【教育】アクティブラーニングはどこまで必要なのか―講義中心授業との最適な関係を考える
はじめに
授業の話になると、「最近はアクティブラーニングが主流らしい」「昔ながらの板書中心の授業はもう古いのではないか」といった言葉が、半ば決まり文句のように語られることがあります。けれども、実際の教室をのぞいてみると、黒板の前で説明を続ける教員の姿も、机を寄せ合って話し合う子どもたちの姿も、どちらも当たり前のように存在しています。現場は、単純な「新旧の対立」では語りきれない複雑さを抱えています。
アクティブラーニングという言葉が広まってから、授業のあり方をめぐる議論は熱を帯びましたが、その熱量に比べて、具体的な「落としどころ」はまだ十分に共有されているとは言いがたいところがあります。講義中心の授業は本当に時代遅れなのか。アクティブラーニングはどこまで必要なのか。制度と現場の両方を視野に入れながら、この問いをあらためて考えてみたいと思います。
1.アクティブラーニングという概念の射程
アクティブラーニングという言葉は、平成29年(2017)の学習指導要領改訂の議論の中で一気に注目を集めました。「主体的・対話的で深い学び」という表現とともに、研修資料や行政文書に頻繁に登場するようになり、学校現場でも「これからはアクティブラーニングの時代だ」といった空気が生まれました。ただ、この言葉が持つ本来の射程は、しばしば誤解されています。
もともとアクティブラーニングは、学習者が能動的に学ぶ状態を指す概念であって、特定の授業形式を意味するものではありません。20世紀の教育学者デューイは、経験を通じて学ぶことの重要性を説きましたが、その際にも「教員は不要だ」とは言っていません。むしろ、適切な環境や課題を用意し、学習者の思考を方向づける存在として教員を位置づけています。日本でも、戦後の教育改革の中で「自ら学ぶ力」が繰り返し語られてきましたが、その前提として、基礎的な知識や概念をきちんと教えることの重要性は否定されていませんでした。
ところが、制度として導入される過程で、アクティブラーニングは「話し合い活動」「グループワーク」とほぼ同義のものとして扱われるようになりました。授業の一部に話し合いを入れれば、それだけでアクティブラーニングを実践したことになるかのような誤解が広がり、形式が目的化する現象が生じました。教員の側にも、「何か活動を入れなければ評価されないのではないか」という不安が生まれ、授業の設計が本来の目的から離れてしまうことがあります。
制度側がアクティブラーニングを重視した背景には、社会の変化があります。OECDの学習到達度調査では、単なる知識量だけでなく、知識を活用して課題を解決する力が問われるようになりました。日本の子どもたちは基礎的な読解力や計算力では高い水準にありますが、文章を批判的に読み解いたり、複数の情報を組み合わせて判断したりする場面では、必ずしも優位とは言えない結果も示されています。こうした状況を踏まえ、文部科学省は「知識の習得」と「思考力・判断力・表現力」の両立を掲げ、その一つの手段としてアクティブラーニングを位置づけました。
ただし、ここで重要なのは、アクティブラーニングが「知識の習得」と対立するものではないという点です。知識がなければ、そもそも深い議論は成立しません。制度文書でも、本来は「知識・技能の確実な習得」を前提としたうえで、その活用を重視するという構図が示されています。それにもかかわらず、現場では「教え込む授業はよくない」「教員が話しすぎてはいけない」といった極端な解釈が生まれることがあります。概念の射程と現場の受け止め方の間に、少なからぬギャップがあると言わざるをえません。
2.講義中心授業の役割と限界
では、講義中心の授業はどう位置づけるべきでしょうか。黒板に向かって板書をしながら説明を進める、いわゆる「チョークアンドトーク」は、長い年月をかけて洗練されてきた方法です。特に、概念の導入や体系的な知識の整理において、講義は非常に効率的です。例えば、政治・経済の授業で「津地鎮祭事件」と「愛媛玉ぐし料訴訟」の判決違いを扱う場合、教員が憲法第20条の信教の自由や憲法第89条の公の財産の利用制限についての定義を示し、判例の位置づけを整理しながら説明することで、学習者は短時間で全体像をつかむことができます。こうした内容を、いきなり話し合い活動だけで理解させるのは現実的ではありません。
講義には、誤解を防ぐという重要な役割もあります。歴史の授業で昭和20年(1945)の終戦を扱うとき、事実関係を曖昧なまま議論を始めれば、誤った理解が固定されてしまう危険があります。まずはポツダム宣言受諾までの経緯や国内の政治状況を整理し、そのうえで「なぜこの時期に終戦が決断されたのか」という問いを立てる方が、議論は深まりやすくなります。教員が一定の枠組みを提示することは、学習者の思考を支える土台になります。
一方で、講義中心の授業には弱点もあります。板書を写すことが目的化し、学習者が受け身のまま時間だけが過ぎてしまう授業は、残念ながら少なくありません。教員の側も、説明に集中するあまり、教室全体の反応を十分に見る余裕を失ってしまうことがあります。理解が追いついていない学習者がいても、そのまま授業が進んでしまうことは、どの学校でも起こりうることです。
ここで鍵になるのが、「講義」と「一方通行」を同一視しないことです。講義形式であっても、途中で発問を挟み、短い時間で隣同士で考えを共有させるだけで、授業の様子は大きく変わります。例えば、「いま説明した2つの概念の違いを、自分の言葉でノートに書いてみてください」と指示し、その後数人に発表させるだけでも、学習者は自分の理解を点検することができます。形式としては講義であっても、学習者の側に「考える時間」が組み込まれていれば、それは十分に能動的な学びと言えます。
講義中心の授業を評価するときに必要なのは、「教員がどれだけ話したか」ではなく、「学習者がどれだけ理解し、どれだけ考えたか」という視点です。教員が長く話していても、学習者が頭を働かせていれば、その授業は意味を持ちます。逆に、話し合い活動が多くても、内容が薄く、学習者が何となく時間を過ごしているだけであれば、アクティブラーニングとは呼べません。講義中心の授業は、その強みと限界を踏まえたうえで、あらためて位置づけ直す必要があります。
3.「適正比率」をめぐる現実的な視点
アクティブラーニングをどの程度取り入れるべきかという問いは、現場でよく聞かれます。「毎時間入れなければならないのか」「どのくらいの時間を割くのが適切なのか」といった悩みは、教員にとって切実です。ただ、この問いに一律の答えを与えることはできません。授業は、教科の特性、単元の構造、学習者の状況によって大きく変わるからです。
教科の特性から見てみると、数学や物理、倫理のように、抽象的な概念と論理の積み上げが中心となる分野では、講義の比重が高くなるのは自然です。新しい定理や概念を導入する場面では、教員が筋道を立てて説明し、学習者がそれを追いかける時間が必要になります。そのうえで、例題を解く場面や、複数の解法を比較する場面で、ペアでの相談や短時間の話し合いを挟むと、理解が深まりやすくなります。
一方、国語や日本史・世界史では、テキストの解釈や価値観の違いを扱う場面が多く、話し合い活動が有効に機能しやすい側面があります。例えば、ある判決文を読んだうえで、「この裁判所の判断をどう評価するか」を少人数で議論させると、同じ文章を読んでいても受け止め方が異なることに気づきます。その違いを通じて、自分の考えを言語化する力が養われます。ただし、ここでも前提として、判決の事案や法的な論点について、一定の説明がなされていることが必要です。
単元の構造も重要です。導入段階では講義が中心となり、基礎的な知識や枠組みを共有することが優先されます。理解が進んできた段階で、事例の適用や比較を行うためにアクティブラーニングを挿入する方が、学習者の負担は軽くなります。例えば、地方自治法の学習で、まず地方公共団体の種類や議会と首長の関係を講義で整理し、その後に実際の条例案を題材に「この規定はどのような権限に基づいているのか」を考えさせるといった構成が考えられます。
学習者の状況も無視できません。知識が十分に定着していない段階で話し合いを行っても、発言が表面的になり、時間だけが過ぎてしまうことがあります。逆に、ある程度の知識が身についている学級では、短時間の話し合いでも内容が深まりやすくなります。したがって、アクティブラーニングの「適正比率」は、教科書のページ数や授業時数だけでは決められず、その学級の実態を踏まえて調整するほかありません。
こうして見ていくと、「講義7割、アクティブラーニング3割」といった単純な目安は、あまり意味を持ちません。むしろ、「この単元のこの場面では、どの手法が最も目的にかなうか」を一つひとつ検討する姿勢の方が重要です。授業の設計は、比率の問題ではなく、構成の問題として捉えるべきでしょう。アクティブラーニングは、授業全体を塗り替える魔法の道具ではなく、必要な場面で使うための一つの選択肢にすぎません。
4.制度が現場を支えるための条件
アクティブラーニングをめぐる議論がこじれる背景には、制度と現場の関係があります。教育政策が方向性を示すこと自体は必要ですが、その示し方を誤ると、現場に過度な負担や誤解を生むことになります。制度が現場を「縛る」のではなく、「支える」ためには、いくつかの条件があるように思われます。
第一に、制度は「形式」ではなく「目的」を前面に出すべきです。授業改善の目的は、学習者の理解を深めることであり、特定の手法を広めることではありません。講義中心の授業であっても、学習者が能動的に考え、理解を深めているのであれば、それは制度の目指す方向と矛盾しません。逆に、話し合い活動を取り入れていても、学習者が何となく時間を過ごしているだけであれば、目的は達成されていません。「アクティブラーニングを実施したかどうか」ではなく、「学びの質がどう変わったか」を問う視点が必要です。
第二に、数値目標の扱いには慎重さが求められます。アクティブラーニングの実施割合をパーセンテージで示すような指標は、一見わかりやすいのですが、現場にとっては「ノルマ」として受け止められがちです。授業は、その場の状況に応じて柔軟に変化するものであり、あらかじめ決められた比率に合わせて設計するものではありません。制度側が比率を評価項目に含めないことは、現場の裁量を確保するうえで重要なメッセージになります。
第三に、教員の負担への配慮が欠かせません。アクティブラーニングは、教材研究や準備に時間がかかることが多く、過度な要求は教員の疲弊につながります。すでに、教員の長時間勤務が社会問題として取り上げられている状況を考えれば、「新しいことをやれ」と言うだけでは現場は動きません。短時間の発問や簡単なペアワークのように、負担の少ない工夫もアクティブラーニングとして認める姿勢を示すことが、現実的な支援になります。
第四に、学習者の多様性を前提とした柔軟な指針が必要です。議論が自然に深まる学級もあれば、発言そのものに不安を抱える学級もあります。一律に「話し合いを増やせ」と求めるのではなく、「その学級にとって無理のない形で能動的な学びを実現する」ことを認める方が、結果として制度の理念に近づきます。学校教育法第30条が「児童の心身の発達に応じて」教育を行うことを求めているように、授業の形もまた、画一ではなく、実態に即したものであるべきです。
制度が現場に対してできることは、「こうしなさい」と細かく指示することではなく、「この方向を目指してほしい」と大枠を示しつつ、その中での工夫を信頼することです。アクティブラーニングをめぐる議論は、制度と現場の信頼関係のあり方を映し出す鏡でもあります。
おわりに
教室の風景は、時代とともに変わっていきます。黒板とチョークが当たり前だった時代から、電子黒板やタブレット端末が並ぶ時代へと移り変わる中で、授業の形もまた変化を求められています。それでも、変わらないものがあります。教えるべき内容があり、それを受け取る学び手がいて、その間をどうつなぐかを考え続ける営みです。
アクティブラーニングか、講義中心かという二者択一の問いに、決定的な答えはありません。むしろ、その問い自体を少し脇に置き、「この教室で、この子どもたちに、いま何が必要か」を考えることの方が、ずっと実りある作業なのだと思います。制度の言葉に振り回されすぎず、しかし無視するのでもなく、その間で現場なりの答えを探っていく。その積み重ねの先に、ようやく「最適な関係」が見えてくるのではないでしょうか。
