宍粟の森のダンテ【後編】|影を連れて、光へ 第三章

⚠️ こちらは第三章の【後編】になります。
先に【前編】を読まれることを強くお勧めします。

「——でもさ。重力というのも、あながち間違いじゃないよね」

誰も、答えなかった。

「人は、油断するとすぐ、暗い方へ、重い方へと引っ張られてしまう。
私も何度か落ちたよ」

アスカは指を離した。

ミツマタの花は、ゆっくりと揺れを止めた。

「ヘルムート・ニュートンはね」

アスカが歩き出した。

「石田えりさんに、こんな言葉を残しているんだよ。これから、どんなに屈辱的なことがあっても、どんなに惨めな目に遭っても、心は毅然としていなさい」

ナチスによって故郷さえ奪われたユダヤ人写真家の言葉は、重かった。

侑華の足が、止まった。

ミツマタの黄色い光が、にじむ。

淡い黄の花々が、揺れているように見えた。

いや、揺れていない。

揺れていたのは、侑華の視界だった。

線香の煙。

父の、最後。

守るべきだったものたちの背中が、黄色い光の奥に、滲んで消えていく。

もしかすると、それは好意の延長だったのかもしれない。

一方的で身勝手な行為。

私には、決して受け入れられない出来事だった。

その後も続いた、執拗な誘い。

応じない私を待っていたのは、理不尽な報復だった。

それでも、生活のために歩き続けてきた。

勇気を出して、声を上げた。

しかし、それさえも握りつぶされた。

ズタボロになりながら、生きてきた。

指先が、震えていた。

いや、私もまた……別の瞬間には、他人を深く傷つけて生きてきた。

生きることが命の旅だと言うなら、私の人生は、ダンテの『神曲』のように、ひたすらに地獄を巡る旅だったのかもしれない。

淡い黄色の球体を見つめるうちに、喉の奥が苦くなった。

「侑華さん」

高倉の声が、聞こえた。

侑華は、ゆっくりと瞬きをした。

光は、やさしくなかった。

けれど、確かに射していた。

侑華が振り返った。

「ねえ、地獄を旅した後、」

声が、わずかに揺れた。

「人は、どうなるの?」

高倉は、すぐには答えられなかった。

カメラを持つ手が、わずかに汗ばむ。

ファインダーから目を離し、目の前に佇む侑華を真っ直ぐに見つめる。

「旅人(ダンテ)は、地獄の底を通り抜けた後、地上へ這い上がるんです」

高倉の声も揺れていた。

「そして再び、本物の夜空の下に出たとき、確かこう言うんです。

『こうして私たちは、再び星を仰ぎ見た』と」

沈黙が落ちた。

侑華の瞳から、大きな雫がまっすぐに流れ落ちた。

「そうか——私は、ちゃんと地獄を歩いてきたんだ」

いつの間にか、アスカはバイクの元へ戻っていた。

巨大なカメラを無造作にシートバッグへ収め、ヘルメットを被る。

彼女は黄色い光の向こうで、小さく手を振った。

「さようなら!」

侑華が力いっぱい叫んだ。

「さよなら!」

返ってきたのは心地よいアルトだった。

次の瞬間、セルモーターが回り、三気筒の強烈な吸気音と共に、咆哮のような排気音がミツマタの森の静寂を完全に叩き潰した。

アスカはラフにクラッチを繋ぐと、一瞬で林道の奥へと消え去っていった。

引きちぎられた静寂が、ゆっくりと森へ戻ってくる。

遠ざかる爆音が完全に消え去った頃、侑華は深く息を吐いた。

手元にある小さなランタンを灯す。

ぽっと広がった橙色のあたたかい光が、体温を持たない春の森を、微かに照らし出す。

「もう、星を見上げるのは、怖くない」

侑華は、ミツマタの森の中に一人立っていた。

自らの影も、罪も、過去も。

そのすべてを引き受けたまま。

それでも——背筋は、真っ直ぐに伸びていた。

高倉は再び、ファインダーを覗く。

そこに写っていたのは、暗闇を抜けて光へと向かう旅人の横顔だった。

乾いたシャッター音が、春の森に響いた。


第三章【完】

※作中に登場するヘルムート・ニュートンの言葉は、石田えりさんが写真集『罪―immorale―』(1993年、講談社)の撮影について公に語られたエピソードを参考にしています。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集