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終戦後に厚木基地で反乱勃発

マッカーサーが降り立つ2週間前に反乱勃発

 厚木基地は、神奈川県綾瀬市から大和市にかけて広がる航空基地だ。現在はアメリカ空軍と海上自衛隊の共同使用となっているが、もともとは日本海軍が昭和17年(1942)に完成させた航空拠点であった。戦争末期には第302航空隊を中核とする戦闘機部隊が置かれ、本土防空の要として機能していた。だが一般的には、ダグラス・マッカーサーが降り立った地として知られているのではないだろうか。
 昭和20年(1945)8月30日、アメリカ軍輸送機バターン号が滑走路に降り立ち、マッカーサーは日本の土を踏んだ。マッカーサーがパイプを咥えてサングラス姿でタラップを下りる姿は、現在でも写真として残されている。この日以降、日本はGHQに占領統治されることになった。
 終戦を象徴する出来事だが、実はこの約2週間前まで、厚木基地は反乱の舞台となっていた。反乱を引き起こしたのが、第302航空隊司令官の小園安名大佐である。

戦闘機隊司令官の反乱

 小園は、斜銃の開発などを手がけた奇抜なアイデアマンだった。斜銃とは、機軸に対して上向きに固定装備された機関銃のこと。相手に攻撃位置を覚らせにくくする効果があった。
 一方で、「小園暴風」と呼ばれるほどの激情家でもあっ小園は、ポツダム宣言の受諾を知って激怒する。自分たちに戦いを強いる裏で降伏を進めるとは何事か。小園は海軍上層部の「裏切り」に憤り、ポツダム宣言の拒否と徹底抗戦を決断する。
 ポツダム宣言が国民に向けて発表される前から、小園は情報をつかんでいた。8月11日には横須賀海軍通信隊を通じてポツダム宣言に関する海外情報を入手、ポツダム宣言について話し合った御前会議の動きも、別のルートからつかんでいた。そのため8月15日正午、玉音放送を拝聴した約3000人の将兵に対し、小園は命令拒否と戦争続行の訓示を行ったのである。
 小園は「4年間は戦える」と豪語し、全海軍部隊に降伏拒否と指揮系統からの離脱を表明した。そして各部隊に無線で決起を促し、航空機で檄文を日本各地に散布していった。
 16日には鎮圧部隊の攻撃に備え、一部の兵が白兵戦訓練を始めた。その後、士官集合所には座間の戦車隊中隊長や第一相模航空隊の兵士が続々と詰めかけた。
 また、小園の決起に感化された陸軍水戸教導航空通信師団の林慶紀少尉は、8月17日に400人の将兵とともに「暁部隊」を名乗り、東京美術学校(現東京芸術大学)に立て籠って徹底抗戦を訴えている(上野事件)。
 もっとも、大半の部隊は反乱への参加を拒否した。
 長崎県大村基地の第343航空隊は厚木基地からの使者を追い返し、京都福知山基地の築波航空隊は、降伏軍使の機体の撃墜を依頼されると一喝している。また、軍令部次長の大西瀧治郎中将も、横須賀基地に対して小園への同調を拒否するよう命じた。厚木に馳せ参じた部隊は、極々一部でしかなかった。

小園急病により反乱終結

 厚木の決起を知った海軍省は、8月16日午前から小園の説得に動き出した。だが、寺岡謹平中将や菊池朝三少将が直接説得しても、小園は黙殺。皇族の高松宮宣仁大佐による電話会談も失敗に終わった。午後4時、海軍は小園の解任を決め、後任の司令に山本栄大佐をあてた。
 厚木の反乱が続く一方で、8月19日にはフィリピンマニラのニコルス飛行場で、マッカーサー来日の打ち合わせが行われていた。参謀長のリチャード・サザーランド中将は、河辺虎四郎中将を代表とする使節団に対し、4日以内に厚木飛行場への先遣隊派遣を言い渡した。だが、厚木は反乱の只中にある。日本側が再考を要請すると、サザーランドは5日以内に延期したものの、厚木からの変更することには応じなかった。日本はアメリカ到着までに反乱鎮圧を余儀なくされていた。
 ただこのとき、厚木の状況にも変化があった。小園が南方戦線時代に感染したマラリアが再発したのである。高熱で錯乱する小園に、反乱を指揮することはできなかった。
 指揮を代行した菅原英雄中佐は20日に高松宮と対面し、事件の収拾を命じられる。寺岡や菊池とともに訪れた山本も、武装解除を下命した。これにより、翌21日午前8時頃、菅原は将兵たちに武装解除を命令。同時に新司令官の山本が部隊の解散を宣言し、厚木基地の反乱は終結したのである。首謀者の小園は、昏睡状態のまま横須賀の野比病院へと強制入院させられることになった。

進駐軍、厚木基地に到来

 折しも、8月21日に日本の使節団がマニラから帰国した。厚木基地の戦闘機は全機プロペラが外され、のちに破壊された。
 日本政府は連合国軍の進駐に備えて、秋山理敏全権公使を委員長とする設営委員会を設置。厚木にも終戦委員会が組織された。厚木基地は約8000人の作業員により、路面・滑走路の整地と施設の清掃作業が、徹底的に行われた。
 アメリカ軍先遣隊がフィリピンから出発したのは8月27日。沖縄を経て、翌28日午前中に厚木に到着した。そしてその2日後の8月30日、日本人記者10人を含む120人の報道陣が見守る中で、マッカーサーは厚木の地に足をつけた。
 小園はマラリアから回復した後、軍法会議へとかけられた。10月16日に無期禁固の判決を受けている。その後、日本国憲法発布による恩赦などで減刑されて、昭和25年(1950)12月5日に釈放されると、郷里の鹿児島へと帰って、農業に従事したという。

『終戦後の日本軍』高石弘明(彩図社)から抜粋

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【筆者紹介】
高石弘明(たかいし・ひろあき)
1986年大阪府生まれ。2010年より編集プロダクションに勤務し、第二次世界大戦や近代の歴史的人物、事件などを中心に執筆。戦国時代や地理に関する執筆も多い。主な書籍は『教科書には載っていない日本軍の謎』『太平洋戦争 通説のウソ』(彩図社・共著)ほか。

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