サイボーグ少女の決断を支えた将棋の力。『ここはすべての夜明けまえ』感想
すごい小説を読みました。
このことばはいまもわたしの中で人間とはなにかをかんがえるときにあたまをよぎる、(中略)
これは人間そのもののとくちょうというか、とく性のようなものをいいあてているような気がしてます。
これは融合手術を受けた125歳のサイボーグ少女の言葉です。
柔らかく個性的な雰囲気の中にいると、時折ハッとする言葉が差し込まれる。
この小説は家族全員を亡くしたあと、記憶を辿りながら一人称で家族史を綴っていくという物語。
前回は本書との出会いと、読んだ直後の感触を勢い文章にしました。
これは!と思った箇所には付箋を貼ったので、そのあたりを中心に読み返しながら、思ったことを書き連ねつつ、本書の魅力の深いところまで手が届けばいいな、と考えています。
今回はその続きです。
(一つのトピックを一話完結で記事を書いていくので、前回の分は読んでなくても大丈夫です。)
この記事は本の感想というより、
125歳のサイボーグ少女の書き残した文章から、面白そうなものを抜き出して、それを深く掘り下げることで小説の世界にダイブし、泳ぎ回って遊んでみる、という記事だと思います。
よかったらご一緒にどうぞ。
今回ダイブする水場はどんなところかというと、
「サイボーグ少女と将棋のチカラ」についてです。
絶妙な喩え
付箋を貼った箇所はこちら。
いろいろある戦法のなかでわたしは相掛かりがすきで、それは飛車先の歩がたったひとりすすんでいくすがたがさびしくていいなとおもったからです。
サイボーグ少女の「わたし」が100年前に将棋を指したことを思い出し、好きな将棋の戦法を語る場面です。
実は僕、将棋の「初段」を持ってまして、アマチュアでは中くらいの強さで毎日アプリで対戦してるほど、まあまあの将棋ユーザーなんです。
なのでこの場面を読んだ時、「さびしくていいな」という、繊細で微妙な感情が、ありありと実感として襲って来て、これは!と付箋に手を伸ばしたわけです。
将棋をご存じない方は「相掛かり」なんて言葉聞いたことないんじゃないでしょうか。
「相掛かり」という戦法は、こんな形をしています↓

飛車先の歩がたったひとりすすんでいくすがた。
「わたし」はこの赤丸で囲んだ「歩」を見て
「さびしくていいな」とおもったのです。
なんて絶妙な喩え。
僕もかなりの数、将棋指してきましたけど
こんなこと思ったこともない。素晴らしい。
「相掛かり」という戦法はプロ棋士の間でもよく使われる、上級者向けの戦い方。初心者が使いこなすのは難しいので、覚えたてのうちは普通使わない。(僕は絶対使わない)
でも「わたし」はその戦法が好きだから、ずっと「相掛かり」を使う。
それで毎回、負ける。
負かされる相手はほとんどが「おとうさん」だったとのことですが、
かわいいというか、儚いというか。
勝つことが目的ではなく、独特の美学で将棋を指していたんだ、ということがわかるのです。
「相掛かり」という言葉がなんだか響き良く聞こえてきた気がします。
さらに説明させて頂くと、「相掛かり」は「相」という文字が入っている通り、相手の同意がないと(基本的には)成立しない戦法です。
相手が別の戦法を繰り出して来たら、発動できない。
「相掛かり」をする際は、必ず自分も相手も「一緒に」相掛かりをすることが前提になる。
お互いがさびしい「歩」を付き合いながら。
「相掛かり」のことを愛おしく思えてきた僕は変態でしょうか?
「わたし」の心に少し触れられた気がしてます。
ちなみに僕の好きは戦法は「三間飛車」です。↓

「相掛かり」とは真逆の戦法だと言えます。
どの駒も一人にさせず、全員が手を取り合って有機的に機能を果たす。
相手が隙を見せるまで、じっとカウンターのチャンスを待つ。
相手の仕掛けをパターン化して論理的に対処する。
ここぞというときはセンスが大事。
・・・僕の性格が現れていそうです。
「わたし」の文体を真似してみると
「みんながてをつないでいるすがたがうつくしくていいなとおもったのです」
という感じになるでしょうか。
永瀬拓矢先生のインタビューどう画
本書で将棋の話が出てきたのは
「わたし」が自殺未遂をして病院に運ばれたとき
医者に融合手術の提案を受けている場面で
唐突に、
あたまのなかでアスノヨゾラ哨戒班をながしてたら将棋のことをおもいだしたので、将棋のはなしもしたいです。
と、気まぐれに差し込まれるのです。
そこから4ページほど、将棋の思い出を語ります。
二〇一五年、ねむれない夜にYouTube の海を泳いでいたらプロ棋士の永瀬拓矢先生のインタビューどう画をみつけたんでした。
【電王戦 FINALへの道】#2 信じる人 永瀬拓矢
この動画は実際にあります。
電王戦とは、プロ棋士とAIソフトが戦う非公式のタイトル戦。
永瀬拓矢先生は、その五番勝負の第二戦を受け持つ若手プロ棋士。
この動画の始めの方で語られた次の言葉が
「わたし」に将棋への興味を持たせたのでした。
将棋と言うのは、努力で全て決まると思っているので
才能なんか一切要らないんですね!
これを聞いた「わたし」は動画を一旦止めて、
検索バーに「将棋 コンピューター 対戦」と打ち込み、電王戦について調べ始めます。
人間が勝てなくなってるんだってことがわかりました、
含蓄ありますねえ。
本書でうっすらテーマになっている、
「人間対サイボーグ」という関係を象徴的に言い当てているような。
そして「わたし」は調べ終わったあと
きっとこの永瀬拓矢ってひとは負けちゃうんだろうな、っておもいながらどう画にもどってつづきをみたんでした。
すると動画の後半で
「わたし」の運命を変えたかもしれない言葉に出逢います。
少し長いですが、
「わたし」も手書きで書き写していたので、
すべて引用します。
得体のしれないものに対峙した時にどれ位まで積み重ねられるか⋯⋯が個人的にはポイントかなと思っております。やっぱり人間ですのでやれる事はひとつしかなく、1パーセント1パーセント⋯⋯1パーセントじゃなくても後退せずに一歩一歩確実に前に進んで行き⋯⋯その方向性が合っているかどうかが重要だと思うんでけど、ただその方向性を決めるのは自分なので、一生懸命前に進んで行きたいというのがありますね。
するとこれを聞いた「わたし」は、
このことばはいまもわたしの中で人間とはなにかをかんがえるときにあたまをよぎる、永瀬先生は自分がコンピューターとどうたたかうかをいってるんだけどこれは人間そのもののとくちょうというか、とく性のようなものをいいあてているような気がしてます。
「人間とは何か」という壮大な問いに対する
「わたし」の一つの回答を見たわけです。
こういう重めのテーマが、気まぐれで柔らかい文体とひらがなの羅列という独特な書き方のせいで、絶妙な味わい深い文章として現れているんです。
たまらないですね。
電王戦FINAL
その後「わたし」は電王戦FINALを観戦します。
ちなみに当時僕も、この電王戦FINALは興奮して観てました。
これまでに電王戦は4回開催されていて、結果はコンピューター側の全勝。
人間は一度も勝ててません。
FINALは5番勝負。先に3勝したら勝利です。
第一局、プロ棋士側が負けて
流れ悪く迎えたのが永瀬先生の第二局。
電王戦 FINAL 第二局、Seleneというソフトとの対局で永瀬先生は後手をもって勝ちました。
なんの脚色も感情の動きもなく、ただ事実を並べていくように淡々と語る「わたし」。
勝ったんですよ!すごいことです。
喜んでいいところなのに、「わたし」からすれば100年も前のことだから、当時の感情は薄れているのでしょうか。
そのあと「わたし」は、なぜ永瀬先生が勝ったのかを、詳細に調べるのです。
・電王戦で人間が後手を持って勝ったのは永瀬先生だけ
・永瀬先生がコンピューターの反則負けを引き出して勝利した。
・そのバグは最初からずっとあった。
もちろんこれらも全部、事実です。実際に反則負けが起こりました。
「わたし」はその反則負けがどういうものかまで、綿密に調べます。
簡単に説明しますと、
永瀬先生が88手目に「2七角不成」という手を指して
ソフトがこれを認識できないというバグが発生。
王手になっていたので、逃げなきゃいけないところをそのままソフトが放置した。これが「王手放置」という反則負けにあたり、永瀬先生の勝ちに。
え、じゃあべつに勝負できまったわけじゃないんだっておもうかもしれないけどそれはちがいます、
「わたし」は少しむきになっている?
わからないけどなんか可愛い。
実際「わたし」が言う通り、永瀬先生は反則勝ちしなくても、将棋の内容で勝っていました。
「2七角不成」がバグを引き出したわけですが、
この「不成」というのがミソでして、普通は「成」と指します。
将棋では敵陣に駒が入ると「成」か「不成」を選択できるんですが、
永瀬先生は「不成」を選んだ。
とくに「角」という駒は「成」ることで可動範囲が増えるだけなので、メリットしかありません。ほぼ100%誰が指しても「成」ります。
そこを「不成」と指されたので、ソフトが異常な動作という認識を持って、バグが発生。王手を放置して反則負け。
対戦相手のソフトは、事前に同じソフトをプロ棋士側が練習用として支給されているので、永瀬先生はこのバグを事前に知っていたんです。
だから、確実に勝とうと思ったら、そのバグを利用してすぐに勝つこともできた。
でも永瀬先生は18手目で「角」を敵陣に入れた時、「不成」にしていればバグを引き出して勝てていたところを、「成」を選択したのです。
つまり永瀬先生は真正面からソフトにいどんでいき形勢は苦しかったみたいだけどあきらめずにさいごは自力で勝ちをひき引きよせた、
それでも永瀬先生が最後88手目に「不成」を選択したのは、自分が勝つ局面になっていたからでした。
局面で勝っていながら、より確実な「勝ち」を選んで「不成」を実行したわけです。
なんか人間らしいですね。
永瀬先生は対局後の会見で
(ソフトとの)勝率は1割くらいぐらいだったと思います、全体を通して。
(中略)ただ、1割を引くことも実践で可能だと思ったのが、私の理論だったので
と語っている。
「わたし」はそれを聞いて
わたしも将棋のことはよくわからないけどすごい、だってほとんど勝てないソフトにどうやって本ばんで一割を引けたんだろう、なにを積み重ねたらそんなことができるんだろう、わたしも将棋をやれば、永瀬先生がいってたみたいに努力したらわかるのかな?ってちょっと将棋にきょう味がでて、コンピューターと対戦できるアプリをダウンロードしてみたんでした。
こうして「わたし」は将棋を指し始めて、「相掛かり」と出会うことになるのです。
本書の将棋に関する記述は、この言葉を最後に締められていました。
積み重ねること。
一歩一歩確実に前に進むこと。
信じること。
「わたし」はこの後、サイボーグになるための融合手術を受ける決意をするのです。
「人間のすがた」
「わたし」は語っていませんが、
実際の電王戦FINALは、2勝3敗で人間側の敗北で幕を下ろしました。
「人間のすがた」を考える上で、
第五局の展開にもちょっと触れておきたいです。
受け持ったプロ棋士は阿久津主税八段。
第四局までの結果は1勝3敗とすでに人間側の負けが決まっていたのですが、構成上(?)対局は実施されることに。
この対局は阿久津先生がソフトに勝ったのですが
その勝ち方は、なんとまた「バグ」の引き出しによるものでした。
わずか21手で、ソフト側の開発者が投了(負けを宣言)する事態に。
阿久津先生は相手ソフトを事前に研究して、こうするとバグが発生するという弱点を見つけていたのでした。
対局が始まると、永瀬先生のように真正面から勝負するのではなく、序盤からバグを発生させるような展開に誘導したのです。
作戦は成功し、実際にバグを起こさせて、勝利。
これには多くの批判も上がりました。
プロ棋士なら勝負して欲しかった。
プロ棋士が「ハメ手」を使うなんて。
将棋の技術向上に繋がる指し方をして欲しかった。
阿久津先生は対局後の会見でこう語ってます。
「結果を求められていることもあって、1番勝算の高い形を選ぶべきと思いました」
なんて人間らしい。
人間とコンピューターが競う最後の大会の最後の対局、勝敗はもう決まって迎えた対局で、プロ棋士が「ハメ手」を選んだ。
当時リアルタイムで見ていた僕は、がっかりしたのを覚えています。
でも同時に、「すごい!」とも思った。
なんて泥臭い。でも美しい。
かなり純度の高い「人間のすがた」を見た気がしたのです。
「将棋」の記憶
本書に「将棋」の記述が出てきて僕が興奮したのは、
その微妙な感情の描写をリアルに感じ取れるから、というのもありますが、
もっと大きいのは、「将棋」は本質的な「人間のすがた」を見せてくれるのではないか、と考えていたからでした。
本書では、自然な形で巧妙に「将棋」が物語に埋め込まれています。
「将棋」が露わにする「人間のすがた」がストーリーの中で重要な役割を果たすのです。
「わたし」は小説の後半で、ある大きな決断を迫られる。
その決断を勇気づけたのは、「わたし」の中にある将棋の「記憶」でした。
融合手術を受けた「わたし」には、生身の脳にメモリが挿さっています。
脳とメモリどちらにも将棋の「記憶」はあると考えられるのですが、それぞれに入っている「記憶」の情報が微妙に違う。
というのは、最初の方で出てきた将棋の話では漢字がよく使われていたのに、後半(第三章)では漢字が一切使われなくなり、生身の脳の動作のみで将棋が語られる(と考えられる)。
あとはしょうぎとか。わたしたちはあいがかりがすきだから、ひしゃさき
のふが、にすじとはちすじのまんなかで、しずかにたたずんでいる、
「わたし」が、タイムマシンがあったら何をするか、を語るところで
過去に行って自分と会い、将棋をしたいと吐露する。
「わたしたち」というのは、「わたし」と「わたし」のこと。
「相掛かり」の描写が少し変わっています。

上の四角が2筋(にすじ)で下のが8筋(はちすじ)です。
飛車先の歩が
「さみしくていいな」から
「しずかにたたずんでいる」に。
ほとんど同じ意味の言葉なんですが、
微妙に立ち上がってくる感情が違うと思うのです。
その微妙な違いが、大きな決断をする前と後の心情の変化を表している。
どんな変化が起きたのか? というのは別の記事で追い追い考えていくことにします。
まとめ
かなり長くなってしまってすみません。
将棋のこととなるとつい語りすぎてしまう。
とくに、実在する動画や棋士が物語に埋め込まれているので、考えがいがあるというか。
本書は、125歳のサイボーグ少女が家族史を綴る、という完全に空想のお話です。
でもその中で重要な役割を担う要素が、現実のものだったりするので、臨場感が爆上がりするのです。
空想と現実の壁を取っ払われたみたいに。
今回、その壁を壊してくれたのが、「将棋」でした。
「人間とAI」という大きなテーマに「将棋」を絡めて論じてみたかったのですが、この記事の本筋とはずれるので、なくなく諦めました。別で記事にします。
前回のコメントで頂いた、
「人工脳もどきが暴発して生身の脳と融合してしまったのではないか。」
という仮説もとても面白くて、
「将棋」がそのきっかけになったのではないか、と密かに思ってます。
そのあたりも「人間とAI」というテーマを語る際に、掘り下げてみたいですね。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
また今年もよろしくお願いします。
前回の記事
本書の読みどころがわかりやすくまとめられた素晴らしい記事はこちら↓
僕が本書を買ったきっかけの記事です。
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ここまでお読み頂きありがとうございました。
こちらで頂いたお気持ちは、もっと広く深く楽しく、モノ学びができるように、本の購入などに役立たせて頂いております。
あなたへ素敵なご縁が巡るよう願います。