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現人神を降りた昭和天皇の昭和史

和平と抗戦の両面を進める

 戦中の昭和天皇に対する評価は、難しい問題である。
 天皇は皇太子時代、欧州を外遊して第一次大戦の爪痕を目の当たりにした。即位後は政治介入を続ける軍部に不信を抱き、三国同盟の阻止にも動いている。しかし結局、軍部の暴走を止めるには至らなかった。こうした点に注目すると、昭和天皇は悲劇の平和主義者、ということにある。
 しかし実際には、昭和天皇が軍部の政治に影響を与えることが少なからずあった。戦時中には、軍部の作戦行動に意見を挟むことも多かった。
 たとえば、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦後、昭和天皇は海軍に消極的な行動を慎むようにと注意を促した。また昭和20年(1945)2月、近衛文麿元首相が終戦交渉を上奏しても、昭和天皇は戦果が十分でないと拒否している。
 しかし、沖縄戦でもアメリカに大打撃を与えられず、ドイツは5月7日に降伏した。昭和天皇は早期講和論に転換し、ソ連を仲介した講和の推進を支持するようになる。和平工作はソ連の対日参戦で失敗するものの、8月10日にポツダム宣言受諾の御聖断を下したことで、無条件降伏を受け入れることが決まった。
 御聖断によって戦争が終結したのち、昭和天皇は戦後の日本で、象徴天皇として生きていくことになる。だが、終戦直後の時点では、昭和天皇の処遇は決まっていなかった。日本のトップである以上、開戦から終戦までの戦争責任を問われる可能性もあったし、最悪の場合、処刑すらあり得た。そんな状況から、昭和天皇はいかにして戦後を歩んでいったのだろうか。

マッカーサー会談の真相

 終戦後、日本の政府や軍部の要人は、次々と逮捕されていった。中には東京裁判で、極刑を言い渡された者もいる。昭和天皇に対しても、ソ連、イギリス、オーストラリアをはじめとした連合国の少なからぬ国々が、厳罰を求めた。アメリカ世論も同様で、終戦前の6月に行われた世論調査では、6割以上が天皇の処罰に賛成していた。
 だが、昭和天皇は東京裁判の起訴を免れた。いったいなぜか?
 その理由として、「昭和天皇に好感を抱いたマッカーサーが基礎を認めなかった」と言われることがある。
 昭和20年(1945)9月27日、在日アメリカ大使館にて、昭和天皇とマッカーサーの直接会談が開かれた。会談の2日前にはニューヨークタイムズ紙が、「天皇が真珠湾攻撃の責任を東条に転嫁した」という記事を出していたが、昭和天皇はマッカーサーに対して、「戦争に関する責任はすべて自分にある」と語った。この潔い態度にマッカーサーが感激し、昭和天皇の戦争責任追及を取りやめることにした、という説である。
 だが、この説はすでに、研究者の間では否定されている。昭和天皇が不起訴となったのは、アメリカ本国がそう望んでいたからである
 マッカーサーが昭和天皇と会見する前の9月22日、ワシントンから「天皇の戦犯指定は特別な指令があるまで回避せよ」と厳命を受けている(「戦犯容疑者の逮捕と裁判に関する指令」の第17項)。マッカーサーの個人的意思と天皇制存続は、あまり関係がなかったのである。

不起訴を狙うアメリカの思惑

 アメリカが天皇を不起訴としたのはなぜか? それは、日本の反米感情を和らげることと、天皇の権威を占領統治に利用するためだ。
 昭和天皇は国民からの信頼が熱く、昭和20年(1945)秋から全国各地を訪れた際にも、熱烈に歓迎されている。裁判によって裁かれれば、日本国内の混乱は避けられない。そんな考えから、アメリカ本国は天皇への対処に慎重になっていた。むしろ天皇制を存続させることで、占領当時を円滑に行う方向へとシフトしていた。
 アメリカ世論や主要国の突き上げに対処すべく、アメリカ政府とGHQは対策を講じていく。その一環として出されたのが、昭和天皇の「人間宣言」だ。
 昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」によって、現人神としての天皇を否定した。この勅書は、GHQと皇室の共同で作成された。天皇の象徴化により、戦争責任追及と天皇制廃止運動をけん制するのが狙いだった。また政治的実権を持たず、内閣承認の国事行為のみを役割とした象徴天皇制を定めた新憲法作成を急いだのも、極東委員会内の戦犯論派に対抗するためであった。
 こうして昭和22年(1947)5月3日、日本国憲法が施行されることになった。

昭和天皇の退位問題

 アメリカは、昭和天皇の戦争責任を問わないことを決めた。だが日本国内では、昭和天皇の退位に向けた動きも見られることとなる。
 昭和天皇自身、終戦直後の8月29日の時点で、退位を視野に入れていた。この時は、天皇の言葉を聞いた木戸幸一内大臣が説得したことで退位は実現しなかったが、東京裁判が大詰めを迎えた昭和23年(1948)に入ると、退位問題がピークに達する、
 当時の芦田均内閣は、宮内府(現宮内庁)長官に退位論者の田島道治を就任させ、宮中民主化を進めようとしていた。芦田は田島の説得によって、昭和天皇を穏便に退位させようとしていたようだ。
 だが、天皇は終戦直後と異なる考えを持つようになっていた。
 この年の7月9日、田島と対談した昭和天皇は留位を表明した。その理由は三つあった。まだ皇太子(現上皇)が若く摂政の候補もいないこと、退位後もGHQが天皇制存続を保証するとは限らないこと、そもそもGHQが退位を許すかもわからないことの三点である。
 国内外の批判は承知のうえで留位を選び、日本の政情安定と国土の復興に協力する。これによって戦中の責任を果たすと、答えたという。田島はこの態度を「私心のない表現人そのもの」と評価している。9月27日に芦田首相との議論の末、田島は留位の支持に回った。
 東京裁判の最終判決が下った11月12日、昭和天皇はマッカーサーへの書状の中で、留位を表明した。在位は決定路線となる。だが東京裁判のウィリアム・ウェブ裁判長は「(昭和天皇の裁判免除は)連合国の最善の利益に基づくもの」と批判。退位問題はしばらくくすぶり続けることになる。それでも昭和天皇は、昭和64年(1989)の崩御まで日本の象徴であり続けた。天皇制は現在も、戦前とは違うかたちで日本国民に受け入れられている。

『終戦後の日本軍』高石弘明(彩図社)から抜粋


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【筆者紹介】
高石弘明(たかいし・ひろあき)
1986年大阪府生まれ。2010年より編集プロダクションに勤務し、第二次世界大戦や近代の歴史的人物、事件などを中心に執筆。戦国時代や地理に関する執筆も多い。主な書籍は『教科書には載っていない日本軍の謎』『太平洋戦争 通説のウソ』(彩図社・共著)ほか。

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