ソ連の史料で日本の左派政党への資金援助を調査した『クレムリン秘密文書は語る』(1994)
20世紀の国際政治史を通じてソ連はさまざまな国々に対して秘密工作を行いましたが、その基盤となった組織にコミンテルンがあります。その正式名称は共産主義インターナショナルであり、設立時期は1919年3月2日、解散時期は第二次世界大戦の最中である1943年5月15日です。
このコミンテルンの解散はソ連が英米との関係を改善する必要があったためでしたが、第二次世界大戦が終結すると、最高指導者のヨシフ・スターリンは1947年に共産主義政党の国際組織としてルーマニアのブカレストに本部を置くコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)を設立し、諸外国で共産主義運動を支援する政治工作を再開しました。
ソ連共産党中央委員会が1950年7月19日に採択した決議では、海外の「左翼政党」、「進歩的労組」、「大衆組織」を金銭的に支援するため、ルーマニアの労組評議会の付属機関として「左翼労働組織支援国際労組基金」を設置し、初年度の予算として200万ドルを確保しています。
この予算は西側の共産党や関連する政治団体の援助に使用されており、フランス共産党、イタリア共産党、フィンランド共産党、英国共産党、オーストリア共産党など合計12の共産党に資金が提供されています。
こうしたソ連の支援は日本の政党にも及んでいたことが分かっています。『クレムリン秘密文書は語る』はソ連のアーカイブを用いてその実態を浮き彫りにしている著作です。
この著作はソ連共産党の内部文書を利用し、日本の政党にどのような援助が行われていたのかを調査した成果をまとめたものです。ソ連側の記録で日本の政党に対する援助が確認できるのは1951年であり、左翼労働組織支援国際労組基金の予算規模が323万ドルに拡大された時期にあたります(83頁)。
1951年には日本共産党に対して10万ドルの援助が配当されており、他にはインド共産党、トルコ共産党などアジア諸国の共産主義政党に対する支援が本格化しています(同上)。ただし、1951年分の基金の予算は想定より早く使い切ったため、「フランス共産党への60万ドル、日本共産党への10万ドル、インド共産党への10万ドルなどはソ連共産党の資金から渡された」と追加経費を措置していたことが分かります(同上、84頁)。
その後も援助は継続的に行われていることが確認できます。1955年には25万ドル、1958年には5万ドル、1959年には5万ドルと推移しており、1961年には10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドル、合計85万ドルの資金提供があったと計算できます(同上、91頁)。
著者は、1961年12月11日付のソ連共産党中央委員会国際部議定書により、資金の受け渡しの責任者として指名されていたのはソ連国家保安委員会のウラジーミル・セミチャストヌイ議長であるため、著者は在京ソ連大使館で勤務するKGB職員を通じて不法に資金が提供されていたという見方を示しています(同上、91頁)。ただ、1963年の部分的核実験禁止条約をめぐって、日本共産党とソ連共産党との間で路線対立が起きたことにより、1964年以降は関係が悪化しましたが、関係が全面的に途切れることはなかったようです(同上、124頁)。
現在の日本共産党の公式見解として、こうしたソ連の資金を受け取っていたのは党に隠れて密かにソ連との関係を持ち、その後は党から除名された個人の行動であったとされています。そのため、党中央はソ連の秘密資金に一切関与していないという立場をとっています。
ただし、党首を務め、戦後も国会議員として議席を占めてきた野坂参三のソ連との繋がりがあったことは確認され、彼は除名処分とされました(114頁)。著者としては党の公式見解を踏まえつつも、ソ連側の記録では党に対する資金の提供と個人に対する支援を明確に区別しているので、党としての資金の受け取りがあった可能性が高いという見方を維持しています(95-6頁)。
この著作ではソ連と日本社会党の関係も調査の対象にしています。ソ連は1960年に日米安全保障条約が改定されたことや、前述した核政策の問題をめぐって日本共産党との関係が悪化したことを踏まえ、1964年前後から日本社会党に対する工作に着手したと見られています(137頁)。日本社会党はもともとアメリカ、中国、ソ連などと等距離外交を進め、自衛隊や日米安全保障条約も条件付きで容認していましたが、1960年代には非武装中立、反自衛隊、反安保の路線に移行しました。
日ソ関係の歴史との関連で注目すべきは、日本社会党が日ソ経済関係樹立に向けた具体的な行動をソ連共産党に約束したことです。この約束は当時の日本社会党書記長の成田知巳がソ連共産党国際部日本課の課長に宛てた秘密書簡の中で記されており、日本社会党を支持する中小企業、商社の協力を得るとされています(139頁)。その後、日本社会党は日ソ貿易委員会を立ち上げており、これは1974年に日ソ貿易協会に発展しました(141頁)。
こうした貿易関係を通じてソ連は取引企業を経由した援助を日本社会党に与えていたと著者は説明しています。1967年10月31日付のソ連共産党中央委員会議事録によると、日本社会党と関係のある日本の商社に対して、1967年から1968年にかけて通常商取引の形式で木材20万立方メートルを売却するように外国貿易省へ指令が出ています(145頁)。
このような日ソ貿易協会加盟商社を通じて流入する収益が日本社会党の収入になりました。1971年にソ連外国貿易省が作成した取引先企業のリストには5社の社名が記されており、1970年に50万ドルから190万ドルの日ソ貿易実績があったことが記されています(160-1頁)。
著者は、こうした関係は氷山の一角であると見ており、実際にその通りだろうと思います。この著作は1994年に出版されたものですが、ウラジーミル・プーチン大統領が2000年に政権を発足させてからの対日政策では経済提携が重視されてきました。今後の研究でも、こうした経済提携について詳細に調査することが重要になるでしょう。
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