終戦後の日本軍①
復員作業の始まり
海外に取り残された日本人
戦前戦中の日本は朝鮮半島や南洋群島に領土を持っていた。太平洋戦争の開戦後はフィリピン、蘭印、ニューギニアなど多方面に部隊を展開させている。外地(海外)に配備された兵力は、大戦末期で陸軍約330万人、海軍約37万人にものぼった。
より詳しくみると、以下のようになる。
ビルマ(現ミャンマー)、インドネシア、ニューギニアなど東南アジア全般:南方軍
シンガポール、マレーとその周辺:第7方面軍
フィリピン:第14方面軍がアメリカ軍とのゲリラ戦を展開
シャム(現タイ。当時は同盟国):第18方面軍
中国(モンゴルから華北、香港、南京、中国沿岸部):支那派遣軍
朝鮮半島:第17方面軍(終戦直前に関東軍の隷下となる)
満州:関東軍がソ連軍との戦闘を継続
これらの軍人に加え、海外進出していた邦人約320万人が海外に展開していた。合わせて680万人以上である。終戦によって、これらの大量の人々が、日本に帰国することになって。大規模な引き揚げは、どのように行われたのだろうか。
放置される在外邦人
終戦から間もない昭和20年(1945)9月5日、日本政府は閣議において、民間人の速やかな帰国を決めた。だが、早くも9月24日には、東久邇宮内閣次官会議において、国外の民間人は可能な限り海外に留まることが確認された。
日本政府が優先したのは、軍人の引き揚げである。昭和21年(1946)3月16日には、引き揚げは軍人を最優先とする方針が固められた。ポツダム宣言第9項でも、日本軍人は武装解除後の本国帰還が保障されていた。一方、民間人については何も保障されていなかった。
政府が民間人の帰国を後回しにしたのは、国内に民間人を受け入れる余裕がなかったからだ。日本は戦争で国土が荒廃し、50万人の餓死者が想定されていた。こうした混乱状態が収まるまで帰国は遠慮してほしい、というのが政府の本音だった。
アメリカを動かした在外邦人の苦境
だが、海外の日本人は、日本政府が思った以上に厳しい環境に置かれていた。
満州や朝鮮半島ではソ連軍の南下を受けて、日本人が大移動を開始したのだが、この逃避行の最中、ソ連兵から暴行・略奪を受けた人々が少なくなかった。同じように、フィリピンや蘭印方面でも、日本人は現地人から迫害を受けていた。
在外日本人の窮状を知った政府は、早期引き揚げを余儀なくされた。アメリカも、大陸情勢の不安定化とポツダム宣言の履行実現のため、民間人を含む邦人帰還に本腰を入れていった。
引き揚が本格化したのは、昭和20年(1945)10月からだ。10月3日、在朝鮮アメリカ軍政庁のヘンリー・アーノルド軍政長官が、日本人の早期引き揚げを表明。23日から朝鮮南部の引き揚げ作業が加速した。18日には連合国軍総司令部(GHQ)の命令で、厚生省が軍と民間人の復員と引き揚げを一括管理することになる。これによって省内には引揚援護課が置かれ、引き揚げ業務を統括することになった。
陸海軍省の役割も変わった。両省はそれぞれ第一・第二復員省となり、復員業務と帰国後の兵士の各種手続きを担うことになった。軍人の帰還は「復員」、民間人は「引き揚げ」と分かれていた呼称も「引き揚げ」に統一されていく。
引き揚げ業務は船舶の運航と人員の輸送だけではなく、入国時の検疫や手続き、故郷への鉄道手配や生活支援など、多岐におよんだ。その大半を主導したのは、GHQだ。日本兵の収容所の位置や状況、現地の環境などは、日本独力では調査できなかった。そこで船舶の運航計画や燃料調達は、アメリカ海軍が担当した。外地の民間人警備もアメリカ軍人が行っている。
GHQ内で引き揚げを担当した部署は、参謀部の引揚課と日本連絡部、太平洋艦隊の日本船舶管理部である。厚生福祉局も、帰還指定港での防疫に努めている。12月27日には船舶運営会に215隻の輸送船が貸与されることになり、輸送体制は大幅に改善された。
翌年1月15日から17日に東京で開かれた引き揚げに関する会議では、GHQとアメリカ軍との間で、全地域の残留日本人の帰還が再確認された。また日本国内の外国人についても、速やかなる送出が決められている。こうして、日本軍人と在外邦人の帰還業務が本格的に開始されることになった。
想定外に進んだ帰還事業
初の公式の復員船は、昭和20年(1945)9月末頃にメレヨン島から別府に到着した病院船、高砂丸である。しかし朝鮮半島南部では、8月下旬より計画外の帰還がたびたび行われた。民間船の密入国したり、日本に向かうアメリカ艦艇が乗せるケースもあったようだ。
正式な業務開始以降、引き揚げは生活環境が極度に悪い地域が優先された。該当地域は、ニューギニア、ビルマ、太平洋の離島といった激戦地だ。引揚者たちは病院船によって、治療設備の整った横須賀、浦賀へと輸送されていった。乗船の混乱を避けるため、現地では船の来航計画が事前に周知されたりした。なお、復員船と引き揚げ船の違いは、乗船者の将兵が多いか少ないかでしかない。
こうした日米の業務により、昭和21年(1946)3月から6月までに帰還した兵と民間人は、約230万人。年度末には496万人が日本の土を踏んでいる。4年を予想されていた帰還事業は、1年半で8割以上が完了した。ただし、昭和22年(1947)以降も月数万の帰還者があり、引き揚げ業務が終了したのは昭和36年(1961)頃である。
帰還後の兵士たちは、どのような扱いを受けたのだろう。
まずは上陸地や検診所にて、簡易の診断や予防接種などを受けた。その後は受付にて復員証明書や日銀(現金)などを受け取り、駅から故郷へ帰還していった。援護所がある場合は、そこで2~3日を過ごす者もいた。
風呂や食事が用意され、新品の衣類と部屋で疲れをいやす。出発時には復員証明書とともに、軽食や旅費が支給される。海外での生活とは、雲泥の差だっただろう。しかし、故郷が無事とは限らなかった。それに、帰還を温かく迎え入れられた人々がいた一方、敗軍の兵として差別を受けた人々もいたという。
戦後の新たな常識の中で、兵士たちは生活基盤を自力で整えていかなければならなかった。帰還は戦争の終わりと同時に、新たな始まりでもあったのだ。
『終戦後の日本軍』高石弘明(彩図社)から抜粋

【筆者紹介】
高石弘明(たかいし・ひろあき)
1986年大阪府生まれ。2010年より編集プロダクションに勤務し、第二次世界大戦や近代の歴史的人物、事件などを中心に執筆。戦国時代や地理に関する執筆も多い。主な書籍は『教科書には載っていない日本軍の謎』『太平洋戦争 通説のウソ』(彩図社・共著)ほか。
