文豪・幸田露伴の若き日
時はまさに1887年(明治20)夏
幸田露伴20歳
5~6枚の着物を売り余市を脱出した
小樽から汽船に乗り日本海まわりで函館へむかった
船中泊をつづけ 陽の暮れるころに函館に着いた
「未来に楽しき到達点の認めらる々なく
目前に痛き刺激物あり 欲あれども銭なく
望みあれども縁遠し
よし突貫して此の逆境を出でむと決したり」と
露伴は 『突貫紀行』の冒頭で
その心情を吐露している

そもそも 貧しき露伴は
官立の電信学校で給付を受け卒業し
北海道・余市の電信局で技手として
3年の約束で働いていた
そのころ 東京は
明治の新文学のあけぼのまっただなか
坪内逍遥『小説神髄』 『当世書生気質』などの
先駆的な作品を読んで 北の片田舎に埋もれる露伴は
居ても立っても居られず
職を投げだし東京に逃げ帰ったのだ
函館の港ちかくに宿をとった露伴は
街並みも道路も美しく 商家もにぎわい
大町・末広町界隈は
東京にも劣るべからず と
さらに湯の川温泉の高級旅館に骨をやすめ
湯につかるなど
読書三昧と散歩の日々

函館での10日あまりは
開港場の先進性にふれ
にぎわいの函館にひかれたのだろう
だが 函館での長逗留は
貧乏な文学青年の財布をひどく軽くした

そして 青森行の連絡船に乗り
東北を野宿しながら歩きつづけ
郡山から汽車に乗り
東京にたどり着いた
幸田露伴は明治から昭和にかけて活躍し
文化勲章を受章した文豪で
『五重塔』『風流仏』などの
名作を残している
