信用創造の本質と歴史的隠蔽── 貨幣乗数理論の誤謬と通貨主権をめぐる近代的闘争 ──
要旨(Abstract)
本稿は、現代経済学の根幹に位置する「信用創造(credit creation)」について、世間に流布している二重の誤解 ── すなわち(一)中央銀行の通貨発行が市中銀行を通じて準備率の逆数倍に増幅されるとする「貨幣乗数理論(money multiplier theory)」、および(二)市中銀行は預金者から預かった資金を借り手に「又貸し(intermediation)」しているにすぎないとする「金融仲介理論(financial intermediation theory)」── を、各国中央銀行(イングランド銀行・ドイツ連邦銀行・日本銀行)の公式声明、ならびにWerner(2014)による世界初の銀行内部実証実験の結果に基づき、ハードエビデンスをもって退ける。
そのうえで、なぜこの誤解が世界中の教科書を通じて学問の根幹を腐食するほどに広範に流布したのかという論点について、17世紀ロンドンの金細工師銀行(goldsmith bankers)に始まり、1672年「大蔵省支払停止(Stop of the Exchequer)」、1694年イングランド銀行設立、1844年ピール銀行条例(Bank Charter Act)、そして20世紀のフィリップス(1921)に至る貨幣乗数定式化の歴史を辿り、銀行家たちが王権・議会主権との生存競争のなかで、自らの信用創造機能を意図的に「単なる仲介者」として偽装し続けてきた構造的な歴史的力学を提示する。
結論として、これは陰謀ではなく「生存戦略としての言説的隠蔽(discursive concealment as survival strategy)」と整理されるべきであり、2014年以降の中央銀行による相次ぐ「教科書修正」は、この350年に及ぶ知的隠蔽の終焉を告げる歴史的転換点として位置づけられる。
序章 ── 二重の誤解という認識論的問題
現代の金融工学、フィンテック、暗号資産、AIなど、貨幣現象に関わる華やかなガジェットを論じる人々のあいだで、最も根源的な事実 ── すなわち「銀行のみが個別に通貨を創造する権能をもつ」という単純な事実 ── が、ほとんど理解されていない。これは単なる素人の無知ではない。学者・政策担当者・金融専門家を含む広範な層に観察される構造的な認識論的欠陥である。
この欠陥は、典型的に二段階の誤解として現れる。
第一の誤解 ── 貨幣乗数理論(Money Multiplier Theory)
通俗的かつ教科書的な信用創造の説明は、次のような物語を採用する ── 中央銀行が無からマネタリーベース(中央銀行通貨)を発行し、これを市中銀行が受け取り、法定準備率(reserve ratio)に応じた「準備」を残して残余を貸し出す。借り手はその資金を支出し、それが別の銀行に預金として戻り、その銀行が再び準備を残して貸し出す ── これを無限級数として合算すれば、市中の通貨量は最終的に準備率の逆数倍(1/r)まで膨張する。
この説明はChester A. Phillips(1921)の『Bank Credit』に源流を持ち、20世紀の主流派マクロ経済学およびあらゆる中等・高等教育の教科書に組み込まれてきた。我が国の大学受験政治経済の標準的記述、全国銀行協会による教育資料、進研ゼミなどの教材に至るまで、この物語が「信用創造の仕組み」として教えられている。しかし後述するように、これは中央銀行自身が公式に否定している誤謬である。
第二の誤解 ── 金融仲介理論(Financial Intermediation Theory)
貨幣乗数理論を補強する第二の誤解は、より深刻である。すなわち「市中銀行は預金者から集めた資金を、必要とする企業や家計に貸し出している(仲介している)」という見方である。この見方では、銀行は単なるブローカー(仲介者)に過ぎず、貨幣そのものを創造しているわけではない。
この理論は、Eugene Fama、Tobinの一部の議論、さらに2008年金融危機後に構築された主要なDSGEマクロ経済モデルにまで深く埋め込まれている。Jakab and Kumhof(2015, 2018)は、危機後にIMFやBIS、各国中央銀行で用いられた最先端のマクロモデルでさえ、銀行を「貸出可能資金の仲介者(intermediaries of loanable funds)」として誤って定式化していたことを指摘し、これが金融危機の予兆を見逃した直接的原因となったと論じている。
本稿の構成
本稿は次のように構成される。第1章で銀行を巡る三つの理論 ── 仲介理論、部分準備理論、信用創造理論 ── を整理する。第2章で、各国中央銀行とWerner(2014)による実証研究のハードエビデンスを提示し、信用創造理論のみが現実と整合することを示す。第3章では1672年の大蔵省支払停止から2008年金融危機に至る歴史的経路を辿り、銀行家階層が通貨主権をめぐる政治的闘争のなかで、自らの貨幣創造能力を体系的に「隠蔽」してきた経緯を提示する。第4章で、これを「陰謀」ではなく「生存戦略としての言説的隠蔽」として概念化する。終章で、2014年以降の中央銀行による教科書修正の歴史的意義を論ずる。
第1章 銀行をめぐる三つの理論的立場
Werner(2014, 2016)の整理に倣い、銀行に関する理論的立場は、過去150年の経済思想史において以下の三つに大別される。
1.1 金融仲介理論(Financial Intermediation Theory)
20世紀後半(おおよそ1960年代以降)から現在に至るまで、主流派金融論の支配的見解。銀行は他の金融仲介機関(ノンバンク、ファンド、保険会社など)と本質的に同じであり、預金者から集めた資金を借り手に転貸するに過ぎない、とする立場。Eugene Fama, Bryant, Diamond-Dybvig などが代表的論者。この理論によれば、銀行は新たな貨幣を創造する能力を一切持たない。
1.2 部分準備理論(Fractional Reserve Theory)
20世紀前半に支配的であり、現在も中等・高等教育の教科書に残存している立場。個別の銀行は単なる仲介者だが、銀行システム全体としては、中央銀行の準備供給を起点として、貸出と再預金の連鎖を通じて貨幣を「乗数倍」に増殖させる、とする見解。Phillips(1921)が定式化した。我が国の高校政治経済の教科書、大学共通テスト(旧センター試験)、全国銀行協会の教育資料などに、現在もこの説明が用いられている。
1.3 信用創造理論(Credit Creation Theory)
Henry Dunning Macleod(1856, 1889 The Theory of Credit)に源流を持ち、Knut Wicksell、Albert Hahn(1920)、Joseph Schumpeter(1912, 1954)、John Maynard Keynes(1930 A Treatise on Money)が継承した古典的見解。各個別の銀行は、貸出を実行する瞬間に、ペン書き(現代では会計記帳)によって「無から(ex nihilo, out of thin air)」貨幣(預金)を創造する、とする立場。
Schumpeter(1954)は『経済分析の歴史(History of Economic Analysis)』第8章において、銀行による信用創造を経済発展の起動力と位置づけ、預金が貸出を生むのではなく「貸出が預金を生む(loans create deposits)」とする立場を明確にした。
本稿の立論は、これら三理論のうち、現代金融システムを正確に記述するのは信用創造理論のみであり、他の二つは経験的に反証されているという点にある。
第2章 ハードエビデンス ── 信用創造理論の決定的証明
本章では、信用創造理論を裏付け、貨幣乗数理論および金融仲介理論を経験的に反証する、最も権威ある一次資料を提示する。これらは推測や陰謀論ではなく、世界の主要中央銀行が自らの公式刊行物で明言した内容である。
2.1 イングランド銀行『現代経済における貨幣創造』(2014年)
2014年3月14日、イングランド銀行(Bank of England, BoE)は『Quarterly Bulletin 2014 Q1』に、Michael McLeay, Amar Radia, Ryland Thomas の三名の経済学者による論文「Money Creation in the Modern Economy」を掲載した。これは中央銀行による最も明示的な「教科書修正」であった。
This article explains how the majority of money in the modern economy is created by commercial banks making loans. Money creation in practice differs from some popular misconceptions — banks do not act simply as intermediaries, lending out deposits that savers place with them, and nor do they 'multiply up' central bank money to create new loans and deposits.
この一文は、第1章で示した二つの誤解 ── 仲介理論と乗数理論 ── を、世界最古級の中央銀行が同時に明示的に否定したものとして、金融思想史上の画期である。
同論文は同時に「英国における大衆保有貨幣の97%は銀行預金(commercial bank money)であり、現金(紙幣・硬貨)はわずか3%にすぎない」というハードデータを提示している。これは、市中の通貨量の大部分が中央銀行ではなく市中銀行のバランスシート操作によって創造されていることを意味する数値的証拠である。
表1:主要中央銀行による信用創造に関する公式声明(2014年〜)
中央銀行
公表年・媒体
公式見解の核心
イングランド銀行(BoE)
2014年3月 Quarterly Bulletin 2014 Q1
市中銀行は預金者から預かった資金を又貸しする仲介者ではなく、また中央銀行マネーを乗数的に増幅するのでもない。貸出を実行する際に新規預金を創造する。
ドイツ連邦銀行(Bundesbank)
2017年4月 Monthly Report April 2017
銀行は会計記帳のみで簿記貨幣(book money)を創造する。これは銀行が単なる仲介者であるという広く流布した誤解を反証するものである。
日本銀行
2019年4月4日 参議院決算委員会答弁 (黒田東彦総裁)
「銀行預金は、企業や家計の資金需要を受けて銀行などが貸出しなどの与信行動、信用を与える行動、すなわち信用創造を行うことにより増加する」
イングランド銀行 / IMF
2015年5月 / 2018年10月 Working Paper No. 529, 761 (Jakab & Kumhof)
銀行は貸出可能資金(loanable funds)の仲介者ではない。銀行は貸出を通じて新規貨幣を創造し、これは仲介モデルと比較して、危機時のレバレッジ拡大・収縮の動学を全く異なるものにする。
(出典:Bank of England Quarterly Bulletin 2014 Q1, pp. 14-27; Deutsche Bundesbank, Monthly Report April 2017, pp. 13-33; 第198回国会参議院決算委員会会議録第8号 2019年4月4日; Bank of England Working Papers No. 529 (2015), No. 761 (2018))
2.2 Werner(2014)── 銀行内部での世界初の実証実験
Richard A. Werner 教授(当時サウサンプトン大学)が2014年に『International Review of Financial Analysis』第36巻に発表した論文「Can banks individually create money out of nothing? — The theories and the empirical evidence」は、銀行の信用創造能力をめぐる5,000年に及ぶ銀行業の歴史において、世界初の銀行内部実証実験である。
実験設計は次のとおり。Werner は2014年8月、ドイツ・バイエルン州のRaiffeisenbank Wildenberg eG(協同組合銀行)と協定を結び、自ら20万ユーロの融資を当該銀行から受けると同時に、銀行の内部会計記録の全てをリアルタイムで監視する権限を獲得した。
実験結果は決定的であった。融資が実行された瞬間、当該銀行は ── (a)他の預金口座から資金を移動させていない、(b)自行の準備預金(DZ Bank または Bundesbank口座)を確認していない、(c)外部から借入を行っていない、(d)いかなる流動性確認手続も実施していない ── にもかかわらず、Werner の口座に20万ユーロが「新規預金」として記帳された。
Raiffeisenbank Wildenberg のMarco Rebl 取締役は、論文付録に署名入りの確認書を提出している。Werner はこれを受けて、論文中で次のように結論する ── 「いまや銀行業の5,000年の歴史において初めて、各個別の銀行が貸出を実行する瞬間に貨幣を無から創造することが、経験的に証明された」と。
この実験の意義は、それまで「銀行システム全体としては部分準備乗数を通じて貨幣を増やすが、個別銀行は単なる仲介者である」とする部分準備理論を、個別銀行レベルで一回の実験により直接反証した点にある。
2.3 米連邦準備制度(FRB)による準備率撤廃 ── 乗数理論の埋葬
貨幣乗数理論にとって致命的なハードエビデンスが、2020年3月に米国で生じた。
2020年3月15日、米連邦準備制度理事会(FRB)は、3月26日付で全預金取扱機関の法定準備率(reserve requirement ratio)を一律ゼロ%に引き下げると発表した(Regulation D 改正、Federal Register, March 24, 2020)。
貨幣乗数理論によれば、準備率がゼロになれば貨幣乗数 1/r は無限大に発散し、銀行システムは無制限の貨幣を創造して経済はハイパーインフレに突入するはずである。しかし、2020年から2026年現在に至るまで、米国においてそのような事象は発生していない。これは、教科書的乗数理論が現実の銀行行動を全く記述していないことの最終的な経験的証明である。
FRB自身、Carpenter and Demiralp(2010, FEDS Working Paper No. 2010-41)「Money, Reserves, and the Transmission of Monetary Policy: Does the Money Multiplier Exist?」において、1990年から2008年までの実データに基づき、理論的乗数値と実測値の乖離を示し、乗数の存在を実質的に否定していた。2020年の準備率撤廃は、この内部認識を制度的に追認したものに他ならない。
2.4 日本における公式認定 ── 黒田答弁と共通テスト
我が国においても、信用創造の本質に関する公式見解の修正は進行している。
2019年4月4日、参議院決算委員会において、西田昌司委員(自民党)の信用創造の定義に関する質問に対し、黒田東彦・日本銀行総裁(当時)は「銀行預金は、企業や家計の資金需要を受けて銀行などが貸出しなどの与信行動、信用を与える行動、すなわち信用創造を行うことにより増加する」と明確に答弁した。これは日本銀行総裁による信用創造理論の事実上の公式承認である。
さらに、2022年実施の大学入学共通テスト「政治・経済」科目の出題には、「個人や一般企業が銀行から借り入れると、市中銀行は『新規の貸出』に対応した『新規の預金』を設定し、借り手の預金が増加する」という記述が含まれた。これは伝統的な部分準備乗数モデルから生じる誤解を補正する画期的な出題として、上智大学准教授・中里透氏らによって評価されている。
ただし、本稿執筆時点(2026年)においても、全国銀行協会の教育資料、多くの高校教科書、進研ゼミなどの民間教材は、依然として伝統的な部分準備乗数モデルを「信用創造」として教授しており、教育現場における修正は緩慢である。
第3章 歴史的経路 ── 17世紀から現代に至る隠蔽の系譜
では、なぜ信用創造の正確な仕組みが、3世紀半にわたって主流派経済学の認識から事実上消去されてきたのか。本章では、これを17世紀ロンドンの金細工師銀行業に始まる、銀行家階層と王権・議会主権との生存をかけた政治的闘争の歴史として再構成する。
3.1 金細工師銀行(17世紀)── 信用創造の起源
近代的な銀行貨幣(bank money)は、17世紀イングランド・ロンドンの金細工師(goldsmiths)から始まった。1640年、チャールズ1世がロンドン塔造幣局から商人預託の20万ポンドを没収するという事件が発生し、商人たちは王室への預金信頼を失い、私的金庫を有する金細工師に金銀を寄託するようになった。
金細工師は預託物の保管証として「持参人払い証券(bearer receipt)」を発行した。これが流通可能な紙の貨幣 ── すなわち最初期の銀行券 ── となった。経済史家Stephen Quinn(イリノイ大学博士論文 "Banking before the Bank: London's Unregulated Goldsmith-Bankers, 1660-1694")の研究によれば、彼らは預金受入、当座貸越、振替決済、銀行券発行というあらゆる近代銀行業務を1660年代までに既に確立していた。
決定的な点は、彼らが部分準備(fractional reserve)を実践したことである。経済史家Richard Cantillon(1755)の同時代記述によれば、金細工師が金庫に保有した正貨に対する銀行券発行残高の比率(cash ratio)は10〜66%の範囲で変動した。これは、彼らが預託された正貨の数倍の銀行券を流通させ、すなわち「無から信用を創造(creating credit out of thin air)」していたことを意味する(Kim 2011, Business History 53(6), pp. 939-959)。
3.2 1672年「大蔵省支払停止」── 王権による銀行家殲滅
金細工師銀行が成立した瞬間から、彼らと国王(通貨主権の保持者)との関係は緊張をはらんでいた。チャールズ2世はオランダとの戦争(第三次英蘭戦争)と宮廷の蕩尽のため、1660年代を通じて金細工師から多額の借入を重ね、1671年12月時点で対金細工師債務残高は £1,365,733 に達していた(年間国家税収に匹敵する規模)。
1672年1月2日、チャールズ2世は突如「大蔵省支払停止令(Stop of the Exchequer)」を発し、金細工師に対する全債務の元本支払を一年間停止した。これは、絶対王政が金融資本に対して行った史上有数の踏み倒しである。
この一夜にして、ロンドン金融街の最有力金細工師5名(Edward Backwell, Robert Vyner ら)が破産し、9名が深刻な打撃を受け、1万を超える富裕家系が経済的に困窮した。Gilbert Burnet は『My Own Time』において「銀行家らは破滅し、彼らに金を委ねた多数の人々がこの不誠実かつ背信的行為によって破滅した」と記している。
金細工師らは王室を訴え(The Goldsmith Bankers Case)、これは1692年王座裁判所での銀行家側勝訴、1696年Lord Somers による技術的事由での逆転、1700年貴族院での銀行家側再勝訴を経て、結局1701年の議会立法により、元本の3%(後に2.5%、National Debt Act 1716)の年金支払いという妥協で決着した。1680年以降に未払となった利息は一切補償されなかった。
重要なのは、この事件が銀行家階層に与えた深刻な教訓である。すなわち ── 主権者(君主)の気まぐれ一つで、銀行家の権利は無に帰す。彼らは自らの脆弱性を骨身に染みて理解した。これが、次節で論じるイングランド銀行設立の地政学的前提となる。
3.3 1694年イングランド銀行設立 ── 通貨主権の制度的分割
名誉革命(1688年)後、ウィリアム3世はフランスとの九年戦争(1688-1697)の戦費 £1.5 million を必要としたが、Stop of the Exchequer の記憶を持つ金細工師らは融資を拒否した。スコットランド出身の銀行家 William Paterson は1691年、解決策として国家債務を扱う民間銀行の設立を提唱した。
1694年7月27日、Tonnage Act(1694)に基づき、王室特許状によりGovernor and Company of the Bank of England が設立された。投資家1,268名から12日間で £1.2 million が集まり、これが政府に年8%の利息と年£4,000の管理料で貸し付けられた。引き換えに、当該銀行は銀行券発行権、為替手形取扱権、預金受入権を獲得した。
経済史家Douglass C. North と Barry R. Weingast による画期的論文「Constitutions and Commitment」(Journal of Economic History 49(4), 1989, pp. 803-832)は、この制度設計の本質を「信用可能な約束(credible commitment)」として理論化した。すなわち、1689年の議会主権確立(権利章典)と1694年のイングランド銀行設立は、王の恣意的な債務不履行を構造的に不可能にし、英国国債の利回りを劇的に低下させた。これにより英国は、フランスより遥かに低コストで戦費を調達できるようになり、ナポレオン戦争終結時(1815年)には国家債務 £1 billion(GDP の約2倍)にまで達しても、国際金融市場で機能し続けた。これが大英帝国の覇権の財政的基盤である。
しかし、ここで看過してはならない歴史的構造がある。イングランド銀行は、その設立から1946年の国有化まで252年間、私有企業(株主所有)であった。すなわち、通貨主権の最も根幹である紙幣発行権が、私的銀行家連合に「貸与」されたのである。これは、Stop of the Exchequer 以後の銀行家階層が、王権との直接的脆弱性を回避するための制度的解決として、議会と結託して獲得した政治的勝利であった。
3.4 1668年スウェーデン国立銀行 ── 別解としての国家統制
イングランド銀行モデルとは対照的な、もう一つの中央銀行起源の系譜が、スウェーデンに存在する。1656年、Johan Palmstruch がストックホルム・バンコ(Stockholms Banco)を設立し、1661年に欧州初の紙幣(kreditivsedlar)を発行した。しかし過剰発行により1664年に取付騒ぎが発生し、銀行は1668年に破綻した。Palmstruch は死刑判決を受け(後に減刑)、1668年9月17日、議会(Riksdag)は新銀行 Riksens Ständers Bank(後の Sveriges Riksbank)を設立した。
決定的なのは、新銀行が王権ではなく議会(Riksdag)の直接管轄下に置かれ、当初は王室への貸付および銀行券発行が禁止されたという点である。これは、銀行業を王権から議会主権へと制度的に移管する、世界初の試みであった。
イングランド銀行(民間銀行家による主権分割)と、リクスバンク(議会による国家統制)── この二つの中央銀行モデルの対比は、近代の通貨主権をめぐる二つの解決原理を示している。
3.5 1844年ピール銀行条例 ── 銀行学派の敗北と隠蔽の制度化
19世紀前半、英国経済学はTooke を代表とする銀行学派(Banking School)と、Ricardo, Lord Overstone, G. W. Norman, Robert Torrens を代表とする通貨学派(Currency School)の論争に揺れた。
通貨学派は、貨幣量の過剰発行が物価上昇と恐慌の原因であるとし、銀行券発行を金準備に厳格に連動させるべきだと主張した。一方、銀行学派のTooke, Fullarton らは、信用は需要に応じて内生的に拡大するものであり、規制によって機械的に縛れるものではない、とする見解 ── 後の信用創造理論の先駆的形態 ── を提示した。
1844年7月19日、Robert Peel首相のもとで成立したBank Charter Act 1844 は通貨学派の勝利となり、イングランド銀行を発券部(Issue Department)と銀行部(Banking Department)に分割し、発券部の銀行券発行を金準備+£14 million の信用枠に厳格に制限した。同時に、地方銀行の銀行券発行は1844年4月27日時点の流通残高に凍結され、合併により消滅、最後の私有銀行券発行銀行(Fox, Fowler and Company)が1921年に消滅した時点で、イングランド銀行は完全な発券独占を獲得した。
ここに、近代通貨制度における重大な認識論的転倒が制度化された。すなわち ──
(一)法律は銀行券(紙幣)のみを「貨幣」として規制した。
(二)しかし当時すでに英国の貨幣量の大部分を占めていた要求払預金(demand deposits)は、法律上「貨幣ではない」とされ、規制の対象外となった。
(三)通貨学派は、預金は単なる「信用(credit)」であり「貨幣(money)」ではないと頑強に主張した。これにより、銀行による預金創造(=実質的貨幣創造)は、法律的・概念的に存在しないことになった。
Mises Institute の整理によれば、通貨学派のこの一点こそが、彼らの最大の理論的欠陥であった。米国通貨学派のDaniel Raymond, William M. Gouge は、要求払預金もまた貨幣供給の一部であると指摘していたが、英国通貨学派はこれを無視した。結果として、Bank Charter Act 1844 は、銀行券発行を厳格に制限する一方で、預金部門での信用拡大を野放しにし、それを「貨幣ではない」と概念的に隠蔽するという、世界史的に重大な制度的偽装を成立させたのである。
これが、その後150年にわたり経済学教科書から信用創造の本質が消去される原型となった ── 「銀行は貨幣を創造しない、なぜなら預金は貨幣ではないから」という擬装。
3.6 1921年フィリップス『Bank Credit』── 乗数理論の完成
20世紀に入り、預金もまた貨幣であるという認識が再興すると(Irving Fisher, The Purchasing Power of Money, 1911)、銀行による貨幣創造を否定する立場は、新たな擬装を必要とした。これが、1921年に米国アイオワ大学のChester Arthur Phillips が著書『Bank Credit』で提示した、貨幣乗数モデルである。
Phillips の貢献は、Joplin (1827), Macleod (1856) ら先駆者の議論を、無限級数の和として精緻に数式化した点にある。彼は決定的な区別を導入した ── 個別銀行は貸出により準備を失うため貸出可能額が制限されるが、銀行システム全体としては再預金の連鎖を通じて元預金の 1/r 倍まで信用を拡大できる、と。
この定式化は、見かけ上は信用創造を肯定するが、実は致命的に不正確である。なぜなら ──
(一)個別銀行レベルで「貸出可能性が既存の準備に制約される」という命題は、Werner(2014)の実証実験により反証されている。銀行は貸出時に準備を確認しない。
(二)「再預金」というプロセスは、実際の銀行業務には存在しない。銀行は貸出を実行する瞬間に同時に預金を創造する(loans create deposits)のであって、別の銀行から流入した預金を「再貸出」しているのではない。
(三)中央銀行は政策金利を維持するために、銀行が必要とする準備を需要に応じて受動的に供給する(Kydland & Prescott 1990, Federal Reserve Bank of Minneapolis Quarterly Review, "Business Cycles: Real Facts and a Monetary Myth")。すなわち、因果関係は「準備→貸出」ではなく「貸出→預金→準備」という逆方向である。
にもかかわらず、Phillips モデルはその数学的優雅さから、Samuelson の『Economics』(1948年初版)以降のあらゆる主流派教科書に組み込まれ、20世紀後半の主流派金融論の核心となった。
3.7 同時代の異論 ── Schumpeter, Hahn, Keynes
Phillips の乗数理論が支配的となった同時期、欧州大陸では正反対の立場が学術的に大きな影響力を保持していた。
Albert Hahn(1920, 『Volkswirtschaftliche Theorie des Bankkredits』)は、フランクフルトの銀行家一族出身の弁護士・ゲーテ大学名誉教授として、銀行が貸出により貨幣を創造することを明確に論じ、ベストセラーとなった。Joseph Schumpeter は『経済発展の理論』(1912 / 1934英訳)および『経済分析の歴史』(1954)において、Hahn を肯定的に引用しつつ、信用創造を企業家精神と経済発展の起動力と位置づけた。Keynes も『貨幣論』(1930)第2章「銀行貨幣(Bank Money)」において、Macleod-Wicksell-Schumpeter の信用創造理論を継承していた。
しかし、第二次世界大戦後、英米経済学が世界の主流となる過程で、これらの大陸的・歴史的伝統は周縁化された。Tobin(1963, "Commercial Banks as Creators of Money")は信用創造を擁護したが、その後のmainstream macro/banking はFama (1980), Bryant (1980), Diamond-Dybvig (1983) によって、銀行を再び単なる仲介者として定式化し直した。
3.8 2008年金融危機 ── 隠蔽が機能不全をきたした瞬間
2008年のリーマン・ショックは、主流派マクロ経済モデル(DSGE)が銀行を仲介者として扱っていたために、システミックリスクの予兆を全く察知できなかったことを白日の下に晒した。Jakab and Kumhof(2015, BoE Working Paper No. 529; 2018, No. 761)は、危機後に構築された主要な「金融摩擦付きDSGEモデル」(Bernanke-Gertler-Gilchrist 1999, Christiano-Motto-Rostagno 2014 など)でさえ、依然として「貸出可能資金の仲介理論(intermediation of loanable funds)」に依拠していると指摘し、これが現実の銀行行動 ── 危機時に貸出量とレバレッジが急変動する動学 ── を全く説明できていないと論じた。
彼らの結論は明白である ── 危機を理解し再発を防ぐためには、信用創造理論に基づく新しいマクロモデルが必要であり、これがイングランド銀行が2014-2018年にかけて一連の公式論文を発表した理論的動機であった。
第4章 概念化 ── 「陰謀」ではなく「生存戦略としての言説的隠蔽」
4.1 陰謀論的説明の不適切さ
本稿で示した歴史的経路を見て、これを「銀行家による組織的陰謀」と解する誘惑は強い。実際、19世紀末から20世紀にかけて、銀行家階層による通貨主権の簒奪を「秘密結社の陰謀」として描く言説が、ポピュリズム的政治運動と結びついて繰り返し登場した。しかし、本稿はこのような陰謀論的説明を採用しない。理由は二つある。
第一に、陰謀論は経験的に反証可能性が低く、認識論的に弱い。3世紀半にわたり、世界の数百の銀行と数千の経済学者が、単一の意図的な計画に従って嘘をつき続けたという仮説は、調整コストの観点からも歴史的証拠の観点からも、支持しがたい。
第二に、本稿で示した諸事実 ── 1672年の Stop of the Exchequer、1844年 Bank Charter Act の理論的曖昧さ、1921年 Phillips モデルの数学的洗練、20世紀後半の主流派金融論の仲介理論への退却 ── は、いずれも個々の局面における各アクターの合理的判断の集積として説明可能であり、超越的な「陰謀の主体」を仮定する必要がない。
4.2 生存戦略としての言説的隠蔽
本稿が提案する代替的概念化は、「生存戦略としての言説的隠蔽(discursive concealment as survival strategy)」である。これは次のような構造を持つ。
(一)銀行家階層は、17世紀以来、通貨主権を握る政治権力(王権、議会、国家)に対して、構造的に脆弱な立場にある。1672年の Stop of the Exchequer に象徴されるように、主権者は気まぐれに彼らの権利を無に帰すことができる。
(二)したがって銀行家にとって、自らが「貨幣を創造している」と公然と認めることは、政治的に致命的に危険である。なぜなら、貨幣創造は伝統的に主権者の専権事項(regalia)であり、私的アクターによるその簒奪は政治的正統性の根本問題に直結するからである。
(三)よって、銀行家にとって最も合理的な戦略は、自らの活動を「単なる仲介」として偽装することである。「我々は預かった金を貸し出しているだけだ」という言説は、政治的に無害化されたものとして、王権・議会の介入を最小化する。
(四)この偽装は、銀行家自身の意識的な計略である必要はない。むしろ、それは長期にわたる制度的選択(Bank Charter Act 1844 による「預金は貨幣ではない」という法的フィクション)、教科書的単純化(Phillips の乗数モデル)、専門職の慣習(銀行員自身が自行を仲介機関と認識すること)を通じて、構造的に再生産される。
(五)2008年の金融危機は、この言説的隠蔽が経済学的・政策的に機能不全をきたした瞬間であった。中央銀行はマクロ経済の安定のために、自らの規制対象である銀行の真の機能を正確に理解する必要に迫られた。これがBoE 2014, Bundesbank 2017, BoJ 2019 などの一連の「教科書修正」の構造的背景である。
4.3 比較類例 ── 専門知の隠蔽戦略
「生存戦略としての言説的隠蔽」は、銀行業に特殊な現象ではない。歴史的に、専門職集団(医師、法律家、聖職者など)はしばしば、自らの真の機能を一般言説から隠蔽することで、政治的脆弱性を低減してきた。中世カトリック教会のラテン語典礼、近世医師団のラテン語処方箋、現代の法律業界における意図的に難解な契約条項などは、すべて「専門知の隠蔽による政治的・経済的レントの保護」の事例である。
銀行業の特殊性は、隠蔽の対象が単なる技術的知識ではなく、「貨幣創造」という主権の核心に関わるものであった点にある。だからこそ、その隠蔽は他のいかなる専門職よりも徹底し、3世紀半にわたって学問の根幹に組み込まれることになったのである。
終章 ── 2014年以降の意義と今後の課題
本稿は、信用創造に関する二重の誤解 ── 貨幣乗数理論および金融仲介理論 ── が、各国中央銀行の公式声明とWerner(2014)の実証実験により決定的に反証されていることを示し、なぜこの誤解が世界中で支配的となったかを、17世紀以来の通貨主権をめぐる政治的闘争のなかでの銀行家階層の生存戦略として再構成した。
2014年から2019年にかけての一連の中央銀行による公式修正 ── BoE 2014, Bundesbank 2017, BoE/IMF Working Papers 2015/2018, 黒田総裁答弁 2019 ── は、3世紀半に及ぶこの言説的隠蔽の歴史的終焉を告げる転換点として位置づけられる。これらは陰謀論ではなく、中央銀行自身が公的権威をもって発した一次資料であり、信用創造の本質に関する「公式知識」は既に確立している。
しかし、教育現場と一般言説における普及は依然として緩慢である。本稿執筆時点(2026年)において、世界の大多数の経済学教科書、高校・大学の標準カリキュラム、銀行業界自身の公式説明資料の多くは、依然として乗数理論および仲介理論に依拠している。これは、過去150年間にわたる学問的・制度的慣性の重みを物語っている。
今後の課題は次の三点に集約される。
第一に、信用創造理論に基づく新しいマクロ経済モデルの体系化。Jakab-Kumhof, Werner らの先駆的研究を発展させ、銀行を真の貨幣創造者として組み込んだDSGEまたはエージェント・ベースモデルの整備が急務である。
第二に、金融規制枠組の再設計。銀行が貨幣創造者であるという認識は、自己資本規制、マクロプルーデンス政策、資産バブル抑制策のあり方を根本から変える。BIS、IMF、各国中央銀行はこの方向への政策的試行を進めているが、理論と実務の整合的統合は道半ばである。
第三に、教育課程の根本的修正。これは最も困難な課題である。なぜなら、現行教科書を執筆・採択している経済学者・教員自身が、伝統的な仲介・乗数モデルで教育を受けてきたからである。世代交代を待たずに修正を進めるためには、中央銀行による公式声明の教育現場への浸透、教員研修プログラム、副教材の整備が不可欠となる。
本稿の冒頭の問いに戻ろう ── なぜ、ガジェットを弄ぶ多くの人々は、信用創造の本当の仕組みを理解していないのか。それは彼らの知性の欠如ではない。それは、3世紀半にわたって銀行家階層が、生存戦略として自らの真の機能を隠蔽し続けた結果として、人類の経済的常識そのものが構造的に歪められてきたからである。この歪みを正すことこそ、21世紀の経済学および公共政策の中心的課題の一つである。
主要参考文献
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第198回国会参議院決算委員会会議録第8号(2019年4月4日)日本銀行黒田東彦総裁答弁。
中里透「教科書の中と現実の経済学 ── 7分で読める『信用創造論』」SYNODOS、2021年。
── 以上 ──
