優美な死骸#5「ふたりきりだねミッドナイト」

現在は朝の4時なのだが、ついさっきコンビニで買ってきたほかほかの肉まんを食べながらこれを書いている。大人ってすごいねえ、こんなの子供は許されないよ。前回の更新から4年が経ち、三日月も大人になりました。さて、お久しぶりのブログです。
今日(昨日ともいう)の私は午前8時に起きた。月〜金でセットしているはずの目覚まし時計が鳴らなかったらしく、慌てて飛び起きた朝だった。
すぐに確認した同居人のベッドは、掛け布団がこんもり盛り上がっている。サラリーマンのその人が、こんな時間に寝ているのは不自然だ。いつもの同居人は、毎日7時過ぎに出勤しているはず。
慌てて揺さぶり起こそうと布団に手を掛けるが、おや?と何か妙な違和感を覚える。この人は、過去に寝坊で遅刻をした前例がない。
少なくとも私は、寝過ごした同居人を起こしたことがない。したがって、その人は意図的に眠っている可能性が高いのだ。やはり、何かがおかしい。
そうなると、次は心配が襲ってくる。体調不良の線が濃厚だ。起き上がれないような高熱でぶっ倒れているのかもしれない。
「もしもし、だいじょうぶですか?」
「え、早、なに、」
「体調悪いですか?起きられる?」
「いや、日曜日だから寝てたんだけど」
ああああああ、なるほど。はい、そういうことね。
ようやく、完全に辻と褄が噛み合った。私が月曜日だと信じて慌てた今日は、世間にとっての日曜日だったらしい。
納得すると同時に、閃いた。よく知っているはずの日常によく似たこの世界で、自分ひとりだけが妙な違和感を覚える不思議な感覚。ありえる程度のイレギュラー。
曜日を本気で間違えたまま、進んでいく日常。
これ、あれだ。
パラレルワールドといっしょだ。
満足して二度寝をきめた私は、次に変な時間に起きてしまったため、これから変な時間に眠ります。
みんなも曜日を間違えてみてね、パラレルワールドに行けるかもよ。

小説家の同居人はブルーライトカットの丸眼鏡をおもむろに外して、ソファに思いきり放り投げた。ぼふ。ノートパソコンの画面を閉じる。ぱたん。
「小説家先生、進捗はいかが?」
「もーむり、なんにも書けない」
「そかそか、紅茶でも飲んで休みたまえよ」
「こうちゃあ?」
彼女の「もう書けない」は、この10年程の付き合いで3万回は聞いている。おれの提案がお気に召さなかったらしく、深月流音は首を傾げた。
彼女が大学を卒業すると同時にうまく丸め込んで始めた二人暮らし。防音設備とWi-Fi環境が素晴らしいだけの、ちょっといいマンションだ。
「ほれ、何がいいのか言ってみろ」
「レモネードがいいでーす」
わがままな同居人のご機嫌を取るべく冷蔵庫を開けると、彼女が作ったであろうレモネードが入っていた。黄金の液体がガラスの1リットルの牛乳瓶の中でゆらゆらしているのを見つけて、なぜこれに入れた?と溜息を吐く。
レモネードを2つのグラスに注いで、彼女のいるテーブルに持っていった。リビングで仕事するなよっていうのは30回注意したけど直らないので諦めている。
ルネは、小説家になった。[寝木(ねるき)つみ]というペンネームを使い出して、大学の在学中から本を出版するようになり、気づいたら小説家先生になっていた。サラリーマンのおれと違って業務時間が定まっていないため、彼女がリビングで仕事をすると没頭して働き過ぎちゃうことがある。あと、休憩をうまく取れない気がする。だから、仕事は自分の部屋でやれよって思うのだけど、彼女はご丁寧にノートパソコンをリビングに持ち込んでくるのだ。
頑固者というよりも、彼女の場合、注意されたことをけろっと忘れてしまうのだ。
過去にクリアしたことのある推理ゲームを新鮮な気持ちでプレイした挙句、真剣に選択肢を誤ってゲームオーバーになったりする。同じくプレイ済みのおれは既に選択肢を分かっているので隣でそれを眺めながら、すげー天才っぽいなあと思ったりする。尊敬はしない。
これまでもこれからも、おれは色んなことをルネに注意したりするけど、それはべつに怒っているというわけでなく、日常のコミュニケーションだ。
「ルネさん、これはコーヒー牛乳とかミルクティーとか作ったときに使う容器です」
「コーヒー牛乳とミルクティーはいいのにレモネードはだめなんですか?」
「匂いで味が変わるからミルク要素がないやつは入れないでって、前にも言った」
「はいはいわかりました、こんどはシチュー入れときますねー」
ぬるっと恋人同士になって、3年くらい経っている。深月流音は意外と単純ピュアなので、おれに流されっぱなしの10年間を過ごしていた。
ことん。彼女の前にグラスを置くと「ありがとうございます、いただきます」とお堅い礼が返ってくる。
ゆるく波打った猫っ毛が肩のあたりで切り揃っていて、ほっそりした真っ白な首筋がなおさら華奢に見える。甘やかすようにふわふわした髪を梳いてやると、なぜかルネも真似しておれの髪を触ってきた。ぎこちない右手が後頭部をまるく撫でてくる。心地良さはあんまり感じられなかったけど、振り払うのは惜しいのでしばらくそのままにしておいた。
「いまは、どんなお話かいてるの」
レモネードのために離れていった温度を名残惜しく感じながら、世間話を振ってみる。
「今日は連載してるエッセイを片付けました。いっしょに初詣に行ったでしょ?そのこと書きましたよ」
「初詣?お正月の?いま9月だけど」
「でも、いま思い出したんですもん」
「ルネって季節感ないよねえ」
「よくわかんないんですよね、そもそも四季の分け方って腑に落ちないし」
こういうとき、ルネとおれとでは、当たり前に見ている景色が違うのだろうなと考える。おれは四季が分かる男だ。
今年の初詣のことを、記憶から引っ張り出してみる。初詣の帰り、今年の干支の動物を見るために動物園に寄ったのが楽しかった。『猿山にはボスがいない』という豆知識がニホンザルの檻の近くに記されているのを見つけて、なんだか無性に安心した。
ルネを見ていると、不器用で生きにくそうだなあと思う。だからって器用なじぶんが生きやすいのかと聞かれると、素直に頷けるわけでもないのが人生だ。
ルネは自身が三日月という名前で活動していたことを伏せて、いまも小説を書いている。とはいえ、初期からのファンであるおれからすると、寝木つみの作品は、3ページも読めば三日月のものだと分かる文章だ。ネットを探ると、たまに勘付いている人もいるみたい。彼女はエゴサーチの類をほとんどしていないみたいだけど、おれはおまえのぶんまで勝手にやっているからな。ほんと、勝手にな。
ルネの書くものは、すぐにわかる。誰かが〝利き三日月選手権〟を開催してくれたら、おれは仮面をつけて参加するし、そして間違いなく優勝する。利き三日月とは、いっぱい色んな人の文章があって、その中からどれが三日月のものでしょーうか!っていうのを当てる全国大会のことだ。
見分けるヒントとして、文章や語彙そのものよりも、書かれた内容がいつも純度の高い深月流音なのである。彼女の世界は彼女にしか見えないから、その世界でただひとり生きていることがずるくて羨ましいと思う。
こないだの動物園での話だが、一周ぐるりと見て回った後で、ルネはもう一度じっくりお目当ての干支のソレが見たいと言い出した。2周目ともなれば園内の道筋を大まかに把握していたつもりになり、近道を探しだすものだ。しかし、近道を求めて右往左往することになり、結果としてやや遠回りになってしまったことにたいしてルネは「これって人生の暗示?」と笑っていた。そして目的地の檻に辿り着いた途端に入園口からの最短ルートが見つかったので、「ほんとに人生そのものじゃん」と彼女は肩をすくめた。
こういうところが好きだ。このエピソードには、おれが彼女を好きでいる理由が詰まっているように思う。それと同時に、おれらは別々の人間でしかいられないんだなあと考える。彼女の気持ちはけっこう分かってあげられているつもりだけど、見ている景色はさっぱり分からない。
見えたり見えなかったりする目の前の事象を、自分の知っている感覚に置き換えるのがとても上手だ。そうやって言葉にしてくれるから、おれらも彼女の世界の端っこに触れることができる。ほんとうはその景色を丸ごと知りたくて、でも、どんな眼鏡をかけてもその世界をおれの目で見ることは叶わないから、彼女の言葉を一滴残らず飲み干したいと思うのだ。
あんまり考えずに口に含んだレモネードが、内側の温度を奪っていく。ごくり。喉が鳴るとおれは嬉しい。9月にしては涼しい日が続いているから、温めても良かったかもしれないな。
「レモネード、おいしいですか?」
「あ、すげーうめー!ルネが作ってくれたの?」
「はい、急に飲みたくなったので」
おれが黙って飲んでしまっていたので、心配になったらしい。隣から覗き込んできたルネを見て、あまりのかわいさに笑ってしまう。やや大袈裟においしいことを伝えると、彼女は安心したように頷いた。
「ありがとうね、おいしいよ」
「レモネードはもう完全に理解したので、またわたしが作ってあげます」
「ほんと?うれしいなーレモネードリーダー」
仕事に行き詰まったルネは、検索したレシピを参考にしながらいきなりキッチンに立ってみたりする。まあ、ほとんど自由研究みたいなものだ。いわゆる〝残り物でちゃちゃっと〟なんて彼女には絶対に不可能なので、レシピを確認してから買い物に行き、食品を揃えてから作り始める。しかも、必ずなにかを買い忘れる。
そんなルネの残り物で、ちゃちゃっと食卓を準備するのがおれの役目だ。自分で言うのもアレだけど、ここ数年で料理の腕をめきめきと上達させてしまった。もともと自分のために料理をする気は起きなくて、適当に買ったものを食ったり食わなかったりする一人暮らしだった。しかし、二人暮らしを始めてからは自炊する癖がつき、持ち前の好奇心やら完璧主義やらが功を奏して、人並みあるいはそれ以上に料理ができるようになったというわけだ。そもそも、ルネにはそれなりに美味しくて身体にいいものを食べてほしかったりするし。彼女は食が細いうえに野菜嫌いなので、子供向けのようなレシピばかりが脳内に書き加えられていく。ちっちゃい旗でも立ててあげようかな。
グラスを持っている手の爪で叩くと、鈍い音が鳴った。飲み進めると、音が変化するので楽しい。こういう音で、曲を作りたいな。
ひとくちずつ飲みながら高くなっていく音を録り、それをパソコンに取り込んで1音ずつ保存する。それらを細切れにしたり並べたりしてリズムを作っていき、整えられると音楽と呼べる程度のものができあがるのだ。単純だけど、面倒な手間がかかる。徹夜で数日かかる。
聴くだけなら努力は要らないのに、作るためには精神も肉体も疲弊する。それなのにまた作りたくなっちゃうの、ばかみたいだな。やめるタイミングは何度だってあったのに、おれは今でも趣味で音楽を作り続けている。
三日月がブログを投稿した昨日、ソーダも音楽を投稿した。作ってあるストックが沢山あったので、10分おきに投稿して20個くらいの動画を投げた。
あの頃みたいに精力的な活動を再開するというつもりはないが、たまには、まあ、いいのかもしれない。そんなことまで思う余裕がある。久しぶりにタイムラインが#ソーダに染まっていくのを眺めていた。満たされない承認欲求が、いびつな嫉妬と自己陶酔を隠している。
芸術は、不安定であればあるほど美しい。防衛本能で「もう書けない」とすぐに嘆く恋人は、彼女が思うよりもはるかにずっと正しい芸術家だった。
やっぱり、おれは、ルネと違う。音楽で食っていけば?と言われたことだって何度もある。シニエル時代なんて死ぬほど言われた。だけど、おれはそれをしなかったし、できなかった。言い訳もせずに逃げて、しんどくなる前にやめた。三日月を見ていたら、いつかこの趣味がソーダを苦しめることなんて明白だったから。
ほらね、おれは間違ってない。趣味の延長にある文筆業で稼いでいる恋人のことが眩しくて、でも、ぜんぜん羨ましくない。なんにもまちがってない。現在が、人生の正解ルート。だってここは、ルネがルネの言葉を使う世界だ。そこで、おれも暮らしている。これ以上の大正解が、どこにあるというのだろう。
とにかく、あれだね。趣味と良い距離感を保っていくのって、簡単なようで難しいね。うっかりハマるとずぶずぶの依存関係になって、抜け出せない中毒になってしまうよ。
せっかくそばにいるルネの言葉が聞きたくて、穏やかな沈黙を破るように話しかけた。
「何がきっかけで初詣のこと思い出したの?」
「カゲロウですよ、きょう、成虫のカゲロウを見たんです」
「えええ、めずらしー」
「調べてみたら、成虫になったカゲロウは、1日どころか数時間しか生きられないんですって」
「ですって?」
「ですって。2丁目のカゲロウさん、短命なんですって、奥さん!」
ちょっと興奮気味に話すルネは、11時を示す時計を見つけて「秋の夜長〜」とつぶやいた。
うちは壁が分厚いので、深夜に会話していても隣人から騒音を訴えられることはない。だけど、ルネはマンション暮らしをこの部屋で初めて体験しているので、いまだにちょっと気にしている。言わせてもらうなら、もっと気にするべきことあるんじゃない?ってかんじだけど。まあ、言わないけど。
「で、カゲロウがなぜ初詣?」
「カゲロウの幼虫っぽい生物を、初詣帰りの水辺で見たじゃないですか。覚えてない?」
「うーん、ごめん、わすれちゃった」
おれが首を横に振るとルネは肩を落として、芝居がかった落胆をみせた。「もーむり、なんにも書けない」と嘆くわりに、今夜は機嫌が良さそうだ。
「あーあ、スイくんはすぐに忘れる」
「ルネに言われたくないけどなー」
「それはね、本当にそうだけど」
素直に同意したルネに笑っていると、ご機嫌な彼女は饒舌に語り出した。
「もし、初詣に向かう途中でカゲロウの幼虫を見つけていたら、成虫になって少しでも長生きできますようにってお願したのになあ」
「どうせお願いできねえだろ、拍手と礼だけで頭がいっぱいいっぱいなんだから」
「うん、あのね、カゲロウって名前が好きなんです。空気がゆらゆらして見える陽炎に、ちなんでるんですよ。不確かで儚いとか、飛んでる姿がゆらゆらすぎるとか、そういうの」
「ていうか真冬の水で年越ししたカゲロウ、なんかすげー」
お互いに言いたいことを言っているだけの、会話によく似たコミュニケーションだ。会話ではないかもしれない。でも、こういう話ができる関係って、わりと近くにある理想じゃない?おれは最高だと思っているのだけど、どう?ちがう?
最初が暗かったってわけじゃないけど、年月を重ねるごとに彼女はよく喋るし笑うようになった気がする。単なる人見知りってだけじゃなくて、今思えば思春期の真ん中にいたのだろう。彼女はちょうどハイティーンの頃を、シニエルとともに成長していた。
「ルネ、夜更かしできるようになったね」
「スイくんと生活しているうちに、夜型人間に改造されてしまいました」
「いいね、マッドサイエンティストみたいじゃん」
「マッドな不眠症ってだけなのでは?」
たぶん、おれも大人になったのだろうなーって思う。たとえば、そこらへんにあるハーモニカをすぐに吹き出すことはしなくなった。とくに夜は。それはハーモニカに飽きたとかじゃなくて、単純にうるさいからだ。もっと若いときは騒音の感覚が今よりもバグっていたので、誘惑に負けてすぐ楽器に手を出していた。おれは幼児と笑いのツボが近いので、爆破映像とか見てげらげら笑うし、いきなり鳴り出した大きい音がだいすきだ。理屈とかじゃない。おもしろすぎる。
でも、夜中に大きい音を聞くことに慣れてしまうと、うまく眠りにくくなるらしい。最近になって知った。あぶない、このままショートスリーパーを極めていったら本物のマッドな不眠症になるところだった。失敗から学ぶとはこのことだな。
「大人になったから、夜に強くなったのかも」
「そうだねえ、出会った頃の三日月はこーんなちっちゃかったのに」
「それ、大きめのハムスターより小さくないですか」
空白を埋めるために、上澄みをなぞるような会話をした。深層にうっすら漂う緊張感にふたりとも気づかないふりをして、23時を過ごしている。おれたちが気にしている時計の長い針は、9のあたりをさしていた。
「投稿予約の確認をしたいから、あっちの部屋いってもいい?」
明日は、1日だ。そしてこれから0時になる。
頷き合ったおれたちは、作業部屋に移った。書斎とか仕事場とか呼べたらいいのだけど、そうじゃないのよね。どちらかといえば遊び場だし。
作業部屋は、何度引っ越してもほとんど変わらない。部屋に入るとまず、パソコン2台と机と椅子、大きめの本棚、CDラック、いろんな楽器が目に入るだろう。ここらへんの物たちは、増えていく一方だ。
壁には、ルネとふたりで行った美術館のポストカードが並んだりしている。彼女はいつも自分で選び、お小遣いから俺の部屋に飾るお土産を購入してくれるのだ。
色褪せてきた『個人的価値』は、むかしルネがお土産でくれたものだ。男子高校生だったおれは、「これ、ソーダさんに似合うと思って」と照れながらマグリットのポスターを渡してきたハイセンスに感動した。ていうか、高度なボケか?と勘ぐった。ルネはいつも、おれの想像をひょいと軽々飛び越えていく。でも、お土産を貰ったのはふつうにめちゃくちゃ嬉しかったな。おれのいないところでおれの存在を思い出してくれているってことでしょ。そうだよね?うん、そうだよ。破れるまで飾り続けるし、絶対に破れないよう注意する。
そして、その隣にはCDの購入時に付属でもらった美少女が描かれた数年前のカレンダーが、一流芸術品たちの隙間で肩身狭そうに設置されている。胸を張れ、おまえは刑務所のリタ・ヘイワースだよ。
「投稿の予約できてますか」
「できてーえ、ます!」
「じゃあ、あとは12時を待つだけですね」
アカウント主専用の、シニエルの非公開画面を確認する。しっかりセットされていたのは、4年ぶりにふたりで作った新曲だ。
とくべつな記念日でもなんでもない、ただの今日。そろそろまたやってみるか、というふたりの気分がぴったり重なっただけの日だ。
久しぶりに書いてくれた三日月の詩は、相変わらず最高だった。最高は、天井を知らない。最高の上にも最高が現れる。いつもいつもおれの最高を上回ってくる天才は、不安そうに時計を見つめていた。
壁に掛けられたそれは、気温とか湿度とか様々な情報が表示されるデジタル時計だ。G-SHOCKの大きい版みたいなやつ。この部屋は、情報が程よく散らかっている。そんなに散らかってはいないけど、おれの家のこの部屋以外と比べると圧倒的に視界が賑やかだ。
そういえば、数年前まで、女性に部屋を片付けてもらっていた。べつに、こちらが頼んでいたわけじゃないと思う。部屋を片付けてくれる人は、苑田彗を欲しがって、執着してくれる人だった。ソーダじゃなくて、ただの苑田彗にべったりとした粘着質な愛情を抱いている。そのことに、おれは快感とよく似た安心を覚えていた。だれかに求められる感覚が欲しくて、それを満たしてくれるギブとテイクで肌を重ねていた。
実際、そんなことで承認欲求が満たされたのかどうか分からない。でも、まあ、ビジネスパートナーの未成年に淫猥行為を働かずに済んだのは、このおかげもあったと思う。あとは、おれのスーパー理性のおかげである。
無事でよかったなー、三日月。
その意味をルネは分かっているのかいないのか、女性の影を見つけたルネから不必要に干渉されたことは一度もない。ソーダさんまわりのプライベート、という括りで無関心に処理されていたのを知っている。嫉妬することもなく、というか全く気にした様子を見せないので、正直にいうと落ち込んだ日もある。青春は苦かった。
逆に、もし当時のおれが三日月の彼氏なんて見つけていたら、そいつのSNSをあらゆる手段で監視して、なんらかの因縁をつけて炎上させていたと思う。インターネットのおれは強いぞ。オタクなので。
でも、そのSNSのアカウントに三日月の写真とか出てきたら、その時点で自害を決めてしまった可能性がある。おれは、指の一本どころか髪の毛先が写り込んだ程度の匂わせでも、深月流音の気配を嗅ぎつけることができるからね。わるいけど、できちゃうんですよね。
なんか、ほんと、無事でよかったなー、三日月。
まさか変態と同居しているとは思ってもみないらしく、ルネは愛用しているYogiboの上で暢気にスマホを触っていた。三日月がノーガード戦法でも、ソーダが完全防御の姿勢でも、時間は刻々と過ぎていく。そわそわしながら、つい癖で、パソコンが置かれた机を弾いてしまう。鍵盤も音も無いけれど、指を動かしておくと落ち着くのだ。
「批判ばっかりだったらどうしようね」
「曲に関する批判なら受け止めるべきこともあるけど、シニエルの活動に関する批判なら知らないふりをしましょう」
「三日月は冷静だねえ」
「ハートはどきどきのばくばくですが」
「三日月はかわいいねえ」
立ち上がったルネが1台のパソコンを覗き込もうと、ゲーミングチェアに座っている俺のそばに寄ってきた。思えば、こうしてシニエルの投稿をふたりで待つのは、4年前の前回と合わせてたったの2度目だ。
「だれも聴いてくれなかったらどうします?」
「どうもしない。おれたちだけのために、おれたちが勝手に作ったってことにする」
「たしかに。シニエルは、そうあるべきでしたね」
「もう、シニエルはふたりのものだから」
曲は、作るだけ作って投稿しなくてもよかった。シニエルとはまた別に、新しい名前をつけて新しいアカウントで投稿してもよかった。正直、リスクのほうが大きい気がする。期待されているとしたら、がっかりされるリスクがある。勝手に4年間も活動を休止していたことについて、批判されるリスクもある。思い出バイアスがぶっ壊れるリスクも、飽きてしまってファンの数字が減るリスクもある。いっぱい、ある。
でもさ、いるのでしょう?シニエルの新曲が聴きたくてたまらない人、ずっと待ってくれている人が、1人ぐらいはいてくれるでしょう?
シニエルは、ふたりで作りあげてきた大切な居場所だ。そして、青春の保存場所だった。シニエルを支えてくれた、あなたに告ぐ。まどろっこしい言い訳をするのも、おれらの口から謝罪するのも、あの時この時を説明するのも、ぜんぶ不要だ。そんなの下品で、退屈で、安っぽい。よけいな言葉で、ふたりが最強だった青春の価値を下げたくない。
だからね、これは感謝の意だ。青かったシニエルを応援してくれたあなたを、おれらのほうから応援する詩を書いたから。しんどくなったとき、静かにそばにいてくれる音を作ったから。ひとりの夜を抱きしめてくれる曲を歌ったから。どうか、あなたに聴いてほしい。
こんなの、ぜんぜんシニエルらしくない。でも、これが、いまのシニエルだ。4年の歳月が、三日月とソーダを大人にした。
あたらしいシニエルは、もう、誰ひとりも殺さない。研ぎ澄ましたナイフはすっかり錆びて、何も切れなく終わったからもう捨てた。大人になったおれらは花束だけを抱えている。
「1分前ですね、緊張します」
もう、画面の先では誰も待っていない可能性だってじゅうぶんにある。むしろ、そっちの可能性のほうが高かったりする。
でも、ふたりで1日0時を待つ、この瞬間。
おれらは、確実に、4年ぶりのシニエルだった。
もう二度とシニエルでの新曲なんて、書くつもりはなかった。そんなこと、したくなかった。将来のわたしに「音楽はしないで、ソーダさんと音楽を作ることを仕事にしないで」と何度も釘を刺した。
一度味わった成功体験は、なかなかわたしを解放してくれない。軽く漁れば、三日月を求める声を見つけることができる。インターネットは、優しくて甘くて危ない世界だ。あのとき、まっすぐ受け取れなかった称賛の言葉たちが、すんなり喉を通る。過去のわたしが承認されているのを、純粋な嬉しさと、もどかしい嫉妬で見つめていた。
今からシニエルをやり直せば、もっと上までいけるのでは?みんなもすごく喜ぶのでは?しばらくはそんな未練を抱えていて、音楽を嫌いになった。
さらに経つと、シニエルのない生活が安定してきて、わたしも穏やかになった。たまに、すきな音楽も聴く。ほとんどはスイくんが選んで勧めてきたものだ。
何も書かなくていいのは、気持ちが良かった。物を書いていた時間が一日のほとんどを占めていたので、そのぶんのんびり有意義に使える。素直に読めていなかった本もたくさん読んで、読書は楽しいなあと思った。書くことに比べて、なんの努力も要らない。読むだけなら、癒しの趣味にもなりうるのだ。でも、たとえば、森見登美彦著の『恋文の技術』が何度読んでもあまりに素晴らしいからって、その感想を書こうとなるとまた違う。書くのは、疲れる。
あと、そうやって書いたものをせっかくだから誰かしらに見てほしくなってきて、そのまま勢いでブログなんかを開設しちゃったらもうおしまい。他人が与えてくれる数字で一喜一憂することになり、趣味ってなんだっけ?ていうか私って何者だっけ?症候群を患うことになる。
こういうことを考えるのは、三日月として、また、シニエルとして多くの人に求められた快感が染み付いちゃったことの後遺症だと思う。けっきょくわたしには、どろどろの未練がまとわりついていた。
三日月にあてていた時間が無くなると、三日月というハンドルネームもわたしのプロフィール欄から薄れていく。それは、肩の荷が降りたというか、体内の臓器がひとつ失われたかのような感覚だった。誰にも見えてないけど確実に身体が軽くなっていて、だけど、圧倒的に何かが足りないように感じてしまう。
何もしてもしなくても、やっぱりどこか満たされないな。シニエルを手放したらもっと幸福になると思ったのに、おかしいな。
当たり前なのだけど、シニエルがしんだって、わたしたちの人生は続いている。わたしたちというのは、苑田彗と深月流音だけじゃなくて、シニエルに触れたことのある全員だ。それぞれがシニエルのことをたまに思い出したり忘れたりしていきながら、並行してそれぞれの人生を進めていく。
ありきたりな表現だけど、ひとりの人生をひとつの物語とするならば、誰かがある時期に毎日の通学時に聴いてくれていたシニエルだって、その物語には登場しなかったりする。シニエルに限らず、そういうものだ。
だから、わたしも進んでいた。嫌でも、時間は勝手に進むのだ。立ち止まっているには進む以上の労力が必要だから、立ち止まっているように見えるときも実は進んでいたりする。方向が、前か後ろかはわからないけど。
失った恋を埋めるのは新しい男だし、失った臓器を埋めるのは新しい臓器である。その教えにしたがって、寝木つみというペンネームを手に入れた。こんどはインターネットから離れ、現実の近くで居場所を作った。本名にも近い。
寝木つみは、シニエルみたいにタイムラインを埋めつくすことはなかったけど、まとまったおカネになる。あと、出版するためにはいろんな規則があって、ブログみたいになんでも書いていいわけじゃない。これは明らかに趣味じゃないので、一般企業に就職できるような性質を持ち合わせていなかったわたしは、そのまま小説家を名乗ることにした。
文筆業はコストパフォーマンスが良くない気がする。おカネにならない時間が多すぎるのだ。こんなので一生食べていこうとするのは正気の沙汰じゃないと思う。大人になると、ちょっとだけお金のことがわかってきた。お金は遣うと無くなるし、いっきに増えるとゆっくり減っていく。
だけどこれはあくまで収入がある現在の話であって、いつか無収入になったとして、どうなるのかは分からない。
そんな一寸先は闇状態のわたしに、恋人を名乗る男が言った。
「みんなカネのことを気にして、退屈な人生を送ってる。おれも、そう。なぜなら凡人だから」
「わたしは、ちがうんですか?」
「おまえは、凡人じゃないから大丈夫。景気よくいっぱいのパンを買える人生であってくれ」
「パン買いすぎて、わたしが破産しちゃったらどうするんですか?」
「おれが養う」
「それ、スイくんにメリットあります?」
「すげーあるから問題ない」
わたしは、彼に説得されるとすぐに丸め込まれてしまうので「わかりました」と何も分からないまま頷いた。シニエルを結成した14歳から、ちっとも成長していない。
こんなふうに、寝木つみと深月流音のことで日常という箱がぎゅうぎゅう詰めになっていくと、ちょっと息抜きが欲しくなる。ここまでは自然な流れだ。
だから、ふと、思い立った。4年ぶりに詩でも書くか。わたしにできることって、何かを書くことくらいだし。すると、ここから少し不自然になってくる。確実に気が狂ったわたしは、スイくんに声をかけた。
「ソーダさん、久しぶりにシニエルやりません?」
シニエルの主成分は、過ちだ。わたしは何度間違えてもすぐに忘れるので学ばない。いまなら、今のわたしなら、シニエルと正しく付き合えると過信してしまうのだ。
「おれも、ちょうどそういう気分だった」
こうしてわたしたちは、あのときもう戻せないくらい粉々に砕いたはずのシニエルの破片を拾い集めて、もういちど、以前とは少し異なる形に作り直した。
スイくんの作業部屋に掛けられた時計は、無駄な情報量が多くて時間が見にくい。この部屋には、無意味がありすぎる。それから、無意味に息を止めてパソコンの画面を見つめている。投稿予約されているので、見つめていることだって無意味だ。
1日と、午前0時を迎えた。
無事に、シニエルが新曲を公開した。
4年前のように、目にも止まらぬ速さで数字が回転していくことはない。だけど少しずつ速度を増していき、goodやbadの数字が大きくなり、コメント欄が埋め尽くされていく。
それを、ただ、ふたりとも黙って眺めていた。相手がどう受け取ったって、構わない。画面の向こうの誰ひとりとして、正しく受け取ってもらうことができなくたって、それでもいい。これは、強がりじゃない。大人になって身につけた、即席の自己防衛でもない。わたしたちはもう、シニエルとの距離感を見誤ったりしないのだ。
誰がなんと言ったって、これが最高だと信じて作ったのだから、これが最高で間違いない。いまのわたしたちにとっての最高だ。称賛が8割のコメント欄で、2割のヘイトが点滅して目を引いた。ちょっとだけ傷付いたけど、その傷さえもうれしかった。
三日月への強い〝興味〟がここにある。まだ、此処には在ったのだ。誰かに認識してもらわなければ、存在していないのと同義である。言葉だって、音楽だって、そう。1人でもいいし、気に入ってもらえなくてもいい。ただ、今もそこにわたしがいることを認識してくれる誰かがいることを感じたくて、わたしは三日月ブログやシニエルを再び開いたのかもしれない。
新曲に関する感想とか、久々の更新をありがたがってくれるとか、流行りの言い回しのコメントとか、いろんなことが書き込まれていく。インターネット向こう側で確かに生きている誰かが、シニエルのために使ってくれた言葉と時間がそこにはあった。
シニエルは、しょせん箱の中。蓋を開けたって、飛び出してこない。そもそも、わたしが三日月という名を語っていることさえ、隣でお得意のエゴサーチをしている彼以外には知られていないのだ。
この部屋から出たらシニエルなんかと無縁になれる。この部屋だけが、シニエルの真実だった。閉じ込めたつもりでいたけれど、最初から、シニエルはこの狭い世界で完結していた。わたしが無理に引っ張り出そうとしたのがいけなかった。
ごめんね、シニエル。それと、どうもありがとうね。
わたしは、もう間違えない。シニエルに、かりそめの人気に、刹那的な称賛に、薄っぺらな批判に、嘘つきな善意に、自己防衛の悪に、惑わされたりしない。
「ねえねえ、三日月」
「どうしたんですか、ソーダさん」
ルネとスイの関係になったわたしたちが、久々の名前で呼び合った。椅子に座っているスイくんは、こちらを上目遣いに射抜いてくる。淡い色の瞳がブルーライトを浴びて煌めいた。
「これからもさ、こうして、たまには曲を出したいな」
彼らしくない、控えめな言葉が選択されている。柔らかくて温かくて、やさしい絶望が透けているソーダの声。幾度となくわたしをそそのかしてきた、ずるい声だ。
「おれ、三日月の書く詩が好きだからさ、それにたぶん、おれ以外にもそういう人っているからさ、」
もう音楽なんて嫌いになったのに、離れてみたらやっぱりさみしくなっちゃって。そういう、わたしのぐらぐらした矛盾をそっと突いてくる。
「たまにでいいし、無理しなくていいし、次に曲を出すときにはお年寄りになっていてもいいと思う」
「はい」
「それでもふたりともがさ、作りたいなあって思ったときには作ろうよ。二度と作らない!って決めないで、おれ、ずっと、次のいつかを期待していたいよ」
わたしは「そうですね」と、短く答えた。
苑田彗は無意味な口笛を吹く、狼少年だ。火星にスターバックスを建ててくれないし、壊したはずのシニエルを壊してなかったし、愛みたいな戯言を吐く。でもね、わたしは何度だって騙されてあげるのだ。あなたの手品に魅せられてあげるし、あなたの売った夢を高値で買う。嘘の魔法をかけてくれたら、わたしはあなたの手のひらでじょうずにワルツを踊るつもりだ。
「ソーダさん」
「うん?」
「わたしはお供しますよ、どこまでも」
それを聞いたスイくんはわたしの右手首を丁寧な力で引っ張って、自分の胸に抱き寄せた。バランスを崩したわたしは、彼の温度にすぽんと収まる。深く吸い込むと、知りすぎた虚無の匂いがした。だけど、死の匂いはしなかった。
匂いは、色褪せないからありがたい。心に残らないどうでもいいことを、今のわたしは過去や未来のわたしと共有しておきたいと思う。記憶とか思い出とか呼びたくなくて、奥に仕舞うことをせず、その瞬間の熱や湿度を忘れずにいつでも所持しておきたい。
「ねえ、三日月」
「はい」
「どうしてわざと、おれに唆されてくれるの」
久しぶりの名前を呼んでから話し出すという定型文を踏襲して、スイくんがわたしに不思議を訊ねた。抱きしめられているとソーダの特別な声がすぐ近くにあって、贅沢な気持ちになった。
「どうして?分からないんですか?」
「うん、わかんない。ルネの言葉で教えてよ」
「ソーダさんに騙されてあげることだけが、三日月にできる愛と恩のお返しだからですよ」
腕のなかに封じこめられたわたしは、スイくんの透けない瞳を見ずに済む。振り絞った声がさりげない音に聞こえてほしくて、震える指先をきつく握った。
「これがわたしの、最悪な愛です」
いかがでしょう、とふざけて告げると、彼は何も言わず、わたしを抱く腕にむぎゅうと力を込めた。ちょっとくるしいけど、やめてほしくない。こっそりと盗み見た、すぐそばの耳が真っ赤に染まっていた。でも、それを茶化したら羞恥心がオーバーフローして、スイくんが爆発しちゃうかもしれないから我慢した。
ここは、地獄だ。
次々と敵は現れるし、“たたかう”を選んでも“にげる”を選んでも後悔する。
流行りの音楽はつまんないのに売れているし、飽きたらぽいぽい捨てられる。死ぬ気で作った曲は、しょせんBGMにしかなりえない。だから音楽なんて絶滅しちゃえばいいのに、渋谷を歩くとなんとなく聴こえてくる流行りの曲がどうしようもなく素晴らしかったりして、気付いたらそのままタワーレコードに直行していたりする。
ああ、ほんとに地獄だな。あなたがいるという地獄。
スイくんが、近くにあったハーモニカに手を伸ばした。ふひゅう、真夜中に似合わない笛の音が本当にうるさい。わたしがゆるしてあげるのは、彼が無意味に楽器を鳴らす理由を照れ隠しだと知っているからだ。
「さいごまで離してあげるつもりはないし、いっしょにしんでもらうから」
わたしの地獄の象徴である悪童が、愛みたいなことをひそやかに告ぐ。聴覚へとダイレクトに流れ込んできたそれはしゅわしゅわした手触りで、炭酸のように小さく弾けた。この体勢ではスイくんの顔が見えないけれど、どうせ、微笑みとよく似た無表情を貼り付けていることだろう。
このひとは、光なんかじゃない。ゆるりと垂らされた、蜘蛛の糸ですらない。ただ、わたしといっしょに地獄を生きてくれる人だ。いっしょに死ぬということは、そのときまで、いっしょに生きてくれるということと同義である。
眼頭があつくなって、視界がきらきらしてくる。瞬きしたらこぼれ落ちてしまうので、まぶたに力を込めて我慢した。悲しくないし苦しくもない。痛いところもないし、あくびもしてない。それなのに、どうして、なみだが出ちゃいそうになるのだろう。
まぶたの周辺がじんわりと温かい。頬をつたう、大粒のしずく。ばれないようにそっと拭って、意味のない小さな見栄を張る。
「なんか、わたし泣きそうです」
「おれも、泣きそうになってる」
「なんで?」
「うん、ほんとになんで?」
スイくんの顔が見えない。すなわち、わたしの顔も相手に見えていないということだ。とはいってもふたりとも、お互いの表情くらいとっくに想像できていた。笑いながら、ほんのちょっとだけ泣いている。スイくんは、わたしが書いた詩を読んだときの顔をしているに違いない。
「うそ、ほんとはちょっと泣きました」
「うん、おれもちょっと泣いちゃった」
青くて痛くて苦かったあの頃に、もう戻れないし戻りたいとも思わない。永遠に続くと思われた青春は、いきなり弾けて消えてしまった。
何もかもが嘘っぽいし、あれもこれも建前ばかりだ。胡散臭い青空におそるおそる触れてみたら、なんと雨が降っていた。だからわたしは、作業部屋の苑田彗だけを真実だと思い込む。震える右手で触れてみたら生命のやさしい温度があったし、その他には何もなかった。
疑わないことは、素敵な信頼によるものじゃない。絶対的な絆など此処にはなくて、ただ、救いのない愛だけが鈍く煌めいた。
わたしがあなたを信じているのは、裏切られても構わないほど愛しているという意味だ。
ティーンエイジの三日月に
いいこと教えてあげようか
シニエルは、刹那的に人気者になります
眩しく光ったらすぐに消えるよ
でも、わたしもまだ知らないことだけど
シニエルは点滅するような気がしてる
それとね、ソーダさんという人がいるでしょう
彼とは一生の付き合いになるだろうから覚悟して
その人は、ずっと天才で在り続けるから
どこまでもついていけばいいと思う
あのね、意外とだいじょうぶ
わたしはちゃんとやってるよ
「いまだから、言ってもいい?」
「どうぞ」
「ブログを始めてくれて、ありがとね」
「はい」
「おかげで、三日月と出逢えた」
「それを言うなら、こちらこそ、」
「うん?」
「見つけてくれてありがとね、です」
── 優美な死骸 ──
了
