『プレイバック Part2』 昭和歌謡史に秘められた、三人の巨星が織りなす「筆名の謎」と「アンサーソングの真意」
夜、静かにレコードが回る。溝に刻まれた音符たちが、若くして引退したある女性歌手の声を響かせる。
「バカにしないでよ。そっちのせいよ」
1978年の大晦日。日本中が息をのんだ、あの紅白歌合戦の舞台。史上最年少19歳で紅組のトリを飾った山口百恵が、振り向きざまに、冷たい視線で啖呵を切った。当時、これほどまでに挑発的な歌詞が、国民的歌手の口から放たれたことがあっただろうか。「ぼうや、いったい何を教わってきたの?」―― その言葉は、聴く者すべての度肝を抜いた。衝撃のデビューから、歌うたびに変貌を遂げてきた「歌姫」の、まさに「ツッパリ路線爆走中」を象徴する一幕だった。
しかし、この世紀のパフォーマンスには、さらに深遠な「仕掛け」が隠されていたことを、どれほどの人が知っているだろうか。それは、わずか数秒の間、歌も演奏もすべてが止まり、無音の中で放たれるあの言葉のさらに後、二番の歌詞に秘められている。
「潮風の中ラジオのボリューム フルに上げれば 心かすめて ステキな唄が流れてくるわ」 そして、その直後に続く、あまりにも露骨なフレーズ。 「勝手にしやがれ 出ていくんだろ ちょっと待って Play Back Play Back 今の歌を」
「今の歌」。それは、前年1977年のレコード大賞を獲得した、あの沢田研二の大ヒット曲『勝手にしやがれ』以外にありえない。そう、『プレイバック Part2』は、稀代のヒットメーカーである「天才」が仕込んだ、『勝手にしやがれ』へのアンサーソングだったのだ。
この絶妙なギミックを歌詞に忍ばせた「天才」とは、作詞家・阿木燿子のことである。 本名・福田広子―― 平穏で、ことばで宇宙を創造するクリエイターのイメージからは、あまりにかけ離れた、ごく平凡な響きの名前だ。しかし、この「阿木燿子」というペンネームにこそ、彼女の底知れぬ「ウィット」と、ある偉大な巨匠への「敬意」、そして山口百恵という「女神」への複雑な思いが凝縮されていると、私は確信している。
彼女は、なぜ自らの「出生名」を捨て、まるで天啓のように「阿木燿子」という名を冠したのか? その答えは、彼女のデビュー時期と、ある「大作詞家」の存在に光を当てた時に、鮮やかに浮かび上がる。 公式記録によれば、彼女の作詞家としてのデビューは1975年。ダウンタウンブギウギバンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』である。その数年前、1971年には、同じ明治大学文学部の八年先輩の作詞家が、尾崎紀世彦の『また逢う日まで』でレコード大賞に輝き、日本の歌謡界にまばゆい光を放っていた。山本リンダの『どうにもとまらない』、森昌子の『せんせい』、桜田淳子の『わたしの青い鳥』……。彼の言葉は、国民の耳目を釘付けにし、数々のスターを誕生させていた。その巨匠の名は―― 阿久悠。
考えてみてほしい。同じ大学の、同じ学部の、八年先に道を切り拓いた圧倒的な存在。作詞家を志した阿木燿子の脳裏に、彼の存在が去来しなかったはずがない。そして、恐らく彼女は決意した。「阿久悠子(あくゆうこ)」と、一度は頭の中で綴ったのかもしれない。そして、そこから生まれたのが、「Aku Yuu」から「Aki Youko」へ―― 音の響きは似通いながらも、絶妙に姿を変えた「阿木燿子」というペンネームだったのではないか。ウィットに富み、かつ計算し尽くされた彼女の性格が、そして巨匠への崇敬とリスペクトがこの名に宿っているように思えてならない。
さて、再びあの「アンサーソング」に戻ろう。 『プレイバック Part2』に、阿久悠作詞『勝手にしやがれ』へのメッセージを込める―― その時、阿木燿子は何を想っていたのか? ここで、第三の主役、山口百恵の存在が決定的に重要になる。 山口百恵のファンならば誰もが知る、苦いエピソードがある。新人オーディション番組『スター誕生』に登場した、まだあどけない14歳の山口百恵を、審査員の一人だった阿久悠は、容赦ない言葉で突き放したのだ。
「君は、例えば誰か青春スターの妹役みたいなものならいいけど、歌は、、、、、あきらめた方がいいかも知れないねェ」 (山口百恵『蒼い時』より)
その言葉に、わずかながら持ち合わせていた自信は、音をたてて崩れ去った、と百恵自身が語っている。しかし、阿久悠自身もまた、後にこう述懐している。
「山口百恵のための詞を一編も書いていない。毎週のように同じスタジオで顔を合わせていながら、親しく話をしたこともなかった。(中略)彼女は十四歳、こちらは三十歳をこえているのに妙なことだが、恐かった。今もって恐い。」 (阿久悠『夢を食った男たち』より)
この告白は、阿久悠が、かつて突き放した少女が、瞬く間に自身の予想を超え、畏怖すら覚えるほどの「変幻自在の女神」へと変貌していく姿を、ただ呆然と見つめるしかなかったという、複雑な心境を吐露している。彼が、彼女に詞を提供したいと願っても、その機会は訪れなかった。そして、その「女神」のステージの向こう側にいたのが、作詞家・阿木燿子だったのである。
業界のパーティや授賞式で、阿久悠が山口百恵に直接声をかけられなかったとしても、大学の後輩である阿木燿子とは、言葉を交わす機会はあったはずだ。そして、もし二人が会話をするならば、その話題が「山口百恵」に及ばないはずがない。阿久悠が、山口百恵に抱いていた畏敬の念、そして歌詞を提供できなかった後悔の念を、阿木燿子は感じ取っていたのではないか。
だからこそ、「天才」は、自身のペンネームに込めた敬意をさらに昇華させ、『プレイバック Part2』という「アンサーソング」を山口百恵に託したのだ。
「勝手にしやがれ 出ていくんだろう」
この、あまりにも象徴的なフレーズを、あの阿久悠はどんな気持ちで聴いたのだろう。 1978年のレコード大賞で、『北の宿から』『勝手にしやがれ』に続けて『UFO』で3年連続の栄冠を手にした阿久悠は、その喜びも束の間、受賞を逃した山口百恵が静かに立ち去っていく後ろ姿に、圧倒される。「喪服のように黒いドレスで、彼女の遠ざかる客席通路のあたりがシンと静まりかえり、空気の凍(い)てつく気配さえ伝わって来て、ぼくはステージ上で笑顔をこわばらせたことがある。(中略)強烈な矜持(きょうじ)の証明であるようにさえ思えた」(同)―― 阿久悠が感じたのは、ただの敗者の去り際ではない。それは、自身のクリエイターとしての誇りすらも揺るがしかねない、圧倒的な存在感だった。
そして、山口百恵自身もまた、阿木燿子に対して特別な思いを抱いていた。自身の運命を変えたと言っても過言ではないほど、貴重な存在となった「天才作詞家」への、最大の感謝と賛辞、そしてリスペクトは、阿木燿子の著作のあとがきに寄せられいている。「私に直接言の葉を授けてくれた母という存在を想う以上に、心の奥深いところで阿木さんの生命に近い息づかいを感じながら、私の言葉の河は豊かな水をたたえ、無限の海にまで広がっていく」(阿木燿子『プレイバックPARTⅢ』より)
ここに、奇妙な「三すくみ」の関係が浮かび上がる。 山口百恵が阿木燿子に、阿木燿子が阿久悠に、そして阿久悠が山口百恵に―― それぞれが、それぞれの立場で、ある種の「畏怖」に近い「崇敬の念」を抱いていた。
そう。あの大晦日の夜、日本中が見つめる中で山口百恵が放った「バカにしないでよ」のセリフは、単なる挑発ではなかった。それは、一人の天才が、もう一人の天才に、類まれな才能を持った天才歌手を通じて送った、静かで、しかし強烈なメッセージ。そして、そのメッセージを完璧なまでに表現しきった「女神」による、歌謡史に刻まれた、まさに「三者共鳴」の奇跡の瞬間だったのだ。 私は、そう信じて疑わない。
