ファクスの向こう側|シロクマ文芸部|深夜二時
深夜二時、ファクスが鳴った。
年号が昭和から平成へ改まった年の、ある夏の夜。ずっずっずっと吐き出される感熱紙の一行目を見て、田代はすぐに送信者がわかった。
「田代課長 すいません、本日、都合で休ませていただきます。 ヤヒロ」
細い手書きの文字に、田代は舌打ちした。こんな時間にファクスで欠勤を連絡してくるのはヤヒロしかいない。これで三度目だ。面と向かって言いにくいことをファクスにする。この時間であれば理由を追求されることもない。ヤヒロにはそういう気の弱いところがあった。
田代は、一計を案じた。ヤヒロに電話をしてみよう。今日の引き継ぎの確認を口実に、少し苦言を呈したかった。休むのはいいが、余裕を持って口頭で伝えるようにと。電話口であわてるヤヒロの姿が目に浮かんだ。ファクスしてすぐに就寝したとしても、電話が鳴れば起きるだろう。
意外にも、最初のコールが終わらないうちに電話はつながった。
「ヤヒロでございます」
落ち着いた女の声に驚いた田代は、あやうく受話器を落とすところだった。ヤヒロは未婚で一人住まいだったはずだ。
「あっ…夜分にたいへん申し訳ありません、会社の同僚で田代と申します」
「私はヤヒロの代理のものです。ご用件をどうぞ」
留守電の音声にしては妙だと思ったが、田代は続けた。「たった今、休むという連絡をいただいたので、体調でも崩されたかと心配でお電話しました」
「お気遣いありがとうございます」と女は言った。留守電ではなかった。
「あいにくヤヒロは風呂を使っておりまして、お電話があったことを申し伝えておきます。それでは…」
丁寧な言葉遣いではあったが、半ば一方的な電話の切り方だった。
田代は受話器を持ったまましばらく立ちすくんでいた。代理というくらいだから妻ではないのだろう。声の感じからするとヤヒロより年上か。いったいいつの間に…詮索しだすとキリがなかった。そのような女のいる部屋に、しかも常識はずれの時間に電話をかけた自分が滑稽に思えた。
田代が会議資料の準備を終えるころにはすっかり陽がのぼり、朝型の社員が二人、三人と出社してきて、それぞれ急ぎの仕事に取りかかった。定刻には、ヤヒロを除いて全員が揃った。午後になってもヤヒロは現れなかった。
田代はその日、就業時刻を待たずに社を後にした。一刻も早く汗を流したかった。妻は買い物から戻ったばかりと見えて、食卓の上の手提げ袋から白ネギとゴボウがのぞいていた。
浴室を出て体を拭いていると、キッチンで電話に応じる妻の声が聞こえてきた。
「……あいにくタシロは風呂を使っておりまして、お電話があったことを申し伝えておきます。それでは…」
田代の口から「あっ」という声が漏れた。
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