軍馬と東国ー政治史と馬についての整理ノート
卑弥呼と魏志倭人伝
『三国志』魏書東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)の中に下の記述がある。
「其地無牛馬虎豹羊鵲」
(その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない)
魏の使者が日本を訪れた際、当時の邪馬台国連合の国々(卑弥呼の時代。崇神朝下のヤマト政権と推定)には「馬も牛も存在しなかった」と中国側には認識されていた。
縄文時代や弥生時代の遺跡(貝塚など)から馬の骨が見つかることが稀にあるが、そのほとんどが古墳時代以降の混入であることが判明している。
日本列島に馬が組織的に導入され、家畜として利用されるようになるのは、卑弥呼の時代から150〜200年ほど後の4世紀後半〜5世紀以降、朝鮮半島からの渡来人が馬の飼育技術を伝えた古墳時代中期以降とされる。
応神王朝(河内王朝)
卑弥呼の時代には存在しなかった馬が、4世紀末〜5世紀(古墳時代中期)にかけて日本列島へ導入されるプロセスは、当時の東アジアの激しい戦乱と深く結びついている。
4世紀の東アジアは、五胡十六国時代と呼ばれる大動乱期だった。この時期、中国北部で発達した重装騎兵(人と馬が鎧をまとう強力な騎兵)の戦術が朝鮮半島へと伝わる。4世紀末、鉄資源の利権を目的として朝鮮半島南部の百済や加羅諸国と同盟を結んだ倭国は、半島へ進出した。400年頃、北朝鮮の地で高句麗の好太王(広開土王)が率いる騎馬軍団と激突し、倭国軍は惨敗を喫する(好太王碑文)。歩兵中心だったヤマト政権は、騎馬戦術の圧倒的な強さに衝撃を受ける。高句麗に対抗するため、また最先端の軍事力を手に入れるために、馬と飼育技術者(特に百済や加羅からの渡来人)をセットで日本列島へ輸入するという国家規模のプロジェクトをスタートさせた。ヤマト政権はこれらの技術者集団を飼部(うまかいべ 馬飼部とも)という職能集団に組織した。
馬や渡来人は、水草と起伏に恵まれた河内国の生駒山麓や河内湖周辺に移住し、日本最初の馬飼い集団である「河内馬飼(かわちのうまかい)」を形成した。
大阪府四條畷市の蔀屋北(しとみやきた)遺跡からは、全身がほぼ完全に残った5世紀の馬の骨や、馬を繋ぎ止めた杭、さらに渡来人が使っていた朝鮮半島系の土器(韓式土器)が大量に出土した。日本列島における最初の馬飼育・研究センターと言える。
5世紀に河内で確立された馬の飼育・繁殖技術は、6世紀に入ると、広大で良質な草地が広がる関東(上毛野など)や東山道(信濃・甲斐)へと移植・拡大されていく。
倭王武(雄略天皇)
倭王武(応神曾孫・雄略天皇)が中国(宋)の皇帝に送った上表文(478年)(『宋書』倭国伝)には、先祖代々の凄まじい征服戦争の歴史が綴られている。
「昔より祖禰(そね)、躬(みずか)ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国……」
(我が先祖は、自ら鎧をまとい、山を越え川を渡り、休む間もなく戦ってきた。東の毛人を55国征服し、西の異民族を66国服従させ、海を渡って北(朝鮮半島南部)を95国平定した……)
雄略天皇の時代(5世紀後半)の古墳からは、それ以前の時代とは比較にならないほど、大量かつ豪華な鉄製の武器や馬具(轡、鞍、鐙など)が出土している。この時期を境に、地方(上毛野や信濃など)の有力豪族の古墳からも、きらびやかな金銅装の馬具や、馬の埴輪が大量に見つかるようになる。
壬申の乱ー大海人皇子のクーデターと東国
壬申の乱(672年)は、天智天皇の崩御後に起きた、日本古代史上最大の皇位継承戦争である。天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の息子である大友皇子が国を二分して激突し、わずか約1ヶ月の電撃戦で大海人皇子が逆転勝利を収めた。
近江朝廷での地位を失い、吉野に隠棲していた大海人は、近江朝廷(大友側)が自らの暗殺を企てているとの報を受け、少数の手勢とともに吉野を脱出した。大海人は伊賀・伊勢を経由して美濃国(岐阜県)の私領・湯沐邑(ゆのむら)へと向かい、東国と西国を結ぶ最重要拠点「不破道(ふわのみち)」を即座に封鎖した。後世の関ヶ原の戦いと同じエリアにあたる。不破を抑えたことで、近江朝廷が東国から兵を徴募するルートを遮断、逆に大海人は、美濃や尾張の有力豪族を味方にし、数万規模の強力な軍勢を瞬く間に組織する事に成功した。特に美濃の不破本陣に直結する東山道(現在の甲信地方)からは、強力な軍勢が続々と合流し、主力部隊を形成した。信濃や甲斐の豪族は、馬の育成や騎馬戦術に長けた軍事集団だった。大海人は即位後、自らを命がけで支えた信濃や甲斐の豪族を非常に重用した。信濃の豪族の子弟を数多く天皇の側近(舎人)として出仕させ、中央での地位を保障した。天武天皇は晩年、副都の候補地として信濃国に国司を派遣して調査させている(信濃遷都計画。天武が遷都(副都)計画に伴って作らせた行宮(仮宮)は、「束間(つかま)の行宮」と呼ばれる。日本書紀に「束間の温湯(ゆ)に行幸しようとした」という記述があることから、温泉地である現在の長野県松本市浅間温泉、または同市山辺の美ヶ原温泉(山辺温泉)の事と推定)。実現はしなかったが、天武がいかに信濃を重要視していたかが分かる決定的な証拠である。
金刺舎人氏(かなさしのとねりうじ)は現在の長野県諏訪地域から伊那谷、さらには善光寺平(長野市周辺)にまで強大な一族のネットワークを持っていた信濃最大の豪族である。彼らはヤマト政権と深い繋がりがあり、信濃の良質な馬を管理していた。壬申の乱では、大海人の私領である美濃国の湯沐邑(ゆのむら)(湯沐邑は皇族や后妃などに経済的な基盤として与えられた領地。この名称は、中国皇族の私領制度の換骨奪胎で、必ずしも温泉地ではないとされる。記録に現れるのは天武・持統の湯沐邑のみ。奈良朝の間、湯沐戸(ゆのへ)という皇族専属の徴税権として存続)の管理者・湯沐令(ゆのうながし)である多臣品治(おおのおみほんじ 天武の側近 後に古事記を編纂する太安万侶(おおのやすまろ)の父)からの要請を受け、一族を挙げて信濃の騎兵を組織して参戦した。壬申の乱で東国の騎兵を目の当たりにした天武天皇は、即位後、日本の軍事システムを根本から変える改革を行った。
それまで豪族たちが私有・経営していた信濃や甲斐の良質な馬の生産地(牧)を、朝廷が直接把握し、国家管理する体制(令制の牧)へと移行させ始めた。これにより、有事の際朝廷の命により数千頭もの軍馬を徴発できるシステムを構築した。天皇は「およそ政治の要は軍事である」と宣言し、全官人の騎馬・武装義務化、馬を持たない者の罰則を定めた。
奈良・平安時代
奈良・平安時代の朝廷にとって、馬は国家の軍事・通信を支える最重要の戦略物資であり、高級なステータスシンボルでもあった。律令制のもと、都と地方を結ぶ幹線道路に「駅家(うまや)」が置かれ、「駅鈴(えきれい)」という鈴を鳴らして馬を乗り継ぎ、公文書の伝達や緊急連絡を行なった。また、朝廷は東北地方の蝦夷征討を進めるため、大量の軍馬を必要とした。平安時代中期以降に武士が台頭すると、馬に乗って弓を射る騎馬戦が主流となった。
朝廷は質の良い馬を確保するため、厩牧令(くまきりょう)を定め、全国に国営の牧場「官牧」を作った。都には馬の管理や飼育を行う「左右馬寮(めりょう)」という役所が置かれた。特に良質な馬が育つ信濃(長野県)、甲斐(山梨県)、武蔵(埼玉県・東京都)、上野(群馬県)の4カ国に、天皇直轄の「御牧(みまき・ちょくしばく)」が整備された。毎年8月、全国の御牧から集められた優秀な馬を、天皇が紫宸殿の庭で直々に検める「駒牽」という国家儀式が行われた。平安貴族の間では、2頭の馬の速さを競う「競馬(くらべうま)」が宮廷行事や神事として大人気だった。白馬を見ると邪気が払われるという信仰から、正月に「白馬節会(あおうまのせちえ)」という儀式も行われた。朝廷は、干ばつが続いたときには雨乞いのために「黒毛の馬」を、大雨を止めたいときには「白毛または赤毛の馬」を神に奉納して祈願した。この風習が簡略化されて「木の板に描いた馬(絵馬)」へと変化し、現代に繋がっている。
武田騎馬軍団
武田信玄率いる武田騎馬軍団は、戦国最強の代名詞として知られている。その形成には、甲斐・信濃という土地が持つ古代からの歴史的背景と、信玄による革新的な軍事改革が深く結びついている。
平安時代の延喜式によると、天皇に馬を捧げる「御牧(みまき)」が信濃に16カ所、甲斐に3カ所あった。これらの牧場を管理していた古代の豪族(牧監など)は、次第に武装して武士団へと成長していった。信玄の重要な家臣である真田氏(滋野一族)や望月氏も、もとは信濃の広大な牧場を経営していた一族である。
信玄は信濃を完全に手中に収めたことで、古代からの御牧のネットワークと、馬の育成ノウハウを持つ地元の国人領主(牧の末裔たち)を丸ごと吸収することに成功した。これにより、最盛期には軍全体で数千騎〜最大9,000騎とも言われる圧倒的な数の馬を確保できる基盤が完成した。近年の研究では、武田軍における騎馬の割合は軍全体の約10%程度(他国の大名とほぼ同じ)だったとされている。他国と違ったのは馬の質の高さと乗り手の熟練度であった。信玄は集まった騎馬をただバラバラに戦わせるのではなく、集団として機能するよう戦術を磨いた。現代の映画のように馬だけで一斉に突撃するのではなく、実際には馬から降りて戦う歩兵(槍や弓)と、馬に乗ったまま側面から奇襲・追撃をかける騎馬が緻密に連携するハイブリッドな戦術をとっていた。この連携の熟練度こそが、周囲から最強の騎馬軍団と恐れられた本質であった。
長篠の戦いと近代戦法
長篠の戦い(1575年)は、日本の合戦史における、中世的な個人の武力(騎馬)から近代的な組織の火力(鉄砲)への転換点であり、その本質は現代の近代戦法に通じている。
武田騎馬隊の強みは、馬の機動力を活かして敵の隙を突き、一気に間合いを詰める機動戦であった。これに対し、織田信長は近代戦の基本である陣地戦(野戦築城)で対抗した。
武田の騎馬武者は、移動・索敵・戦闘のすべてを自力でこなす「万能の個」だったが、織田軍は「兵種の専門化と分業」という近代的な組織運用を行った。さらに、大量の弾薬や火薬を堺などの商業都市から組織的に調達する「兵站(ロジスティクス)」を機能させていた。
