「映画館大賞」はもうひとつあった。
先日、新しく「映画館大賞」という賞が生まれ、そしてSNSで話題になた。主に批判的なものだった。志は正しく、そして批判も正しかった。
きっと「本屋大賞」の映画版として立ち上がった賞だと思うのだが、なぜそうはならなかったのか。そもそも映画館が贈るべき賞はどんな賞なのか。そんなことを考えていたら、もうひとつの「映画館大賞」の存在を知った。
「本屋大賞みたい」を期待したが・・・
メールが届いたのは、春先のことだった。差出人は「映画館に行こう!」実行委員会。件名には「映画館大賞への投票のご協力のお願い」とある。下北沢「K2」にも、全国550館以上に送られたその案内が届いていた。私はこの「映画館大賞」という新しい賞が生まれることをそこで知ることとなった。
メールを読むに、趣旨や狙いは明快だと思った。全国の映画館スタッフが「映画館で観てほしい作品」を選び、その作品を再上映する——映画館に足を運んでもらうことを目指す、業界あげての取り組みだという。素直にいいと思った。映画館で映画を観ることの豊かさ(映画の本質と言っても差し支えないだろう)をもっと多くの人に届けたい。その使命感は、映画館を運営するものとして共鳴する。毎年発表される「日本アカデミー賞」に複雑な想いを抱いてしまう自分にとって、本屋大賞のような賞が映画界にも生まれることはとっても嬉しいことであり、期待もあった。だから「映画館に行こう!」実行委員会(日本映画製作者連盟・外国映画輸入配給協会・MPA・全国興行生活衛生同業組合連合会)がこういう取り組みを始めてくれたことに、率直に感謝した。
しかし5月12日、賞の結果が発表された直後から、違和感の言葉がSNSを中心に広がり始めた。大賞は李相日監督の『国宝』。2025年の邦画実写興行収入を塗り替えた200億円超・1,400万人動員の超大作だ。「もっと多くの方に観てほしい作品」を選ぶはずの賞が、すでに国民的に届き渡った作品を選んだ。さらに「映画館スタッフイチオシ部門」では未公開作品が1位に選ばれたことへの批判が重なり、「単なる映画プロモーションではないか」「選出基準を見直してほしい」という声が広がった。批判はもっともだ、と私も感じた。ただ同時に、ではなぜそうなったのかを考えたくなった。
賞は、結局セレクションの設計がすべて
そこで、まずは日本の映画賞の歴史を少し辿っておくこととした。日本の映画賞には百年を超える歴史がある。最古はキネマ旬報ベスト・テン。1924年、映画雑誌の編集同人による投票から始まり、米アカデミー賞より歴史が長い。評論家・記者ら120人前後の選考委員が、各々の基準で10本を選び点数化する。全投票内容と選考理由を誌面で公開するその透明性から、「大手配給会社に偏らないフェアな賞」として長く信頼されてきた。1946年には毎日映画コンクール、1950年代にはブルーリボン賞(映画記者が選ぶ)が始まり、1978年には業界団体が日本アカデミー賞を創設する。
各賞の違いは選者の属性に表れる。評論家が選べば作品の芸術性が、業界関係者が選べば産業の論理が反映される。
こうした系譜のなかで一際異質な存在が、日本映画プロフェッショナル大賞(日プロ大賞)だ。1992年から映画ジャーナリストの大高宏雄氏が個人で主催し続けるこの賞には、独自の規則がある。キネマ旬報・毎日映画コンクールなど主要な映画賞ですでに受賞した作品は選考外とする。既成の賞が見落としたものをあえて掘り起こすことが趣旨だ。私自身も審査員を務めた時期があるが(2022年の大賞の選考がK2の立ち上げの佳境とぶつかってしまいなにも出来ずとなってしまい、そのときは大高さんに大変に御迷惑をおかけしてしまいました。すみませんでした。。)、その選考の場には毎回、大手の賞とは異なる顔ぶれの作品が並んだ。「なぜあの作品が賞を取らないのか」という問いを原動力にした賞の文法は、現場の偏愛から生まれた本屋大賞と同じ、意義のある選考基準だと思う。
一方2004年に登場した本屋大賞は、出版業界の危機感のなかで、書店員有志が手弁当で集まり「このままではいけない」と立ち上げたNPOの草の根から育った。「根回しもすりあわせもない」その透明性と、棚の前で作品を届け続けてきた現場の偏愛が、受賞作をベストセラーに変えてきた。ただし、「本屋大賞は伐採商法だ」という作家・海堂尊氏の批判もある。受賞作に書店が力を注ぐ一方で、本来届くべき作品が平台からこぼれ落ちるという指摘だ。賞の設計はつねに問い直されるものだ。きっと100%の正解はありえないのだろう。そのことを念頭に置きながら、改めて映画館大賞について考えたい。
映画館とは、どの映画館を指すのか
映画館大賞は、「映画館に行こう!」実行委員会が主催し、東宝の社長が代表理事に名を連ねる組織的プロジェクトとして設計されたと見て問題ないだろう。来場促進という目的が最初から書き込まれていた。本屋大賞が草の根から育ったのと対照的に、この賞は業界のなかで見ればトップダウンで生まれたといえる。勿論どちらが正しいという話ではない。ただ、同じ「現場スタッフが選ぶ賞」という表層を持ちながら、動いている論理がまったく異なると思う。
なによりも、この「3,000票」の内訳を考える必要がある。現在、国内のスクリーンの88%はシネコンが占め、ミニシアター(アートハウス)のスクリーンは全体の約6.5%に過ぎない。全国550館以上への呼びかけで集まった3,000票は、必然的にシネコンのスタッフの票が圧倒的多数を占めているはずだ。
シネコンとミニシアターを分けて論じること自体、本来は好ましくない。業界としてまとまり、映画文化を一緒に育てていこうという志は正しい。ただ現実として、両者の機能と役割は明確に異なる。シネコンはブロックブッキング(配給会社が決めた作品を系列全館で一斉上映するシステム)が基本で、「何をかけるか」を選ぶ余地はない。一方で、ミニシアターは館独自の判断で上映作品を選ぶ。「なぜこれを今かけるのか」という選択眼が、日常業務に組み込まれている。公式サイトに掲載された投票コメントにも、その差は透けて見える。シネコンスタッフは観客の反応への言及が多く、ミニシアター系スタッフのコメントには作品への踏み込んだ愛着が滲む。最も「発見」の匂いがした掘り出し映画部門(小規模上映作品が対象)で『罪人たち』が選ばれたことは、偶然ではないだろう。
業界4団体の志は本物だし、映画館に人を呼ぼうという意志は必要だ。ただ、「まだ届いていない映画を発見する」という機能を賞に持たせたいなら、それはシネコン込みの3,000票ではなく、ミニシアターのみの票から生まれるべきだったのだ。
ミニシアターという”VC”が直面する、いびつな構造
ミニシアターは、新しい才能や価値観の映画を見つけ、仮に観客が入らなくても継続し、その才能にBETし続け、育てて来た映画館である。そしてその文化的役割を担っていると自負しているミニシアター関係者は多い。全国のミニシアターとはそういう場所だ。
実際、今年のカンヌのコンペティションに入り、押しも押されもしない世界的監督となった深田晃司監督も、事あることに観客0人の上映回が続いても上映し続けてくれたミニシアターがあったから今の自分がいると仰っていた。コロナ禍で、濱口竜介監督・深田晃司監督・そして我々プロデューサー3名で立ち上げた「ミニシアター・エイド基金」でもそんな話が沢山出ていた。
(濱口竜介監督・深田晃司監督のお二人が今年のカンヌ国際映画祭のコンペに揃って出ているのは本当にすごいこと。めでたい!!)
しかし、その作品や才能が証明され、観客が見込めるようになった時には、何が起きるのか。メジャーの配給網に乗り、シネコンで上映されるようになる。少なくとも最も観客が入る封切り館としてはミニシアターは選択されなくなる。それは製作委員会であったりその作品の配給会社が決めていることではあるが、より沢山の人に見てもらうことが作品や作家にとって正解であり、立地がよく大人数が入るシネコンがメインになることは何も問題はない。
ただ、「文化」というワードを取り除き、エコシステム全体を経済だけで見ればこの産業構造はかなりいびつだと思う。もしVCに例えるなら、「シード期のスタートアップ企業に出資することと、IPO直前の段階まで来たら自分たちの株の持ち分を放棄することが命題であるVC」ってことになるんじゃないか。なんじゃそりゃである。
ちなみに、濱口竜介監督の「悪は存在しない」は、公開時にシネコンでの上映がなかったことで、シネコンをブッキングできない配給への批判めいた言葉もSNSで散見されたが、それは「出来ない」のではなく、ミニシアター・エイド基金に続く意志として、選択した結果であった。なるべくミニシアターに潤ってもらいたいという想いとともに。
つまり、映画のエコシステムの重要な基盤を支えているのがミニシアターであり、その成果を得ているのがシネコンであるのだから、本来はメジャーの劇場や配給が、ミニシアターに対して何らかの形で助成するのが筋ではないかと思うことがある。
しかし、今回この賞を設計した方々がそこにあまりに無配慮というか気づきがないことが、今回の「映画館大賞」で多くの人に宿った違和感の本質につながっている。本屋大賞が体現するもの——ディグっている人たちがその目で新しい価値観を提示するという役割——を映画興行の世界に置き換えるなら、それはどう考えてもミニシアターの人たちが担ってきたものであるにも関わらず、そこを無視して一緒くたにしたことで、セレクションの主体は分母からしてもシネコンの人たちによって選ばれる構造になっていたことにつきる。
シネコンではそもそも、新しい潮流や新しい才能の映画は基本的に上映されていない。「映画館スタッフが選ぶ」という同じ外形でも、どの映画館のスタッフが投票するかによって、賞の持つ意味はまったく変わるのだ。
偏愛を持つ人間が、稀になる時代に
炎上の渦中で、もうひとつ悲しい言説があった。「そもそも映画館で働いている人間は映画を見ていない、映画を知らない」という書き込みだ。読んでいて、胸が痛かった。たとえばK2のスタッフの多くは、ミニシアターで上映されている様な新人監督の作品を見ていたり、休日も映画館をはしごして休憩中に感想を語り合っていたりする。そういう映画への熱量が、ミニシアターには確かにある。だから今回の映画賞だけをもって「映画館スタッフは映画を知らない」と一括りにされることは正しくない、と私は現場の人間として言っておきたい。そもそも映画に興味ないけど映画館でアルバイトする事のなにが悪いのかとも思うが。
そしてこれは、時代の変化と地続きの問題でもある。ストリーミングサービスでは、アルゴリズムが膨大な視聴データをもとに「次に観そうな作品」を提示する。それは正確ではあるのだろうが、偏愛ではない。AIは集合的な好みを洗練させる方向に機能し、多くの人が選ぶものをさらに多くの人に届ける回路を強化する。まだ誰にも届いていない作品の発見の機会は、その過程で細くなっていく。だからこそ、ミニシアターの人間が「なぜこれを今かけるか」と考えながら積み上げてきた眼差しは、アルゴリズムに代替されにくい文化の蓄積だ。偏愛を持つ人間が稀になっていく時代に、その偏愛を可視化する賞が生まれることの意義は、かつてより大きくなっているし、多くの人に求められているのではと今回の騒動で感じた。だから、今こそミニシアターで働く人たちの仕事が、社会の目に映る形で評価されるべきなのかもしれない。
もうひとつあった「映画館大賞」
だったらそういう賞を立ち上げればいいのでは!と思い立った上で今回調べていて驚いたというか恥ずかしくなったのは、実は「映画館大賞」という名の賞が別に存在していたという事実を知ったことだ。
2009年から2012年にかけて、全国のミニシアターのスタッフが選ぶ賞として短命に終わったものとのこと。第1回は『ダークナイト』、翌年は『グラン・トリノ』。ミニシアターの館主たちが選んだその結果には、確かな偏りと意志があった。しかし2012年を最後に自然消滅したらしい。
この、自然消滅してしまったらしいもともとの「映画館大賞」が、その選考方法も含めて、あるべきの「映画館大賞」であった可能性を感じる。少なくとも「本屋大賞」の映画版という期待で賞を見た人が裏切られた想いになることは少ないセレクションの設計であるはずだ。
今回の「映画館大賞」の騒動で色々と考えてみたが、結果このもともとの「映画館大賞」を復活させたり、もしくは日本映画プロフェッショナル大賞(日プロ大賞)をもっと多くの人に注目してもらえるようにしたり、そんなアクションを今取るべきなのでは、と思うようになった。もしかしたら以前よりも求められている環境になってきているかもしれない。
もし全国のミニシアター・アートハウスの関係者で、同じことを面白いと思った方がいれば、ぜひ声をかけて頂きたいです。
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