『評伝 中勘助』の執筆を終えて(2)
●回想記 昭和52年(1977年)の記録
≪我孫子訪問記≫
『カンナ』第88号(昭和52年11月24日発行)より転載
中野新井町の中家を訪問したのは昭和四十五年の四月のことであるから、すでに半世紀の昔である。はじめて中勘助の著作を手にしたのは高校二年生のときのことで、岩波文庫の『銀の匙』であった。そうして全国各地に遍在すると思われる多くの中勘助の読者たちとおなじように、『銀の匙』ひとつきりでたちまち百年来の愛読者になったのである。『銀の匙』は難しい小説であった。
やがて大学に進んで東京に住むことになり、上京してすぐに中野のお宅にお訪ねした。中勘助がすでに亡いことは文学辞典の記事を見て承知していたが、奥様がご健在で中野にお住まいであることは何かの雑誌で見かけて知っていた。どのような雑誌だったのか、誌名はもう覚えていないが、『銀の匙』ひとつでたちまち百年来の愛読者になってしまってから、中勘助にかんする大小のあれこれが知覚されるようになっていたのである。
電話帳を見ると中先生の奥様とおぼしい方のお名前が見つかった。思い切って電話をかけたところ奥様が出た。そこでかねての用意に従って、自分はこれこれこういうもので中勘助の愛読者なのだが、ぜひとも一度お話をうかがいに参上したい旨を告げようとした。ところが、さて口を開こうとしてはたと困ったのは、中勘助の呼び方だった。『銀の匙』を読んだことのない友人を相手に中勘助の話をするときは、当然のように中勘助が、中勘助が、と呼び捨てにしていた。奥様に向ってはそういうわけにはいかないことに、うかつにも電話をかけてさて口を開こうとした瞬間に気づいたのであった。とっさに、中先生、と言おうとしたが、これもまた何やら気恥ずかしい。
言葉につまって、あの、とか、その、とかと言っているうちに、奥様が助け舟を出してくださった。いったいあなたはどういう方なのかと聞いてくれたから、それを機に自己紹介して、ようやく会話が進み始めたのである。おうかがいしたいという希望を伝えると心行く承諾していただいて、日時を打ち合わせた。二日後には中野駅からの道順を詳述した葉書をいただいた。こうして、それ以来折に触れて中野のお宅を訪ねるようになったのである。それからすでに七年になるが、往時を思うと今でも恥ずかしい思いがする。
我孫子の手賀沼のほとりに出かけたのは、はじめて中野のお宅を訪ねてから二年後の五月の末である。その年は大学では前年度以来のストが続いていて、期末試験が五月半ばまでずれ込み、いろいろめんどうな手続きの末、ようやく遅い春休みになった。何やら気の抜けた気持でぼんやりすごしていたが、ある朝ふと我孫子に行ってみようと思い立ち、その日のうちに出かけたのである。中勘助が手賀沼のほとりで一時期をすごしたことが『沼のほとり』で知っていた。いつか行ってみたいと思っていたから行き方も知っていた。上野駅から常磐線の急行で二、三十分ほどで我孫子駅に着く。降りて、駅前の一本道をまっすぐに進んだ。途中、曲がり道もたくさんあるが、なんとなく下り坂のように見える道を直行すると、案の定、沼のほとりに出た。地図で見るとおりの細長い沼で、左右の見渡しは果てしがないが、向こう岸はほんのわずかである。沼のほとりは人家が多いが、たいていは新しい。中勘助の『沼のほとり』では家並みは数えるほどという印象を受けた。だが、五十年後の現在、常磐線沿線は新興住宅地なのである。
貸しボートが並び、釣り堀がある。波打ち際はコンクリートで固められている。何やら喧噪な感じを受けるが、それは細長い沼のこちら側のほんの一角だけのことである。ボートで向こう岸に渡ってみれば驚くばかりの水の清さであった。沼の幅の細いところに架かっている橋を渡った。すると、こちら側とはうってかわった田舎ぶりである。人家も少ないし、人の家のない古びた社(やしろ)もある。草木は生い茂るし、何やら深山幽谷に分け入ったような錯覚に陥ったものであった。田舎なのである。
波打ち際のコンクリートに立って沼をのぞきこむと、緑色に濁ってひどく汚い。子供が数人、網をもって何やらすくいだし、水を入れたバケツですすぐと小さいものがおびただしくうごめいている。はてなんだろうと考えていると、横に並んでいた中年のおじさんが、それはこれこれだと教えてくれた。何と言って教えてくれたのか、忘れてしまった。それから何となく四方山話をした。それとなくおじさんが言うには、自分が子供のころ、このあたりには文化人がたくさん住んでいた。あの辺には志賀直哉、向こうの辺には柳宗悦、その隣のあのあたりにはバーナードリーチの窯があった。中勘助のことは言わないから、やはり知る人ぞ知るで、知らないのかもしれないなと思いながら、中勘助はどのあたりにいたのかと尋ねると、おれのうちだよ、と答えた。思いもよらない返答だった。偶然の出来事というのは存外に多いのである。
誘われるままに自宅を訪ねた。中勘助が起居していた二階の見晴らしのいい部屋を見せてもらった。母親という人に紹介してくれた。この人は『沼のほとり』の「お嫁さん」である。現在八十歳になり、いくぶん身体が弱り気味で、もう久しくこうして寝ているのだということであった。頭脳明晰、品のいいお婆さんであった。
なにぶん五十年も前のことでと言いながら、中勘助の話をした。中さんは潔癖で潔癖で、もうどうしようもなく潔癖で、手ばかり洗っていた。机の上にチリひとつあってもいやがった。中さんはどういうわけかお嫁さんをもらわなかったと言うので、ぼくの知っていることを少し伝えた。中勘助が下宿していたころは人家もまばらで、寂しいところだったらしい。志賀直哉の住まいは少し離れた隣の家で、「おーい」「遊びにこいよおー」と大声で中勘助を呼ぶのだそうである。すると中勘助は「今行くぞおー」と応じて長靴を履いて出かけたという。呼べば聞こえるところに住んでいたのである。
何やらいろいろ尋ねたりうかがったりした覚えがあるが、詳しいことはみんな忘れてしまった。『沼のほとり』の「お嫁さん」に会えるとは思ってもいなかったから、気持ちが動転していたのである。中勘助の手紙もたくさんあったが、みんななくなってしまい、今では一通だけ残っているということだった。見せてくれたが、妙な崩し字で一字も解せなかった。署名入りの『沼のほとり』などもあったが、我孫子市の教育委員長のだれとかがちょっと借りていったきりいっこうに返してくれず、それきりになってもう十数年になるという。先ほどのおじさんは、もうそろそろ取り戻したいと思っていると言った。
長居をせずにおいとましたが、妙な感じだった。東京に戻って中野のお宅に電話していきさつの概略を伝えた。すると奥様は、それはよかった、中さんのお引き合わせだと言った。ふと思いついて我孫子に出かけた中勘助に会えたのは偶然ではなかったのである。それがうれしかったから、その後しばらくの間、だれかれとなく安孫子の話をした。
二度目に安孫子を訪ねたのは去年の九月である。この間、丸四年が過ぎていたが、ぜひもう一度訪ねて、何が書かれているのかわからない手紙などを解読したいものだと思っていた。だが、ふとした思いつきで出かけるのとはちがって、意識していざということになるとかえって出かけがたくなるものである。四年も過ぎればいろいろなことが起る。だから四年ぶりの我孫子行はなつかしかった。
少々とまどったが、訪ねるお宅はすぐにわかった。縁側にまわると女の人が二人いた。ひとりは四年前の「お嫁さん」だが、もうひとりの人とは初対面である。四年前に一度訪ねたことのあるものですが、手紙などを写させてほしいと思ってやってきましたと訪問の意向を伝えた。ここは我孫子市白山一の七の十三、高島登さんのお宅である。一通きり残った中勘助の手紙は額縁に入れて廊下の桟の上に飾られていた。この二、三年は我孫子市でも郷土文学熱が高まり、教育委員会で発行した文学案内などを手にいろいろなグループがやってくるそうである。やってくるほうは一回きりでも、やってこられるほうではそのたびに顔を出さねばならない。ぞろぞろ団体でうやってきてはあれこれ質問して、判で捺したように、おばあさん、何かひとこと、とかいうものだから、近ごろは煩わしいのでこうして手紙を額に入れておき、かってに見てくれというふうにして、いちいち面会しないようにしているのだそうである。
おばあさんのご主人は水戸師範の第一期生で、地元の小学校で長らく校長をつとめていた。志賀直哉とは碁の仲間で、中勘助が我孫子に移る際に高島さん宅に下宿することになったのは囲碁のとりもつ縁だったようである。中勘助が下宿したころ、「お嫁さん」は二十五歳だった。その当時、高島さんの御家族やら近所の子供たちやらといっしょに中勘助の写っている写真を見せていただいた。これがわたし、とおばあさん。中勘助はすぐにわかった。背の高い一である。
中勘助の手紙というのは次のようなものである。ぼくは読めないのでおばあさんに読んでもらい、筆記したのである。だから感じなどは原文のままではない。おばあさんは、中さんの字は一風変った癖のあるくずし字なのでなかなか読みにくいと言った。
東京都赤坂区表町二ノ十三 中勘助より
千葉県我孫子町我孫子 高島貫治郎へ
お葉書拝見致しました。それでは荷物に関する費用は明春お伺いいたしま した時に御勘定することにしまして、十二月分の御勘定とほんの少々の御礼と合せて金十円也、先生の方へ御礼として福田の方へ都合三十円也小為替同封いたしておきますから何卒御収納を願います。現金の御礼では誠に失礼でございますが、この際のこと故まげて御納めを願います。御礼の郵送も異なものながら、あまり□引になりますのも気掛かりでなりませんし、今度お伺いするときになるべく手ぶらで気楽に伺いたいというすこぶる勝手な趣□とりはからいました。これまた偏に御許し願います。小生神経痛おいおい快方御安心を願います。末筆ながら皆様によろしくどうぞ。来春拝眉の節を楽しみに致しております。(十二月二十四日)
一時間ほどでおいとました。何の随筆であったか思い出せないが、中勘助は、自分は日記を書きながら平凡な日々を送っているにすぎないのに、見知らぬ人びとがそんな自分の書くものを愛読してくれるのが不思議な気がするという意味のことを書いていた。なるほど不思議なことだが、それは中勘助のいうところの「御縁」というもののようである。ぼくは数学を専攻するものであるが、数学の論理とこの世の「御縁」とは何の矛盾もない。ぼくは我孫子のことがあって以来、「御縁」ということを信じるようになった。すると中勘助の書くものがいっそう親しく、なつかしく感じられるようになった。
(一九七七年八月三十一日)
