終戦後の日本軍④
日本軍が奮闘した占守島の戦い
アメリカは望むもソ連は消極的だった
北海道の東部からカムチャッカ半島へと延びる島々。千島列島である。現在はロシア領となっているが、戦前までは日本領だった。日本が領有権を主張する北方領土は、この地域にある。
ここ千島列島も、昭和20年(1945)にはソ連との戦場になった。場所は、北東端の占守島だ。攻撃を受けたのは、終戦後の8月18日である。
千島列島攻撃を最初に発案したのは、実はアメリカ軍だ。ソ連に先立ち、アメリカは千島列島に航空機や潜水艦で攻撃を加えていた。
アメリカの目的は2つあった。対ソ輸送ルートを確保することと、日本への攻撃拠点として利用することである。
アメリカ軍は、軍事拠点の島々を占領しながら日本本土へと接近していた。占領した島々の飛行場は、次なる拠点を攻撃するために利用された。昭和18年(1943)5月にアリューシャン列島のアッツ島を攻略すると、アメリカ軍は次なる目標を千島列島に定め、攻撃を開始したというわけだ。
だが、ソ連は千島列島攻撃に消極的だった。アメリカ軍は上陸作戦を実施しようと共闘を要請したものの、ソ連は拒否している。ソ連と日本は日ソ中立条約を結んでおり、表向きソ連と日本は中立関係だった。それに、ソ連領と目と鼻の先にある北千島がアメリカに占領されることは、ソ連にとって安全保障上の懸念だった。
だが、昭和20年(1945)8月15日、ソ連は態度を改めることとなる。極東ソ連軍司令官のアレクサンドル・ヴァスレフスキー元帥が、千島列島上陸作戦を決定したのだ。
消極姿勢から態度を転じたのはなぜなのか? モスクワからの命令なのか、極東ソ連軍の独断なのかはわかっていない。いずれにせよ、ヴァシレフスキーの命令で太平洋艦隊・第2極東方面軍の両軍事評議会が占領を決定し、急ピッチで攻撃準備を整えたことは事実だ。軍事行動の目的は、朝鮮半島北部や満州地方と同様に、アメリカ軍の占領準備が整う前に実効支配することが目的であった、といわれている。
軽視されたソ連の脅威
千島列島を守っていたのは、第5方面軍の第91師団である。千島列島方面の兵力は約2万5000人(海軍兵力含む)、うち8500人前後が占守島に配されていた。航空機は8機と貧弱だったが、主力の戦車第11連隊は約64両の戦車を有していた。
ただ、同師団の目的はあくまでもアメリカ軍からの防衛であった。大本営はアメリカ軍の北方からの反撃を想定し、占守島を含む北千島の防衛を重視していた。
しかも、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、主力部隊を北千島から撤退させていた。本土爆撃の拠点となり得る、中・南千島と北海道東部の防衛を重視したためだ。昭和20年(1945)7月からはアメリカ艦隊による空襲や艦砲射撃が頻発しており、ソ連はアメリカの驚異に隠れてしまっていた。
ソ連軽視は、現場の第91師団も同じだった。ソ連が千島列島上陸作戦を決めた8月15日から、不穏な動きが起きてはいた。占守島の近隣海域では、8月15日に座礁したタンカーがソ連軍に砲撃され、8月17日にもカムチャッカ半島からの小規模砲撃があった。また司令部には、同半島の西海岸で小型船舶の増加が師団司令部に報告されていた。
しかし師団長の堤不夾貴中将は「珍しいが、それだけのこと」と考え、侵攻の前兆とは考えていなかった。第5方面軍司令部も、終戦直後に始まった南樺太戦と、北海道防衛準備ばかり注目していた。こうして占守島は、援軍もないまま侵攻を迎えることになる。
奮戦する占守島守備隊
8月18日、ペドロパブロフスク・カムチャッキーを出港した艦隊と上陸部隊8824人が、占守島北端の竹田浜に上陸した。これに対して島の守備隊は、即座に反撃を開始する。
8月15日の玉音放送は第5方面軍にも伝わっていた。ただ、8月17日に大本営から、18日午後4時までの自衛戦闘を許可する命令が下っていた。第91師団もこれに従い、島周辺の監視を続行している。そのさなかに、ソ連軍の上陸が始まったのである。
島の部隊からすると、ソ連上陸は寝耳に水だっただろう。それでも、占守島の守備隊は奮戦した。
ソ連が上陸した島北部は、アメリカの上陸を想定した要塞化が進んでいた。要塞化した国端岬と小泊岬に配された砲兵が、上陸部隊を迎え撃つことになる。一方のソ連軍は、上陸戦に不慣れで砲撃支援も少なく、航空機も霧で出撃不能な状態にあった。そのためソ連軍は、守備隊の十字砲火でなすすべもなく撃ち倒されていった。
一部の部隊は海岸部を突破し、高台の四嶺山を目指したが、これを戦車第11連隊が迎え撃った。ソ連軍の猛攻により27両が破壊され、連隊長の池田末男が戦死している。それでも、ソ連軍の上陸部隊に戦車がなかったこともあり、押しとどめることに成功した。北海道からの航空特攻もあり、一時は敵を島北端に追いやった。
それでも、戦いは終わらなかった。18日の午後4時、命令通りに攻撃を中止した日本軍だが、ソ連軍は攻撃を続行した。島では一進一退の防衛が続くことになる。
想定外の被害を受けるソ連軍
前線での防衛戦闘が続く中、現地では19日から停戦交渉が始まった。同日、大本営もマッカーサーに、戦闘停止への協力を要請している。もっとも、マッカーサーにソ連軍への命令権はなかったので、大した効果はなかったようだ。
押され気味のソ連軍も、満洲の関東軍を通じて停戦を試みた。ソ連軍と会見したのは、関東軍総参謀長の秦彦三郎中将だ。8月26日、秦は大本営と第5方面軍に打電し、停戦を要請した。だが、同日のうちに停戦はまとまらなかった。
この事態に、ソ連側は焦り始めた。司令官のヴァシレフスキーは、8月20日に占守島を占領したとスターリンの報告していたからである。
翌21日、ソ連軍は関東軍を介して、停戦をまとめようとした。現場ではソ連軍の攻撃が続いていたため、戦闘を止めるのは難しいかと思われたが、それでも21日中に、停戦がまとめられた。8月24日に武装解除が行われ、現地の将兵は捕虜としてソ連本土へ移送されていった。
「占守島の戦い」における死傷者は、日本軍が1018人。対してソ連軍は、1567人である。ソ連軍からすると、想定外の苦戦だった。この被害を受け、他の島々では戦闘行為を慎み、第91師団の将校を説得役に立てて、無血制圧していった。
占守島における日本軍の奮闘は、ソ連の北海道占領作戦に影響を与えた可能性がある。対日参戦を決めたヨシフ・スターリン書記長は、北海道占領を視野に入れていた。極東ソ連軍総司令官のヴァシレフスキーも、千島列島侵攻後の23日を目途に、北海道侵攻の準備を進めている。
しかし8月22日、北海道侵攻作戦は待機となり、27日の航空機及び船舶の北海道侵入禁止命令で、事実上中止された。ソ連は、アメリカ軍との衝突を回避するためだと発表したが、占守島や各方面での日本軍の奮戦が、北海道占領の意志を挫いた可能性も指摘されている。
だが、北海道は占領を免れたものの、千島列島は違った。アメリカによってソ連の領有が認められ、9月7日までに全島が占領されている。その際、アメリカはどの島までソ連の領有を認めるかを定めなかった。これが、北方領土問題として尾を引いている。日本側は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方領土は千島列島に含まれないと主張しているが、ロシアは北方領土の領有も認められていると主張している。
『終戦後の日本軍』高石弘明(彩図社)から抜粋

【筆者紹介】
高石弘明(たかいし・ひろあき)
1986年大阪府生まれ。2010年より編集プロダクションに勤務し、第二次世界大戦や近代の歴史的人物、事件などを中心に執筆。戦国時代や地理に関する執筆も多い。主な書籍は『教科書には載っていない日本軍の謎』『太平洋戦争 通説のウソ』(彩図社・共著)ほか。
