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社会の資本(後)

訳者コメント:
文明はあらゆる資本をお金に換えてしまいます。人間関係は「社会の資本」ですが、その中心にあるのが子育てと愛の営み。それが商品化されていく過程を分析します。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半から続く

何百万年にもわたって人々が自分でやってきたことの一つに、自分の子供を世話することがありますが、それは最も親密な友人や親族にのみ託される神聖な責務です。私の「いい商売のアイデア」によれば、子育ては絶好のビジネスチャンスです。〈規模の経済〉を活かした専門家ならもっと効率的にできるのに、なぜ自分でやるのでしょう? 実際、保育もここ数十年で大きく成長した産業の一つで、かつては最も親密な営みでしたが、今では職業サービスの領域です。誰かが給料をもらって、あなたの子供と関係を持つのです。私の教え子の一人はデイケアセンターでの彼女の仕事についてこう説明しました。「親たちの中には、朝8時に子供を置いて仕事に行き、夜8時に迎えに来る人もいました。昼食と夕食を食べさせ、おむつを替え、絵本を読み聞かせ、小さな傷があれば痛みを和らげ、トイレのしつけをして…。この子たちを育てているのは私たちであって、親ではありません。」確かにこれは極端な例ですが、子育ては、少なくともその多くの側面は、有給の仕事となる傾向が広まっています。結局のところ、専門家が専用の施設で大勢の幼児を一度に世話する方が、それぞれの親が自分でやるより経済的には効率が良いのです。

話を先へ進める前に、親たちを責めてはいけないということを理解していただきたいと思います。彼らは怠け者でも思いやりが無いわけでもなく、金銭化された生活の隅々にまで効率化の必要性が行き渡ったことの犠牲者にすぎないのです。生活の金銭化によって、昔ながらの持ちつ持たれつの網の目のような関係が消滅し、生活はお金に依存するようになります。母親たちの多くは(有給の)労働力に加わるしかなくなります。これに郊外の物理的・社会的な孤立、特に大家族の分断が加われば、専業主婦の日常生活は孤独で疲れきったものになりかねません。私は数年間、専業主夫をしていたのでよく分かります。

子育ての後半もまた見知らぬ人の仕事です。私たちは学校や教師、そして教育制度の全体にお金を払ってやってもらいます。食糧や娯楽などの生産と同じように、使わない能力はやがて萎縮していきます。私たちは子育ての能力にますます自信が持てなくなり、専門家やプロを頼るようになりますが、それを拒否するなら、あらゆる法的・官僚的な仕組みが寄ってたかって強制しようとします。例えば、子供にとって自由と制限の適切なバランスはどんなものでしょうか? 私の家のそばの緑地帯を親の監視なしで歩き回ってもいいのでしょうか? こういった問題に対する知恵は、家族、地域社会、習慣、伝統という本来の基盤を離れ、専門家のものとなりました。今では、膨大な数の書籍、カウンセラー、ソーシャルワーカー、心理学者、小児科医、教師、法的規制が、その指針を提供します。そのようなものの集合体がプロとして私たちの子育てを担っているのです。

もう一方、人生の終末期には、高齢者や病人の世話もまた、家族や地域社会による無給の働きから専門的なサービスへと変化してきました。でも家族を責めてはいけません。この現象は、現代社会における他の多くの傾向と互いに関連しているからです。地域社会の解体に伴って遠く離れた地に住むようになったこと、生活の金銭化により共働きを強いられるようになったこと、老齢期が医療の管理下に置かれるようになり医療がプロの手に委ねられるようになったこと、さらには高齢者の一般的な健康状態の低下により何十年にもわたって扶養を受けるようになったことなどが挙げられます。

ある日、6歳になる息子のマシューが私に尋ねました。「有名になるのと、お金と、愛と、どれを選ぶ?」もちろんお金と答えました…というのは冗談です。私はこう説明しました。愛は決して売り物ではないよ。金持ちの人たちは、自分のことを好きになってくれるのはお金のためだけで、本当に自分のことを好きじゃないのではないかと心配することがあるのだよ、と。そして、愛とは何かということを考えたとき、私はゾッとしました。愛を実行に移した一つの形は、単に誰かの世話をすること、肉体的な面で相手を助け養うことで、例えばマッサージ療法士や薬草医が私を助けてくれるようなことです。彼らは私の痛みを和らげ、傷を癒してくれます。その対価として私はお金を払うのです。誤解しないでほしいのですが、彼らのどちらも特にお金目当ての人ではなく、癒しや愛情、思いやりや養育にお金を請求するしか選択の余地を与えない、あるいは、あたかも選択の余地がないかのように見せているのは、私たちの生きている社会の方です。すでに述べたように、他の人々を養い、衣服を着せ、保護するという原初的な愛の表現も、職業的なサービスになってしまいました。そう、愛そのものが商品なのです。その実際の感情ではないとしても、少なくともその表現の多くの面が売り物なのです。

子供のために保育園を選ぶとき、「愛情に満ちた雰囲気づくり」をしているかどうかを考えるでしょうか? そういう園なら高いお金を払うでしょうか? 愛も職務明細書の一部であるべきなのでしょうか? 「お客様を大切にします」と宣伝している企業はどうでしょう? 従業員たちは、あなたと話をしたいという熱意に満ちて電話に出ます。スーパーのレジ係は「良い一日を」と声をかけてくれます。このような思いやりの表現はすべてインチキだということが、私たちには分かります。私たちにできるのは、せいぜい見せかけの気づかいを取り繕うことぐらいです。同じように、商品化されたサービスは、それが取って代わる個人的な関係とは違って、人を養う本物の関係では有りえません。

その結果生まれるのが、ほぼどこにでも存在する孤独とインチキっぽさで、それは私たちがほとんど気付かないほどにまで蔓延しています。生きる力を与える重要な役割を果たす人々が、お金をもらえるからやっているだけだとしたら、いったい何を期待できるでしょう? 多くの文化で、他人のために食べ物を用意することは親密な行為と考えられていました。誰かを肉体的なレベルで世話ケアするのは親密なことであり、太古の昔から家族や友情や共同体の基盤となってきました。これらの役割が売り渡されてしまった今、それがつちかっていた関係は空洞となりました。現代経済が伝統的な「家庭経済」に取って代わったところなら、どこでも離婚が増加するのは不思議でもなく、エミール・デュルケムの言葉を借りれば、家族の領域は単なる「感情の解放と愛情の共有」へと落とし込まれるのです[6]。

私たちは文字通り、ケアしない(どうなろうと気にしない)世界に生きているのです。電話会社は、録音されたメッセージがどうであれ、実際には顧客であるあなたのことなど気にかけていません。スーパーマーケットの店員は、あなたが「良い一日を」過ごしているかどうかなんて実は気にしていません。あなたを知りもしないのに、どうしてそんなことができるでしょう? セルフレジのプログラマーは、画面のメッセージがどうであれ、実際にはあなたに対して感謝の気持ちなど抱いていません。ウェイターはあなたたちが「いかがお過ごし」なのかに興味はありません。これらは全て、第2章で述べた至る所に存在する嘘のマトリックスの一部であって、私たちがお金に換えたものが何なのかをまざまざと暴き出します。私たちが売り渡してしまったのは、本物の人間関係です。

人間関係の金銭化をセックス抜きに語ることはできませんが、性の商品化はほとんど決まり文句のように広く非難されています。売春は氷山の一角でしかなく、同じくらい重要なのが、商品を売るために性的な連想を利用することで、まるで性そのものを売り物にしているかのようです。ポルノもまた、最も神聖な人間同士の交流を商品におとしめたものです。まさに「貶める」という他ないでしょう。性的な感覚や性的な関係は、個別ばらばらの自己という牢獄を超越する鍵になり得るからであり、新たな命を生み出す手段でもあるからです。それ以上に神聖なことを、私は思い浮かべることができません。しかし、広告とポルノのイメージが示唆するのはその逆で、セックスとは、胸と尻、勃つ、寝る、逝くという問題に過ぎないのだと示唆します。

セックスを言うとき非常によく使われる「持つ(have)」と「得る(get)」という比喩は、セックスがいかに商品化されているかを物語っています[訳註]。どうして私たちは普通、「セックスを与える(give)」とか「セックスを分かち合う(share)」という言い方をしないのでしょうか? 明らかな金銭取引がない場合でさえ、損失と利益という疑似経済的な概念がセックスに関する私たちの文化的思考に浸透しています。それは避けられないことであり、個別の存在という自己定義に書き込まれています。しかし、その最も深い精神的な働きが、まさにこの分断を強いる境界を溶かすことにあるが故に、性愛は、他のどんな関係にもまして、商品化されることによって衰退し堕落するのです。全く同じ理由で、セックスは巨大な破壊力を持っています。そこにある自己の分かち合いは、私たちが生きる分断の世界の根幹を爆破するものであり、それに伴う喜びは、分断の束縛を解き放ったときに待ち受ける恍惚エクスタシーを暗示します。おそらくそれが理由で、抑圧的な政治体制は往々にして性的奔放さに対し強い敵意を示すのです。それはジョージ・オーウェルが全体主義の重要な特徴として挙げた抑圧の一形態です。私たちの社会は、セックスの爆発的な革命の可能性を打ち消すために、もっと陰湿な別の方法をとっていて、その超越的な核心を取り除こうとします。あとに残った抜け殻は、文脈にもよりますが、取るに足らない快楽、生物学的活動、粗野な動物性、卑猥な誘惑、あるいは恐ろしいタブーです。いずれもセックスの神聖な次元を尊重するものではありません。古代の道教とタントラの修行は、神聖なセックスこそ宇宙の両極を超越するための入り口に他ならないと考えていました。私たちの全てを消費する個別化という遊びの背後にある、真の一体性と繋がり直すための試金石となる可能性があるにもかかわらず、私たちが錯覚する分断というベールを突き通す秘密の窓となる可能性があるにもかかわらず、聖なる性は「ファック」へと落とし込まれてしまったのです。

もちろん、私たちがそれをどう見せかけようとしても、セックスはそれ以上のものです。それが単なる商品だという文化的な見せかけにもかかわらず、魂を打ち砕き命を生み出す可能性は、依然として残っています。この妄想の結果は? 失恋、心の傷、罪悪感、レイプ、中絶、裏切りの感覚。これらが生じるのは、生命が与えてくれるものよりも限りなく劣ったものを私たちが「買ってしまった」と心の底では分かっているからです。それ故に、行きずりのセックスは精神的に空虚で感情的に満たされないものだということを、ほぼ誰もが認めるのです。でも、同じことは非人格化された誰でもいい人間関係なら何でも当てはまります。

ありがたいことに、私たちの文化が性を手なずけようとする試みが完全に成功したことはなく、セックスは、自己という最も堅固な要塞を打ち砕き、最も秩序だった生活、最も厳格に管理された人格を突き崩すことのできる強大な力として残っています。大学時代、私と男子のチーム仲間はセックスについて「持つ(have)」や「得る(get)」という想像の限り最も粗野な言葉を使って話しましたが、これはほとんど見せかけでした。若さから性愛に突進して得たものは、何よりも衝撃的でした。ガールフレンドと二人きりになると、話は全く別でした。上辺では軽そうにしている私たちでも、性愛のもつ身を引き裂くような、解放するような、打ち砕くような力が魂の扉を開こうとするのに、あらがうことはできませんでした。当時のガールフレンドの誰かがこれを読んでいるでしょうか? もしそうなら、たとえ私が絶望的な悪党に見えたとしても、私の魂の奥深くにあった見えない鍵を、あなたの愛が回していたことを、知ってほしいのです。あなたの心の傷はけっして無駄ではありませんでした。あなたが私にくれたのは、私が将来、心を開くのに必要なものだったのです。

ふつう、分断の最果てを探るのは私たち男性の方です。迷宮に落ちたテセウスのように、〈女性〉が命綱を与えてくれることがなければ、私たちは永遠に迷宮をさまようことになるでしょう。もちろん、このような男性原理と女性原理は私たち全員の中に存在していて、男と女それぞれの中に陰と陽の両方があります。私たちの中にある女性原理、つまり論理的というより直感的で、分析的というより有機的なものが、私たちを分断の旅から全体性ホールネスへと連れ戻してくれるのです。

したがって、私たちの社会が「上昇」した末にたどり着いた現在の分断の極限は、陰陽の不均衡であり、それを反映したのが家父長制の宗教と家父長制の社会です。古代中国人が理解していたように、陽の極みは陰の芽生えでもあります。分断がもたらした危機が一点に集結するときにのみ、〈再合一の時代〉が始まるのです。あまり明るい話ではありませんが、中国医学では「亡陽ぼうよう」(陽の崩壊)と呼ばれる症状もあって、不均衡な状態が長く続いて体内の資源が枯渇し、均衡の回復過程を維持するだけの力の元がなくなってしまうと起きます。そうなってしまうと、すべての介入は無意味です。手遅れです。患者は死を迎えます。

文明にとっての亡陽ぼうようとは、ついに私たちが危機の根源に気づいたとき、それに対して何もできないほど弱ってしまっていることを意味します。いま私たちはまだその時点に到達していません。私たち全員のために美しい世界を創造するだけの社会資源と自然資源がまだ存在しています。しかし私たちは社会、自然、文化、そして魂の資本を加速度的に枯渇させ続けています。それを使い果たし、自分たちの置かれた状況の緊急性に目覚めたとき、ようやくはっきりと見えるようになった美しい世界を創造する力がもう無いと気づくまで、あとどれくらいの時間が残っているのでしょうか?


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注:
[6] チャールズ・シーゲル [Charles Siegel] による引用, The End of Economic Growth, The Preservation Institute, 1998.

[訳註] haveとgetを使うセックスの英語表現には、have sex(セックスをする)、get hard(固くなる=勃起する)、get laid(寝る、ベッドに押し倒す)、get off(絶頂に達する)などがある。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-04/

2008 Charles Eisenstein

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