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現実を落とし込む(後)

訳者コメント:
 物質的理解に落とし込み数値化できるもの以外を排除する科学は、感情、信念、思想、知覚、意識、夢、精神、詩、芸術、愛、美、神性など、要するに人間を人間たらしめているもの全てをを「現実には存在しない」ものとして排除してしまいます。宗教は根本的に科学と相性が悪いのですが、現世とは別の天国を想定することで科学に寄り添ってきました。そうしなければニヒリズムに陥るしかないからです。しかしその矛盾を抑えきれなくなると、福音派キリスト教のように聖書の教えに反する科学を拒否するようになります。
 チャールズの提示する世界観は、人類がこれまで築いてきた科学的知識を否定せずに、宇宙の神性を回復する、(私のような理系頭にも納得できる)新たなスピリチュアリズムともいえるようなものです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


前半から続く

何かを宇宙の他の部分から切り離して本当に理解できるものでしょうか? 400年前に現れた科学という文化は「可能だ」と言います。私たちは現実の組織性を解体することによって現実を探求します。断片を分離し、変数を排除し、外部の影響を遮断するのです。こうして昆虫学者は死んだ「標本」を研究室に持ち帰り、地質学者はサンプルを持ち帰り、生理学者は死体を解剖し、化学者は世界の混沌とした不純物を取り除き精製された物質を求めるのです。このような方法にはそれなりの使い道があります。それらは確かに、少なくとも表面的には、私たちが400年前に知っていたものとは大きく異なる世界を作り上げました。しかしそのような方法は、関係性の中にしか存在しないもの、つまり、全体を分解して部分部分を切り離すと存在しなくなってしまうものを、理解することができません。関係性の中にしか存在しないもの、部分ではなく全体の特性であるものとは、いったい何でしょう? いくつか例を挙げてみると、意識、魂、神聖さ、生命、美、自我、神性、愛、真実、感情、目的、超越、意志など、要するに人間を人間たらしめているもの全てです。しかし人間を分解してみると、そのどれも存在しません。そこで〈科学革命〉の追随者たちが下した結論は、そのようなものは「実際には」存在しないということでした。このような特性が、マンフォードの言葉を借りれば「質量、エネルギー、運動の偶然の副産物ではなく、同じシステムの本源的な構成要素である」という可能性を、彼らは認めることができないのです[17]。

数段落前に使った「冷厳な現実」という言葉について考えてみてください。そしてこの言葉が今でもいかに自然に口をついて出てくるか気付いてください。これがガリレオの遺産で、私たちがどのような性質を本物だと考え、どのような性質を本物ではないと考えるかを明らかにするものだからです。科学的にはとっくの昔に時代遅れになりましたが、現実がほとんど無限に小さく固いマスの集合体であるという概念は、私たちの比喩や直感の中に生き続けています。

宇宙を理解することで人間の領域に取り込もうとする試みは、しばしば比喩メタファーによって進められます。私たちは人間が造り出した物を世界全体に投影します。これを避けることは不可能で、私たちが言葉を使うことでさえ、言葉を物事に結びつけてしまいます。〈科学革命〉の進展とともにヨーロッパを支配し始めたテクノロジーが、その思想家たちに最強の比喩を提供したのも偶然ではありません。それは機械です。ニュートンの宇宙と同じように、機械は分解することによって理解できるものです。ニュートンの宇宙と同じように、機械もまた無個性で交換可能な有限の部品で構成されています。ニュートンの宇宙と同じように、機械もまた創造主の設計に従って決定論的に動いています。ガリレオやデカルト以降の科学の先駆者たちが、「宇宙は巨大な機械だ」と常に口にしていたのも不思議ではありません。

もっと悪いものがあります。あなたは何もしない機械を思い浮かべることができますか? 機能することだけが目的で、それを正確かつ確実に実行するだけの機械は? 全ての機械はそのためにありますが、この機械はそのためだけにあります。それは、永遠で規則正しいけれど無意味な動き、繰り返される日常の縮図です。私が言っている機械とは、もちろん時計のことです。時計仕掛けの宇宙が何を意味するのか考えてみましょう。〈時計職人としての神〉という観念が意味するものを考えてみましょう。宇宙と、その中で生きる私たちは、無意味に時を刻み続けているのです。(時計に支配された社会に生きる私たちが、ただ時間を刻んでいるだけのように感じることが多いのも、不思議ではありません。)

ガリレオとその同時代の人々は、当時の巧妙な〈からくり芝居〉から大きな着想を得ましたが、それは時計仕掛けで場面全体が動くものでした。生き物をこの時計仕掛けの似姿になぞらえることで、彼らは生命に時計の性質そのものを押し付けたのです。自動で、予め決められた通りに、機械的に動くのです。それは生命などではなく、見せかけの生命です。私たちが暮らす社会を生み出したのも時計仕掛けという観念で、それと強く結びついているテクノロジー自体が、時計の規則性、正確性、自動性を体現しています。そのような社会が提供する人生もまた、見せかけの人生でしかありません。何が現実かというガリレオの観念は、現実から主観的な内実をすべて奪い去り、寂しい抜け殻のような世界に私たちを閉じ込め、そこで繰り返される空虚な日常は、居場所の無さを埋め合わせることができません。

〈宇宙は機械である〉という考え方は、ありそうもない味方を有神論的宗教の中に見出します。機械とは知性によって目的のために設計されたものです。機械という比喩は本質的に目的論的です。その比喩の動機となっている決定論が、そのような目的性をはっきり否定していることを考えると、何とも皮肉なことです。さらに、マンフォードはこう言います。「人間を『神の手により作られた機械』とすることで、彼(デカルト)は、機械を設計し作ることのできる者たちを暗黙のうちに神々に変えてしまった[18]。」生命を機械とする比喩は、人間を神に変えてしまうのです。空を飛ぶ、天候をコントロールする、永遠の若さなどのオリンポスのような力を、私たちが図々しく熱望するのも無理はありません。地球を核兵器で破壊する力など、これらのいくつかを私たちは達成しましたが、その他は永遠に地平線の彼方にあります。傲慢さには代償が付き物だということを私たちは知っていますが、宇宙を征服し神に取って代わろうと熱望する中で、私たちは想像を絶するほどにまで自分自身を膨張させてしまいました。最終的な代償が、私たちの傲慢さの程度から予想するものより低い総額になることを祈りましょう。

ここにもうひとつの大きな皮肉があります。宇宙を数値化し、現実を数学に落とし込むことで、全ての存在が人間の領域に入りましたが、それは同時に人間を人間たらしめているもの全てを現実から排除することにもなりました。生命の最も重要な部分は二次的なものとなり、力と運動、化学と電気に落とし込まれ、あるいはその存在を完全に否定されました。私は、何か別の要素が人間に感情や意識、知覚を吹き込んでいる、つまり非物質的な魂が電気化学的・物理的な混合物に追加されているとは言っていません。そうではなく、私が問題にしているのは何が第一なのかということです。ガリレオの一次的・二次的性質の区別はイデオロギーにすぎません。私たちは、運動や力や伸びを二次的なものと呼ぶこともできるでしょうし、これらは人間の資質を発揮する方法に過ぎないと言うこともできるでしょう。物質は単なる媒介であって、それが実現する最も重要なものこそ、感情、信念、思想、知覚、意識、夢、魂、詩、芸術、愛、美、神性なのだと、私たちは言うこともできるでしょう。

これらすべてを非現実的だとする教義は、何という怪物的な教義でしょうか。それが生み出した文明は、何という怪物的な文明でしょうか。人間が織り上げる体験そのものを明確に否定するような宗教、つまり科学を、どうして私たちは作り上げてしまったのでしょうか? そのことに驚き、愕然としてほしいのです。この教義が暗黙のうちに含んでいるのは、人間を人間たらしめているもの全ての価値を切り下げ、人間をからくり仕掛けの地位に落とし込むことです。それは私たちから生命そのものを奪う教義です。この強奪の大胆さが分かりますか? あなたの感情は頂くぞ。結局それは、ホルモン、血流、ニューロンが単に構成したものにすぎないのだ。あなたの認識は頂くぞ。結局それは、物質の吸収スペクトルなどの特性が神経を通り抜けた結果にすぎないのだ。あなたの神聖さ、詩、芸術は頂くぞ。あなたを力と理性の冷たく厳しい世界へと追放してやる。

もし私が還元主義の教義が心理に及ぼす影響を誇張したとしても、それほど大げさに言ったわけではありません。その証拠は私たちの周りの至る所にあります。私たちの社会を動かしているものは何でしょう? この世界を回しているのは何でしょう? 世界をどんどん数字に落とし込むための単位となるのは何でしょう? その答は、もちろんお金です。ガリレオが確信していたのは、現実にあるものは全て数字で記述できるということでしたが、それは現在私たちが生きている世界で実際の形となり、そこではほぼ全てのものに価値、つまり値札がついていて、そこに住む人間は「合理的な自己利益」に従って行動します。お金とは、私たちの合理的な自己利益が何なのかを決定するための計算単位です。それは、私たちが放り込まれた「力と理性の冷厳な世界」を示す単位です。(そして最も本物のお金とは何でしょうか? それは冷厳なお金、現金です。)現実的な人は、「数字を見て」、物事の「計算が合う」かどうかを確かめようとします。

世界はひっくり返ってしまいました。抽象化の究極である数字は、私たちの主観的体験にもまさる現実的なものとなりました。そのことをピラハ族に説明してみてください! でも集団として、私たちはあたかもそれが真実であるかのように振る舞っています。例えば経済学で、物や活動は金銭と交換されない限り「財」や「サービス」とさえ見なされません。無償で贈られたものはカウントされません。前の文を読み直してください。カウントされないのです。ここでもまた私たちの言葉に体現されているのは、私が疑問を呈している前提そのものです。何かが「数えられる」なら、それは現実なのです。

隅々まで普及する貨幣経済と、その成長を促す根本的な原動力については、第4章で説明します。それを読みながら、過去数世紀にわたって進行してきた生命の金銭化が、かつては主観的だった領域を科学が徐々に征服してきた過程といかに類似しているかに気づいていただきたいと思います。

確かに、ガリレオが人間の主観的な考えを存在論的に排除したことの影響は、哲学をはるかに超えて広がっています。それが生み出す(あるいは少なくとも強化する)疎外感は、私たちの文明がこれまで成し遂げてきた全てのものから、心を蝕み消し去ってしまいます。人間の追放は、機械化され非人間化される過程で、まだ人間が行っている仕事でさえ、人間の労働が機械に完全に取って代わられることで、具体的な形となって現れ、最後には多くの形の人間関係がどんどん商品化されていきます。概念的にも実際的にも、科学とテクノロジーは機械の特質を有機的な生命へと押し広げてきました。

逆説的ですが、確実性とコントロールを約束する機械論、還元主義、決定論という同じ原理が、無力感と戸惑いで私たちを苦しめます。それは、私たち自身もニュートン的な宇宙の中を運動する質量の一つだと考えると、私たちもまた盲目的で非人間的な力に翻弄され、人生の軌道は完全に決定されてしまうからです。私たちが〈科学革命〉から受け継いだイデオロギーでは、自由意志は他の全ての二次的性質と同じように単なる構築物であり、統計的な近似値であって、根本的には実在しないのです。

意味、神聖さ、自由意志を取り戻すには、宇宙の決定論的法則から自己を切り離すという二元論がどうやら必要なようですが、この支離滅裂な解決策は結局のところ私たちをますます疎外してしまいます。しかし、別の選択肢はさらに悪いものです。それはニヒリズムという実存主義の空虚で、この哲学が20世紀初頭の〈ニュートン的な世界マシーン〉の絶頂期に生まれたのも偶然ではありません。この世界観は私たちの直感と論理に深く浸透しているため、二元論的に物質と切り離されていない自己を想像することもできず、かといって心や魂の属性が単なる付帯現象にすぎない決定論的からくり仕掛けでもない自己を思い浮かべることもできません。20世紀以前、科学が我々に提示した選択肢はこれら以外ありませんでしたが、その暗い選択は、靴擦れを起こす縫い目のように今も私たちの心に残り、20世紀の科学がもたらした影響を私たちが最終的に消化する日が来るまで、実存的な不安を生み続けるでしょう。

この選択は、科学と宗教が明らかに相容れないことを反映しています。科学の「決定論的からくり仕掛け」を直感的に否定する福音派キリスト教の友人たちは、科学の大部分を信じないことを選択し、聖書の天地創造の物語と矛盾する物理学、生物学、考古学、古生物学、地質学、天文学を全て拒否します。その一方で科学志向の人々は、人生の目的、意義、運命といった直感を否定するという、同じく好ましからざる立場を取ります。無神論者を自称する人たちに私がしばしば感じるのは切なさで、魂や神、目的、意義があるのを願うかのように、「そうだったら良いのにね!」と。しかし残念ながら冷静な理性はそうではないと判断するのです。時に彼らは独善的な態度で、「私なら無慈悲な真実に対処できるが、あなたはおとぎ話で自分を慰めることが必要だ」と言って、この切なさや喪失感を覆い隠すことがあります。また、わざと冷笑的で、反射的に嘲笑する人もいます。このような反応の根底にある怒りや悲しみのような感情は、先に述べた怪物的な強奪から生じています。繰り返しますが、この強奪は天国から神を追い出すことではありません。それは世界から神性を奪い取ることです。宗教のように神を天国に隔離するのであれ、科学のように神を根絶するのであれ、どちらでも大した違いはありません。

本書の目的のひとつは、科学が発見した驚異を否定するのではなく、そこから強みを引き出す有機的な神性の概念を確立することです。これと関連するのが、複雑な関係性から立ち現れる創発的特性としての自己の有機的概念で、それはこの世をただ通り過ぎるだけの、この世とは無縁な魂などではなく、肉体という牢獄の中から世界を観察しているに過ぎない一点の意識でもなく、さりとて、生存と繁殖のために遺伝子でプログラムされた魂のない生物学的機械でもありません。私たちが次に目を向けるのは、近代的な自己意識の科学的な起源です。


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注:
[17] マンフォード [Mumford,] ***
[18] 同, ***


原文リンク:http://ascentofhumanity.com/full-text/chapter-3-05/

2008 Charles Eisenstein


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