆耕から写植の書体設計と、舞台は変わりましたがタイポグラファー志望青年の夢は続いていました。

ある時期、この「写研のコンテスト」に、小生ものめり込んでいたことがあります。「石井賞・創作タイプフェイス・コンテスト」です。

第1回コンテストの1位に輝いたのが、中村氏による「細丸ゴシック・ナール」でした。本当に一世を風靡しました。
応募は、ひらがな・カタカナ・漢字・約物・数字の16×11文字を、B全のボードに1年間掛けて描いて貼っていくんです。

タイポスやナールという書体などが、どんどん発表された時代です。
以降、ゴナ・スーボなどが続々と発売。ウエイト(字体の太さ)も何種類も変えてラインナップも充実。
さらに写研・モリサワ以外にも、リョービ・フォントワークス・ニィス・モトヤ・イワタ・大日本スクリーンなどメーカーも続々登場しました。

時代が進み、やがて写真植字の時代が終わり、DTPが始まりました。
デスク・トップ・パブリッシングを、みなさんも現在日常的に行っています。

誰でも文字を文章を組版として、簡単に印刷することが可能になった時代…それが今・現在です。
でもほんのちょっと前まで、組版するとは「こんなにも大変な時代」があったことを覚えておいてほしいですね。


いいなと思ったら応援しよう!