「緊急事態条項」は合法的クーデターへの入り口か? 国家という巨大OSのroot権限を、誰が握ろうとしているのか
はじめに――「名前を変えれば通る」という政治の古典的手口
政治の世界には、古くから使われてきた魔法がある。
それは「名前を変える」という技術だ。
「戦争」が「特別軍事作戦」になり、「徴兵」が「召集」になり、「検閲」が「情報管理」になる。そして今、日本では「緊急事態条項」が「国会維持機能条項」という名前でひっそりと議論されている。
名前が変わっても、本質は変わらない。
問われているのはひとつだけだ。
「非常時に、誰が国家の最終決定権を持つのか」
これは制度論の話でもあるし、権力論の話でもある。そして歴史を少し掘り下げると、「あれ、これってどこかで見たパターンじゃないか?」という既視感がじわじわ押し寄せてくる。
今日は、教科書には載っていない角度から、この問題を一緒に考えてみたい。
まず基本から――日本の憲法は「緊急権」を持っていない
少し真面目な話から入ろう。
日本国憲法には、内閣に「非常大権」を与える条文が存在しない。
これは実は世界的に見てもかなり珍しい設計だ。多くの国の憲法には、戦争・大規模災害・パンデミックなどの非常時に行政府が特別な権限を持てる「緊急事態条項」が明記されている。ドイツ基本法しかり、フランス憲法しかり。
なぜ日本にそれがないかといえば、歴史的な反省が大きい。戦前の大日本帝国憲法には天皇大権・戒厳令・緊急勅令といった非常権限が盛り込まれており、それが軍部の暴走を法的に正当化する温床になった、という経緯がある。だから戦後の憲法設計者たちは意図的に「非常権限の空白」を作ったのだ。
ではコロナ禍のような「本当の緊急事態」はどう対応するのかというと、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」のような個別法で対応するしかなかった。実際、2020年の緊急事態宣言はこの法律に基づいていた。
ただしポイントはここだ。
あの緊急事態宣言には、強制力がほぼなかった。
飲食店に「時短営業を要請」はできても、強制的に閉めさせることはできなかった。外出を「お願い」はできても、罰則付きで禁止することはできなかった。なぜなら憲法22条(移動の自由)や29条(財産権)にぶつかるから、法律でそこまでの制限を課すことができなかったのだ。
だから「緊急事態のときに何もできない憲法では困る。改正が必要だ」という議論が出てくる。
理屈としては、まあわかる。
でもここで一度立ち止まって考えてほしい。
「何もできない」ことが、本当に問題だったのか?
コロナは「実験場」だったのか――陰謀論的視点から見ると
少し踏み込んだ話をしよう。
陰謀論として片付けてしまう前に、ひとつ事実を確認してほしい。
コロナ禍の数年間、世界中の政府が「非常事態」を理由に、平時では絶対に認められなかった権力拡大を次々と実行した。
ワクチン接種証明書による行動制限、反政府的な情報の検閲、野党や市民の集会禁止、電子的な国民監視システムの導入……。これらは「感染症対策」という大義名分のもとで、かなりの速度で実装された。
カナダのトルドー政権は、トラック運転手たちの抗議デモを「緊急事態」と認定し、銀行口座を凍結する権限を行使した。法的根拠は「緊急事態法」だった。
オーストラリアでは州によっては「ロックダウン違反」で警官が住民を拘束する映像が流れた。
これらは全部、「民主主義国家」での出来事だ。
もちろん感染症対策に必要な措置だったという見方もある。でも一方で、「緊急事態という枠組みが、権力にとっていかに便利なツールであるか」を世界中が実証した3年間でもあった、と言えないだろうか。
日本でもコロナ対応をめぐって「緊急事態条項がなかったから不十分だった」という主張が改憲推進派から一気に強まった。「コロナが証明した改憲の必要性」という論法だ。
これをナイーブに「なるほど」と受け取るのか、あるいは「ちょっと待て、その論法、巧妙すぎないか」と立ち止まるのか。
判断は読者に委ねるが、歴史はこう言っている。
「緊急事態は、権力を拡大したい側にとって最高のチャンスだ」
ワイマール共和国の教訓――民主主義は民主主義的手続きで死ぬ
ここから先は
応援よろしくお願いします!
