宍粟の森のダンテ【前編】|影を連れて、光へ 第三章
そのカメラマンと被写体が交わしたのは、人生そのものを作品にするという約束だった。

「人生の旅の半ば、私は正しい道を踏み外し、暗い森の中にいた」
ダンテ・アリギエーリ『神曲 地獄篇』
春の光は、やさしくない。
宍粟の森に足を踏み入れた瞬間、侑華はそう思った。
どこか体温を持たない光が、木々の間から差し込んでいる。その光の中に、無数の黄色い球体が一面に浮かんでいた。
ミツマタ。枝の先に咲く、小さな花の集まりが幾千と重なり、森全体を淡い黄に染めている。

美しかった。
けれど、どこかこの世のものとは思えない、不気味さが漂っていた。
「不思議な場所……」
侑華が周囲を見回しながら、小さく呟いた。
幻想的な光景なのに、なぜか足が前へ出なかった。

高倉はファインダー越しに森を見ていた。
光が溢れている。それなのに、影が深い。
息を吸い込むたび、甘い花の匂いが肺の奥へと沈んでいく。

彼がなにかを言おうとした時、重低音が、静寂を切り裂いた。
巨大な獣が遠くで喉を鳴らすような、低く厚みのある不気味なうねり。その音圧は空気を震わせ、足元の土にまで伝わってくる。
急勾配の山道を、重力を跳ね除けるように黒い影が這い上がってきた。
それは、一台のバイクだった。
鋭く光る二つのライトが、森の暗がりを裂く。剥き出しのエンジンを抱え、前かがみで突進してくるその姿は、肉食獣のそれだった。
その禍々しい音圧は、三本の尾を持つ怪物の咆哮ではなく、三気筒のマフラーから発せられていた。
その獣にぴったりと張り付いていた人影が、砂利を蹴るようにしてバイクを止める。
全身を黒いレザージャケットで包んだ、細身だが芯の強さを感じるシルエット。
その人が無駄のない動きでエンジンを止めると、森に再び冷ややかな静寂が戻った。
ヘルメットが外され、汗で少し濡れた長い黒髪がこぼれ落ちる。
女性だった。
彼女はシートバッグから、手慣れた動作で一台の重厚なカメラを取り出し、肩に掛けた。
「GFXか」
高倉がぼそりとつぶやいた。
その巨大なカメラも大型バイクも、決してアンバランスではなかった。細身だがあきらかに鍛えられた彼女の身体には、それを制御するだけの確かな説得力があった。
彼女は二人の姿を認めると、軽く右手で合図した。
「はじめまして」
低く、よく通るアルトの声。
侑華が挨拶を返す。
「こんにちは。ここにはよく撮影に来られるんですか?私たちは初めてで」
「ここ数年は毎年来てるよ」
辺りを見回して彼女は続けた。
「ピークは過ぎたみたいだけど、これならまだ楽しめる。光の角度もいい。来た甲斐があったよ」
高倉がカメラを下ろして会釈する。
「遠くから来られたんですか?」
「神戸から。バイクで一時間半。そちらはポートレートですか?」
「ええ」
「そうか。それはいい」
そのまま簡単に自己紹介が始まった。
「アスカ」と彼女は名乗った。
三人は、しばらく黙って歩いた。
先を行くアスカは、立ち止まっては構え、また歩く。その動きに迷いがなかった。
洗練された所作の侑華と、風そのもののような自由を纏うアスカ。

「ずっと、写真を撮っているんですか」
侑華はその背中を見ながら、言った。
「そうだね。写真は目的ではなかったんだけど、若い頃はずっと旅をしていてね。バックパック一つでアジア諸国をずいぶんほっつき歩いた。ある時、旅の景色を写真に収めたくて始めたんだ」
「一人で?危なくなかった?」
「当時は男の子にしか見えない格好をしてたから、わりと身軽に動けた。こんなに髪を伸ばしたのは、実は初めてなんだ」
少し間を置いて、笑う。
「今もよく旅をしてるの?」
「いや、最近は仕事が忙しくてね。実は遠出するのも久しぶりなんだ。
私ね、放浪の旅を続けた末に、人が生きること自体が命の旅なんだって思うようになったの。
そういう意味では、今も私は旅人だよ」
「魂の旅か」と高倉は静かに呟いた。
侑華は、アスカの横顔を見た。
アスカの視線もまた、侑華を捉えていた。
無言のまま、二人の影が、ミツマタの森に長く伸びていく。
「それにしても、この森」
アスカがふと、空を見上げた。
「一人でここを彷徨っているとね、気づけば『神曲』の地獄の門の前に立っていそうで、怖くなるよ」
高倉が反応した。
「ヘルムート・ニュートンが、その『神曲』をテーマに撮った写真集があるのを知っていますか?」
「もしかして石田えりさんを撮影した『罪』のことかい?確かに地獄には違いないが、あれを『神曲』の世界と呼ぶのは、私は少し躊躇うよ」
高倉とアスカの視線が、一瞬重なった。
侑華が、小首を傾げる。
「ニュートンって……あの、林檎の?」

アスカが目を細める。
「林檎? ああ、そうか。林檎を持つ裸婦か」
アスカの言葉に、キョトンとした顔を向ける侑華。
アスカが『林檎を持つ裸婦』と呼んだその写真に、高倉は心当たりがあった。
それは、ヘルムート・ニュートンの作品の中でも、どこか異質な存在だった。
ファッションフォトグラファーとして頂点を極めた彼が、知恵の実を手にしたイヴと、その原罪をモチーフに、写真でありながら絵画の領域へ足を踏み入れた一枚だった。
しかし、高倉は、わずかな違和感を覚えていた。
侑華のことなら、アスカよりも少しだけ分かっているつもりだった。
「侑華さん、どのニュートンですか?」
高倉が尋ねた。
「え? もちろん万有引力の、ニュートンだけど」
一瞬の沈黙。
それから三人は、同時に笑い出した。
「そっちのニュートンか!」
「科学の方でしたか!」
赤くなって戸惑う侑華の姿に、それまで張り詰めていた森の空気が、ふっと、うららかなものに変わった。

笑い声が収まった後、しばらく沈黙が続いた。
アスカはミツマタの球体の一つに、長方形のレンズフードをかすらせるようにして、指先でそっと押した。
小さく揺れる。
「——でもさ。重力というのも、あながち間違いじゃないよね」
【後編】へ続く
