秀吉は実は残酷? 性格の二面性をどう読み解くか
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の影響で最近、主人公の小一郎(豊臣秀長)だけでなく、秀吉に対する関心も高まっているようです。
先日、和樂web編集部内で「織田信長や豊臣秀吉の性格は、実際、どうだったのか」という話題になり、私は「どちらも怖い」と申し上げました。半分おふざけ、半分実感を込めた感想です。もちろん信長や秀吉も人間ですから、「怖い」だけのはずはなく、信長は家臣に厳しい要求をする怖い主君の反面、功績を上げた者は家柄に関係なく重職に取り立てました。女性や弱者に、やさしい気づかいを見せることもあります。一方の秀吉は、「怖い」というイメージより、むしろにこにこしながら人を味方につける「人たらし」のイメージの方が一般的でしょう。ただ、にこにこ顔の裏側に、冷徹な計算もあったはずで、私はむしろその裏表に、人間的な怖さを感じてしまいます。身分の低い秀吉が出世していくには、いたし方ない部分もあったとは思いますが……。

それは性格に起因するものなのか?
ところで、ネット上には「実は秀吉は残酷だった」という内容の記事がいくつもあります。
残酷な事例としてよく引き合いに出されるのが、上月城(兵庫県佐用郡佐用町)攻めにおいて、降伏した敵の城兵をことごとく磔にした話、また三木城(兵庫県三木市)や鳥取城(鳥取県鳥取市)の兵糧攻めでしょう。両城の城兵は飢餓状態に陥り、城内は凄惨な地獄図絵となりました。いわゆる「三木の干殺し、鳥取の渇え殺し」です。さらには甥の秀次の妻子ら数十人を、京都の三条河原でことごとく処刑した事件などもあります。確かに一つひとつの事例は残酷であり、陽気な人たらしの秀吉のイメージとの落差は、かなりのものです。秀吉の性格の二面性を問いたくなるのも、当然のように思えるかもしれません。しかし一方で、秀次事件はともかく、戦場における秀吉の作戦や判断から、「残酷」な性格であると決めつけることには、疑問も感じます。「残酷」な作戦や判断が、秀吉の性格に起因しているとは思えない部分もあるからです。
また逆に、秀吉が陽気な人たらし、というイメージはどこまでが史実なのでしょうか。現代人が秀吉に抱いているイメージは、よく考えてみれば、小説や映画、ドラマなどで描かれたそれの部分が多いようにも感じます。まして秀吉は自分の生涯を、フィクションをまじえて面白おかしく語って記録させたともいわれますから、意図的に誇張された部分があることも考慮すべきでしょう。
それらを踏まえて考察したのが、和樂webの記事「陽気な人たらしか、冷酷で残虐な武将か…サイコパスも疑われる豊臣秀吉の性格を読み解く」です。ぜひご一読ください。
(なお今年の大河ドラマに関する記事は、私のペンネームが「チワさぶろう」になっております笑)
好き好んで殺生していたのか?
さて、記事はいかがでしたでしょうか。
当時と現代では、命に対する価値の置き方が異なることを記事中で触れました。生死というものに対する考え方や価値観が、現代とは異なります。その辺を度外視し、現代の価値観で当時についてあれこれ言っても、正しい評価にはならないと私は考えます。
また秀吉の場合、最優先すべきは「信長の意思」であり、速やかな中国平定でした。もちろんそのために何をやってもよいというわけではありませんが、裏切り者を許さないことを敵に示した磔、容赦のない兵糧攻めは、以後の戦いで無駄に人命と時間を失うことを防ぐ意味もあったはずです。
そしてまた、戦国武将たちが、好き好んで殺生をしていたわけではないことも、押さえておくべきでしょう。たとえば鳥取城攻めの際、城将の吉川経家が城兵を救うことを条件に自刃した際、秀吉は「武士の鑑」と称えたといいます。勝敗は時の運であり、相手には相手の事情、守るべきものがあることに思いを至らせる、「相身互い」という一種の共感がありました。以前、テレビのある番組で、高名なコメンテーターが「戦国武将なんて、人殺しの集まりだ」と大真面目に発言していて驚きましたが、あまりに無知、無理解といわざるを得ません。

ただ、秀次事件に見るような晩年の秀吉の変貌、暴走ぶりは、また分けて考える必要があるでしょう。自分の血筋を残したいという妄執、天下人としての体面、もしかしたら精神的な疾患もあったのかもしれません。二人三脚で歩んできた弟・秀長が、先に世を去ってしまったことも大きかったでしょう。さまざまな解釈が可能ですが、晩年の秀吉のみを見て性格を云々するのは、正しい評価ではないのでは、という気がします。
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