豊かさから不安へ(後)
訳者コメント:
現代人はなぜ不安に突き動かされて生きているのでしょうか。生存競争という世界観の根底には何があるのでしょうか。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
(前半から続く)
原始社会の残忍さをめぐる論争は、少なくともルソーの「高潔な野蛮人」とホッブズの「不快で野蛮で短命」な自然状態の対立にまで遡り、今も続いています。この問いは人類学者に委ねますが、一つだけ明らかなことがあります。死は、人間によるものであれ自然によるものであれ、原始的な時代には生の一部として非常によく見えていました。現在では、死と不快は以前ほど人目に触れませんが、それらを私たちが克服したわけではありません。ただ隠しただけです。もしかすると、仮にホッブズが正しかったとしても、そこから私たちが上昇したというのは錯覚かもしれません。
現在の私たちの視点からでさえ、自然も残酷になることがあります。カエルになることさえ叶わず魚に貪り食われてしまう何百万のオタマジャクシはどうでしょう? ほとんどの動物には天敵がいます。天敵をもたない頂点の肉食獣と巨大草食獣は、自分なりの不確かさと向き合う必要があります。〈テクノロジーの計画〉があっても、人の一生はあらゆるレベルで本質的に不確実なものです。でもどういうわけか、他の動物たちは不安に苛まれているように見えません。動物たちは毛繕いし、遊び、ただゴロゴロして長時間を過ごします。鳥たちは本当に相手を見つけ縄張りを作るためのさえずりで全ての時間を過ごす必要があるのでしょうか? 忙しさの典型であるミツバチでさえ、巣の中で明らかに何もすることなく多くの時間を過ごします[35]。
絶え間ない不安の不自然さは私たちの生理にも刻み込まれていて、交感神経系とストレスホルモンの絶え間ない刺激に対処するようには設計されていません。私たちは、全般的な余暇と弛緩が緊急時の爆発的な活動によってときどき中断されるという状況に対応するよう進化しました。消化、体組織形成、免疫といった多くの生理機能は、弛緩という条件の下でしか働きません。私たちが普通だと思っているストレスは、このような機能を妨害し健康を損ないます。
不安が実際には人間存在のデフォルト状態ではないという最後の兆候は、確かに原始的ではないものの西洋の社会的モデルに不完全ながら組み込まれたような現在の文化の中では、比較的に不安がないことに現れています。どこでも第三世界諸国へ行ってみれば、あからさまな戦争や激しい内乱が無いとき、人々は概してアメリカ人よりのんびりしていて、不安が少なく、急き立てられず、競争しないのが分かります。古い冗談にあるように、メキシコではあらゆる事は明日にするのです。台湾では、近代の波が急速に押し寄せたため、携帯電話とファストフードの若者文化と肩を並べるように、古い農耕社会が年長者の中に今もあって、かつて存在したゆっくりしたペースの生活の痕跡を今でも見ることができます。旧正月は今では5日とか3日の休日になってしまいましたが、昔は2週間も続きました。他の祭も長いもので、衣装や食事の準備に長期間を要しましたが、今では店で買うだけです。そして毎日、長い昼寝の時間が一日の労働時間を2つに区切っていました。台湾でも世界のどこでも、一国の中でより伝統的な地域(たとえばアメリカ南部)での生活のペースは、ずっとゆっくりしていて、プレッシャーが少なく、余暇が多いものです。これを過去へと延長すれば、不安ではなくこのような状態が人間存在の実際の「デフォルト状態」を表していると推測できるかもしれません。南米の狩猟採集民の勤労態度についての次の記述を見て下さい。
ヤーガン族は、彼らがしばしば働くヨーロッパ人農夫や雇用者には大変残念なことだが、毎日連続で重労働することはできない。彼らの仕事はのらりくらりとしたもので、たまに努力する時しばらくの間は大変な精力を発生することができる。しかしその後、彼らは計り知れないほど長い休みを欲し、その間ずっと疲労の色を滲ませることもなく何もせず寝転がっている…。明らかなのは、このような不規則の繰り返しがヨーロッパ人雇用者を絶望させるが、このインディアンは他にどうしようもないということだ。これが彼らの天性の気質なのだ。[36]
この文章の人種差別的な解釈は、これが私たちの天性の気質でもあるという秘かな疑いを認めれば、簡単に修正できます。「彼らの仕事はのらりくらりとしたもの…」というのは、子供にも当てはまるのではありませんか? これを読んでいるあなた、本当に疲れているのでなくても時々「休みたい」と感じるのではありませんか? 私たちの実際の行動が「天性の気質」と矛盾するということが、この文明の同化作用の強さを証明しています。私たちはそんなふうに生きる余裕はないと思い込まされているので、自分自身と子供たちに「天性の気質」を押し殺して頑張るよう条件付けます。テクノロジーが自然を改善しようとするのと同じように、文化は人間の本性を改善しようとします。
石器時代の豊かさを否定するのはイデオロギーとして必要なことで、そうしないと上昇という神話は基礎が無くなってしまいます。自然状態についての「不快で野蛮で短命」というホッブズの見方は、〈テクノロジーの計画〉全体を動機づけ正当化します。それは進歩という神話と上昇というイデオロギーの暗黙の前提です。それは、石器時代の豊かさを肯定する文明反対陣営の多くの人々が、テクノロジーと文化を延々と続く大失敗、堕落、下降だと見る理由でもあります。しかし別の見方も可能です。もしかすると私たちが膨大な時間をかけて蓄積してきたテクノロジーと文化には、苦痛の最少化とも完全なコントロールとも違う、全く別の目的があって、それを私たちはまだ認識していないのです。
昔の生活は生き残るための不安に支配された苦闘だったと私たちが思い込んでいるのには別の理由があって、それは私たち自身の体験を過去へと投影しているからです。スティーブン・ビューナーが指摘するように、もし原始の状態に突然放り込まれたら、私たちは誰でも非常な不安を覚え、生き残るために苦闘しなければならないのは確かだからです。でもこの投影にはもっと深い側面があります。不安が原始人の生活を支配していたと私たちが信じるのは、不安が〈私たちの〉生活を支配しているからです。生活が生き残るための苦闘だと感じているのは彼らではなく、〈私たち〉です。
私たちの経済パラダイムのことを考えてみましょう。原始社会では協力が規範だったのに対し、私たちの社会では競争です。あなたの取り分が増えれば私の分は減る。自分の縄張りを確保し自分の利益を守らなければならない。教育さえも良い評価を得るための競争に基づいています。(そしてそれが暗黙のうちに関連付けられるのは、その後の人生での成功、つまり生き残りです。)私たちの存在論と経済学の両方が、私たちを互いに競争させ、したがって不安を生じさせます。しかし、私たちの生活で不安が果たす力強い役割を見る最も良い方法は個人のレベルにあり、人生に関わる重要な決断を左右する感情と考慮を詳しく観察することです。
ペンシルベニア州立大学で新学期が来るたびに、私は学生たちへのアンケートで次の文を完成するよう求めます。「私がペンシルベニア州立大学に入ったのは__(a)学位を取って良い仕事に就くため、(b)親の希望だし親をがっかりさせたくなかったから、(c)理由は無いが、高校の次に大学があるから、(d)私の知識欲を満足できる場所がここだから。」何度学期が変わっても、コンスタントに70〜90%の学生が「a」を選びます。「b」と「c」は回答の5〜10%なのが普通ですが、「d」は平均で2〜5%です。別の言葉でいえば、ほとんどの学生がペンシルベニア州立大学に入った理由は、ここに来る必要があるから、つまり学位を取るため、つまり安定した仕事に就くため、つまりお金のため、それは生きていくための必需品、つまり衣食住を得るために、ここに来る必要があると感じているからです。私は学生たちにこう言います。「別の言葉でいえば、君たちがこのペンシルベニア州立大学に入ったのは、少なくとも大部分、生存の不安が理由なんだよ。ほら、いい天気だよ! 午後はフリスビーをして遊ばないか? 友だちと遊びに行かないか? 旧本館の芝生でギターを弾かないか? 授業と研究が本当に大好きで我が身を引き離すことさえできないからなの? ほら、若いんだから。世界を旅しないか?」その理由は、「そうする余裕がない」と感じているから、現実的ではない、経済的安定を達成する能力に影響が出ると感じているからです。これでさえ、辺り一面に満ちた恐れと罪の意識が、余暇のひとときの訪れるたび頭をもたげるのを、単に理性で捉えているだけなのです。私が学生たちに出した宿題は、家に帰って15分、絶対に何もしないで過ごすというものでした。ある学生はこう書きました。「ほとんど丸々15分、私が考えることができたのは、この間にどんな仕事を済ませられただろうかということでした。」これが典型的な反応です。
私たちの文化があまりにも強くお金を生存と結び付けるので、「余裕がない」という反復句が、人生に関わる大小さまざまな決断の根底にある、生存の不安を垣間見せてくれます。「余裕がない」というのが購入と関係する文脈に限らないのは確かです。それが指し示すのは、あらゆる命の金銭化です。金銭化された人間活動の領域が拡大すると、欠乏と競争を誘発する貨幣制度から生じる不安の蔓延も拡大します。余裕があるかどうかに基づいて選ぶことは、欠乏の立場から選ぶことです。第4章で説明しますが、利子に基礎をおく貨幣の仕組みによって、決して十分な取り分を得られないのが確実になります。
その理由は、私たちの生活の中で不安がこれほど強い力なので、それを原始的な生活に投影し、それもまた不安に突き動かされていたのだと思い込むからです。
私たちは自分の不安を生物学にも投影し、それを主として生存と繁殖という命令に突き動かされた競争だと見ます。不安理論は本質的にはダーウィン主義を人間のテクノロジーの発達に適用して言い直したものです。あらゆる生命体の遺伝子は、生存への脅威を打ち消すためにできることは何でもするようプログラムするでしょうし、そうしなかった遺伝子が全て遺伝子プールから退場するのは確かです。不安はこのようなプログラムの一つです(そしてもう一つは恐怖です)。テクノロジーの進歩は、したがってダーウィン主義の生存衝動の表現と見ることができます。
経済学と同じように、生物学も個別ばらばらの主体、つまり「遺伝子」を中心に位置づけますが、それは生存と繁殖の手段である自己の利益を最大化するよう行動します。私たちの生物学(つまり生命)と、特に生物学における進歩(つまり進化)の観念そのものが、生存競争という土台の上に立っています。私たちが人間の生活と人間の進歩を同じ観点で見るのも不思議はありません。現代生活の大部分を規定する不安は、生きているとはどういうことか、人間であるとはどういうことかという、私たちの観念に組み込まれています。
生存闘争という生命観はダーウィン主義よりずっと深いレベルで私たちの世界観に織り込まれています。じっさい、私たちの指導的な科学パラダイムはそれ以外のものを認めることができません。自己とは、環境や他の存在とは別物で切り離された独立の存在だという、私たちの文化がもつ観念そのものの中に、競争は暗に含まれています。この観念はデカルトによって完全に発達した形に達し、彼は自己を分離した自覚意識の場、物質的現実とは切り離された非物質的な魂であるとしましたが、フランシス・ベーコンは科学における客観性、つまり実在の現実から観察者は独立であるという理想を宣言しました。科学の基礎には分断が必然的に伴います。自己の定義(より一般的には、生命体の定義)が排他的で個別的なものなら、その結果としてどんな相互依存性も条件付きであり原理的には排除可能です。これが「自立性」とか「安全保証」といわれるもので、他者に依存しない態度です。生き物が生まれながら互いに競い合うよう定められているのは、私の取り分が増えればあなたの分が減るからです。
もう一つ私たちの基本的な科学イデオロギーに一致するダーウィン主義の重要な特徴は、無目的性と無作為性で、これが不安のもう一つの源となっています。ダーウィン主義は、生命の秩序と自発性を機械的で決定論的な(古典)物理学の法則と一致させる勇猛果敢な企てを象徴しています。ダーウィン主義の最も雄弁な擁護者の一人、リチャード・ドーキンスはこう書いています。「我々が見ている宇宙が示す特徴は、根本的には設計も目的も善悪もなく、盲目的で冷酷な無関心の他には何もないとしたときに期待される特徴と、正確に一致している。」[37]
あらゆる物は原子[38]と真空でできているという、宇宙の古典的な理解は、より深いレベルの不安を引き起こしますが、先のドーキンスの引用を読んでそれを感じたのではないかと思います。これは、ロバート・レノブルを引用すると、私たちも宇宙の他の物質と全く同じように原子と真空でできているという認識から生じる「現代人の不安」です。もしかすると私たち自身を定義する無作為で個別ばらばらという存在のあり方の下に隠れているのは、実存的な[つまり自己存在の根幹に関わる]ある種のパニックで、もしかすると根本的な意味で、私たちは存在しないのかもしれないという疑念です。もう一つここにあるのは、冷たく決定論的で非個性的な物理法則からの人間精神の疎外で、何か本質的なものが抜け落ちているという感覚です。
ジークムント・フロイトの言葉としてよく引用されるのが、「精神分析学の目標は悲惨な神経症を普通の不幸に変えることだ」というものです。実際これは誤った引用であり文脈を無視したものですが[39]、しぶとく誤引用され続けるという事実そのものが指し示すのは、私たちの現在の世界観の中で本当の幸せを見つけられないことです。目的の無さ、空虚さ、意味の無さという悲惨な状態から私たちが目を反らすことはできても、それらはすぐそこで私たちを待っているのです。
不安と退屈は、多くの源流が合流した共通の一点から流れ出しています。テクノロジーは私たちをお互いから切り離し、自然から切り離し、自分自身から切り離し、分断という内なる傷を負わせます。第二に、他の存在と環境から根本的に切り離された個別ばらばらの存在という自己の定義は、私たちの精神的孤独の一因となります。第三に、科学の大系から分かつことのできない競争という世界観は、生命の織物に不安を織り込み、それを生存競争に変えてしまいます。最後に、宇宙は最も根本的なレベルでは無個性な力に従って相互作用する原子の素粒子からできているという信念は、実存的な不安を作り出し、私たちが直感的に感じるような、生きていて魂をもつ世界と自己存在から私たちを遠ざけます。
私たちの社会が競争と不安を基にしている理由の一部は、これらが宇宙の基本的理解に暗黙のうちに含まれていることにあります。不安によって裏打ちされるのではない新たな心理を作り、そして集団的には新たな社会を築くために必要とされるのは、したがって、自己と生命についての新たな観念であり、科学と宇宙についての新たな観念です。西洋文化の洪水に飲まれて急速に消滅しつつある他の社会では、現在の私たちには当たり前になっているような、そこら中に充満する不安が際立って少なかったのです。その社会システムは協力に基づいたもので、そこでの自己の定義は私たちのように原子論的ではなく相対主義的だったのも偶然ではありません。相対主義的な自己は、家族や村や自然のような、より大きな全体との関係性の中に定義されます。
本書の主な目的は、生命と自己についての別の観念を確立させることです。それは科学と心理学の両方の論法に基づいていて、そこから別の種類の社会が自然に育つかもしれません。私たちの基本的な存在論と自己定義が変われば、それに伴って他の全てが変化します。変化はどのように起きるのでしょう? 変化して何になるのでしょう? これらの問いに答えるため、次の章で私は分断の上昇がそもそもどのように始まったのかを、私たちが「テクノロジー」と呼ぶものが始まるずっと前まで遡って論じます。私たちが決別した状態を知ることで、私たちが実現しようとしている状態をより良く見通せるかもしれません。分断の力学を歴史的な変化として理解することで、その変化を成し遂げて人間発達の新たな段階へと成長する方法をより良く知ることができるかもしれません。
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注:
[35] 私は家の外にある蜂の巣を見ながら過ごした。10〜15匹の蜂が(実際には狩蜂でしたが)巣の外の「玄関先」に集まっているのが普通だった。ときおり蜂たちは這い回ったり、触角をふれ合わせたり、身づくろいしたりするが、ほとんどの時間は本当に全く何もせず、触角を振り動かすかじっとしている。もちろん、そんな時も蜂たちは環境のデータを集めているのかもしれないが、それはストレスに誘発された努力ではない。私たちは突き動かされる必要はない。ただそこにいるだけで、私たちは世界に生きることができる。
[36] マルティン・グシンデ [Gusinde, Martin.] 『The Yamana(ヤマーナ)』, Human Relations Area Files, 1961. p.27, cited by Sahlins, p. 28.
[37]マイケル・シャーマー[Michael Shermer]による引用, Scientific American, February 2002, p. 35.
[38]「原子」という言葉で私が意味するのは、目に見えない分割不可能な最小単位で、この場合は素粒子のことです。原子の最新版は「ひも理論」でいう振動する糸でしょう。
[39] フロイトの『ヒステリー研究』(1895年)は次の段落で締めくくられる。「私が患者にカタルシス療法での援助や改善を約束したとき、しばしば直面したのがこのような反論だった。『私の病がおそらく私の境遇と結びついていると、なぜあなた自身が言うのか。私の境遇を変えることなどあなたにはできない。どうやって私を助けると提案するのか?』すると私はこのような返事ができる。『疑いもなく、私がするよりあなたの病を自分で緩和するほうが簡単だと分かるよう、あなたは運命づけられている。だがもしあなたのヒステリーによる惨状を普通の不幸に変えられたら、あなたは得るものが大きいと自分を納得させることができるようになる。精神生活の健康を回復したら、あなたは不幸に対してより良い備えができることになる。』」
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-1-05/

