尊属殺重罰規定違憲判決が守ろうとした「人間の尊厳」と、旭川女子高校生殺害事件が問いかけるもの
はじめに
刑法は人の生命を守る法律です。
しかし、日本国憲法が守ろうとしているものは、生命だけではありません。
日本国憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」と定めています。
つまり、憲法の根底には、「人間の尊厳」を守るという理念があります。
私は旭川女子高校生殺害事件の判決を見て、約半世紀前の最高裁判決を思い出しました。
尊属殺重罰規定違憲判決です。
一見すると全く関係のない事件に思えます。しかし、両者をつなぐキーワードは「人間の尊厳」です。
尊属殺重罰規定違憲判決とは何だったのか
旧刑法には、父母や祖父母など尊属を殺害した場合、通常の殺人よりも著しく重く処罰する「尊属殺重罰規定」が存在していました。
しかし、この事件の被告人は、幼い頃から父親による性的虐待や暴力を受け続け、人間としての尊厳を深く傷つけられていました。
それでも法律上は、「尊属を殺害した」という事実だけで重罰しか選択できませんでした。
最高裁は、この規定が新しい日本国憲法の理念、とりわけ法の下の平等に適合しないとして違憲と判断しました。
判決が直接述べた理由は憲法上の平等原則ですが、その背景には、
「人間の尊厳を踏みにじられ続けた人を、形式だけでさらに重く処罰することが本当に正義なのか」
という問題意識があったと私は考えています。
つまり、裁判所は「尊属だから重い」という形式的価値判断よりも、人間そのものを見る方向へ刑事司法を前進させたのです。
旭川女子高校生殺害事件が示したもの
今回の事件で奪われたのは命だけではありません。
被害者は恐怖で支配され、人格を否定され、人間としての尊厳を徹底的に踏みにじられた末に命を落としました。
判決でも、その悪質性や残虐性は詳細に認定されています。
それでも量刑は懲役27年でした。
もちろん27年は決して軽い刑ではありません。
しかし、この事件の本質は、「一人が死亡した事件」という数字だけで語れるものだったのでしょうか。
殺害人数という量刑慣習
日本の量刑実務では、殺害人数は重要な判断要素です。
しかし、それは法律ではありません。
あくまで長年積み重ねられてきた量刑実務上の重要な考慮要素です。
一方、殺人罪の法定刑には無期懲役が含まれています。
法律上、「被害者が一人なら無期懲役にしてはいけない」という規定は存在しません。
また、裁判所は検察官の求刑にも拘束されません。
制度上は、裁判所が事件の悪質性を踏まえ、求刑を超える刑を選択することも可能です。
つまり、この事件で無期懲役という判断をすることは、罪刑法定主義に反するものではありませんでした。
尊属殺重罰規定違憲判決との対比
尊属殺重罰規定違憲判決は、
「尊属だから重く処罰する」
という形式的な考え方を見直しました。
そこには、人間の尊厳を回復しようという憲法の精神がありました。
では、旭川女子高校生殺害事件ではどうでしょうか。
私は逆方向の問題が現れたように感じます。
今回は、
「殺害人数が一人だから」
という量刑慣習が、人間の尊厳を極限まで踏みにじった犯行の異質性を十分に評価できなかったのではないでしょうか。
もしそうであるならば、それは尊属殺重罰規定違憲判決が乗り越えようとした「形式優先」の発想とは逆の問題を抱えていることになります。
憲法は何を守るのか
日本国憲法は、人を数字で評価する憲法ではありません。
一人だから軽く、二人だから重く。
もちろん殺害人数は重要な事情です。
しかし、それだけが量刑を決定する中心であってよいのでしょうか。
人間の尊厳をどれほど破壊したのか。
人格をどこまで踏みにじったのか。
恐怖や支配によって人間性をどこまで奪ったのか。
憲法13条の「個人として尊重される」という理念を考えれば、こうした事情も量刑判断の中で、より重く評価される余地があるのではないでしょうか。
おわりに
尊属殺重罰規定違憲判決は、日本の刑事司法に対して、
「形式ではなく、人間を見よ。」
という大きなメッセージを残しました。
旭川女子高校生殺害事件は、そのメッセージを被害者の側から改めて問いかける事件だったように思います。
私は、この事件を契機に、
「殺害人数」という量刑実務上の重要な要素だけでなく、
「人間の尊厳をどこまで破壊した犯罪なのか」
という観点を、より正面から評価する量刑論が議論されることを期待しています。
刑事司法が守るべきものは、生命だけではありません。
憲法が掲げる「個人の尊重」という理念を、量刑判断の中でどこまで具体化できるのか。
旭川女子高校生殺害事件は、そのことを私たち法律学習者に問いかけているのではないでしょうか。
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