分断から退屈へ
訳者コメント:
「退屈」「面白い」という概念は産業革命とともに発明された! エンターテインメントとは自分をゲームや映画の世界に差し出すこと! 英語の動詞句で何かとhaveを使うのも、所有欲を通じて心の隙間を埋めようとしていることの現れか?
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
1.4 分断から退屈へ
人類の上昇には代償が伴いましたが、ここで私が言おうとしているのは、単に生態系と人類文明の基盤を破壊したことだけではありません。私たちの分断に煽られた上昇は、戦争や産業や生態系破壊の犠牲者のような敗者だけでなく、その勝者にも犠牲を強いました。それはありとあらゆる代償の中で最も高いもので、私たちの存在そのものから現れ出ます。私たちが外側に築いたもの全てのために、私たちの魂が損なわれたのです。
これまでテクノロジーを使ってやってきたことですが、私たち自身を自然から切り離し、相互依存関係を「安全安心」に取り替え、信頼をコントロールに置き換えると、私たち自身の一部からも自分を切り離すことになります。私たち自身の内と外にある自然は、生きていく上で不可欠だが無償で利用できる他者などではなく、分かつことのできない自分の一部です。自然を切り離そうとすることで生まれる傷は、腕や脚をもぎ取るにも劣らぬほど深刻なものです。本当はもっと深刻です。個別ばらばらの自己という妄想の中にいると、人間関係とは私たちが最も深いレベルで何者かということとは無関係のものだと考え、単に別々の個人どうしの付き合いだと見ます。でも実際は、私たちが他の人々や他の命と結ぶ関係こそ私たちが何者であるかを定義するのであって、こういった関係性を貧しいものにすることで私たちは自分自身を貶めます。私たちは関係性そのものなのです。
「相互依存」という言葉には条件付きの関係性という含みがありますが、ここでいう自己と他者の不分離を言うには全く弱すぎる言葉です。私の主張はもっと強いものです。自己は絶対でも個別でもなく付帯的なものであり、関係性によって定義され、その境界線はぼやけています。他者と結ぶ関係がなければ自己は存在しません。経済人、合理的行為者、デカルトの「我あり」は、私たちを自分自身の人格の大半から切り離す妄想であって、それが私たちを孤独で小さな存在へと貶めます。
スティーブン・ビューナーはこれを分断がもたらす「内なる傷」と呼びます。それが私たちの自己定義そのものに織り込まれているので、避けたところで一時的な気晴らしでしかなく、その間も自分の中で膿み続け、意識の中へ吹き出す時を待っています。分断の傷が現れる形は様々です。些細だがしつこく続く不満は、解消してもすぐに別の同じような小さい不満に形を変え、不機嫌の踏み車の中を延々と走り続けます。絶望という深刻な萎縮病は、まったく文字通りに魂を萎縮させ消耗させます。
あらゆる媒体を通して、内なる傷からの痛みは百万通りの形で姿を現します。至る所にある孤独、理由のない悲しみ、行き場のない怒り、絶えることのない不満、逆巻く恨み。その本当の源に気付くことがなければ、それを私たちは何か別の対象へと移し替え、外の世界にある何か別の欠点に転嫁します。次にその媒体を抑えつけることで痛みを未然に防ごうとします。人生を管理下に置くのです。個人版の〈テクノロジーの計画〉で私たちが幸せと同一視するのは、危険や汚れや不快から可能な限り縁を切ることです。でももちろん、この絶縁は私たちと世界との絆をもっと深く断ち切るので、痛みの本当の源である分断を悪化させます。
こんな諺があります。「世界を革で覆うことはない、ただ靴を履け。」世界を自分の思い通りにするため技術で操作しても幸せは見つからない、というのはスピリチュアルの決まり文句です。このような幸せは束の間のもので、消える運命にあります。でも私たちは文化としても個人としても、大半の時間はそのように振る舞います。いつの日か、あらゆる物事は完璧になって、私たちはのんびり幸せな暮らしを永遠に送ることができるようになる。
完全なコントロールという個人的・集団的な〈テクノロジーの計画〉が無益だという疑いようもない実例は、退屈という現象の中あります。退屈が私たちに示すのは、〈テクノロジーの計画〉が上手くいったときの人間のありようです。あらゆる物事が管理下にあるとき、個人に降りかかる差し迫った災難が何もないときの、人間の基底状態、デフォルト状態とは何なのでしょう? 私たちに何もやることがなく、私たちを必要としている仕事もなく、私たちがここにただ座っていたら、いったい何が起きるのでしょう?
退屈は私たちの文化、特に若者の間に特有のもので、それを人間存在のほぼ普遍的なデフォルト状態と想定するほどです。外部の刺激がないと私たちは退屈します。でも、ジアウッディン・サルダールが見るように、退屈は西洋文化(とその延長としてますます支配的になるグローバル文化)に固有のものと言ってもいいくらいです。彼はこう書いています。「ベドウィンは砂漠に何時間でも座っていられる。時のさざ波を感じながら、全く飽きることなく。」[19]
私たちが退屈と呼ぶ感覚、意識を満たすものが何も無いという不快感はどこから来るのでしょう? 退屈、つまり何もすることのないのが耐え難いのは、分断の傷と真正面から向き合わされるからです。退屈、つまり刺激と気晴らし、暇つぶしのネタを切望するというのは、痛みを否定しようとするコントロールの計画の中で、私たちがどんな休止時間もまさにそのように体験するということなのです。痛みの原因を無視しようと言っているのではありません。痛みは「それをするな」と伝える使者で、私たちはその忠告を聞き入れます。でも、傷を負わされその痛みが現実になったときでさえ、痛みを感じるのをまだ何とか避けられると思うなら、私たちはそのままどんどん進むのです。中国仏教の諺にこうあります。「菩提薩埵は原因を避けるが、凡夫は結果を避けようとする。」
明らかなのは、退屈という言葉が1760年ごろに発明されるまで、そんな概念さえ無かったことで、そのとき一緒にできた言葉が「面白い」でした[20]。それ以後ずっと高まり続けてきた退屈という潮流は産業革命の進歩と時を同じくして進み、それが最近まで〈西洋〉だけに見られる現象だった理由をほのめかしています。工場制度が作り出した現実は大量生産された現実でした。規格化された製品、規格化された役割、規格化された仕事、規格化された生活という無個性な現実でした。私たちがその人工的な現実の中に生きれば生きるほど、自然とコミュニティーという本来魅力的な領域から切り離されました。現在、慣れ親しんだパターンで、私たちはさらにテクノロジーを働かせ、テクノロジーの世界に浸った結果である退屈を軽減しようとします。それは私たちが「エンターテインメント」(娯楽)と呼ぶものです。この言葉について考えたことはありますか? 客人を〈エンターテイン〉する(もてなす)といえば、その人をあなたの家に迎え入れることですし、ある思想を〈エンターテイン〉するといえば、その思想をあなたの心に受け入れることです。逆に〈エンターテイン〉されるといえば、テレビやゲームや映画の中に取り込まれることです。それが意味するのは、あなたが自己と現実世界から引き離されることです。テレビ番組がこれに成功したとき、その番組を「面白い」と称賛します。エンターテインメントへの渇望が指し示すのは、私たちの現実が貧しくなっていることです。
退屈の原因は全て、分断が作った内なる傷が形を変えたものです。現実が貧しくなっているのに加えて、私たちが何もしていないと居心地の悪さを感じるのは、絶え間ない不安が現代生活を支配しているからです。これはまた、私たちの社会経済的構造の根底にある競争というパラダイムから発していて、(第4章で説明するように)それが私たちの持っている自己という観念に書き込まれているのです。第二に、私たちが絶え間ない刺激と娯楽を求めるのは、それがないと私たちは自分だけの孤独の中に放り出され、分断の傷の痛みから気をそらすものが何もなくなるからです。最後に、テクノロジーが退屈の直接の原因である理由は、それが強烈な刺激の集中砲火を絶え間なく私たちに浴びせるので、私たちの脳は高レベルの刺激に慣れてしまうからです。刺激を取り上げられると、私たちは離脱症状に苦しみます。私たちはテクノロジーで作り出した人工的な世界の依存症になっています。いま私たちはその人工的な世界を維持するよう強いられているのです。
私たちの内に未処理の痛みがあって、それが存在を顕示し感じてもらえる空白の時を待っているというのは、テクノロジーの至上命令が快楽と安全安心の最大化と苦痛の回避だというのを考えれば、それほど不思議でもありません。生活をもっと簡単に、安全に、便利に、快適にしようとする衝動は、テクノロジーが始まった時からその動機となってきました。黒曜石を加工するルヴァロワ技法の発明者が最初の矢じりを作ったとき、同時代の人々がそれを競って採り入れたのは、生活を楽にしてくれたからです。「今ではそんなに苦労しなくても矢じりが作れるようになった。」新しい技法は遥かに効率の良いものでした。生活は楽になりました。もっと他の例を引用しましょうか? いま私たちは、どんな些細なものであれ不快感を軽減するために、テクノロジーを利用しようと薬局へ行きます。二日酔いですか?アスピリンをどうぞ。鼻水ですか?風邪薬をどうぞ。気分が落ち込んでいますか?お酒を一杯どうぞ。その根底にある前提は、苦痛を感じる必要は無いというものです。そしてテクノロジーが最終的に成就したとき、痛みと苦しみを永久に根絶する手段が発見されていることでしょう。
快楽を最大化し苦痛を根絶するというのは、〈テクノロジーの計画〉の目標を論理の極限まで推し進めたものです。この目標を極めて純粋な形で明確に表現したのがデビッド・ピアースのいう「ヘドニズム的使命」であり、遺伝子工学や、ナノテクノロジー、神経化学を使って痛みの受容器を無効化し、快楽中枢を刺激するなどによって苦痛を完全に廃絶することを提唱します。この前兆となるのが現在の「幸福薬」ですが、症状の除去あるいは緩和を目指す医療全体にも当てはまります。精神安定剤、特に「選択的」セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)は、精神的苦痛の本当の原因は脳内のセロトニンとノルエピネフリンのレベルが低いからだという前提で使われます。これら神経伝達物質のレベルを引き揚げれば精神的苦痛は消えて無くなる。治療は成功だ!
「苦痛を感じる必要は無い」という前提の根底には、さらに深い前提があります。その一つが切り離しです。セロトニン・レベルの低さは患者の全存在から切り離され、部品の故障した自動車と同じように見られます。この機械論的パラダイムは身体の本質が有機的であることを否定します。有機的な身体では、どんな部分の健康も全体の健康を反映します。セロトニン・レベルが低いのには理由があり、その理由には理由があり、またその理由があり、と患者の全存在を包含するまで広がっていくということを、機械論的パラダイムは否定します。
切り離しに関連する前提がさらにあって、私たちの住む宇宙には命も目的も無いというものです。出来事が起きるのは本質的に無作為で、一つ一つの出来事を重要で正しいものとするよう調整している目的などというものは無い。鬱がより高い目的に役立つなどということが無いのは、より高い目的などというものは存在せず、特定できる機械論的な理由以外に理由は無く、したがってこの経路が塞がれたなら痛みが別の形で戻ってくると予期する理由も無いからだ。現実はどこまでも操作可能だ。
しかし、もしテクノロジーが(個人的・集団的なレベルの両方で)苦痛を根絶するのではなく先送りする手段だと見るなら、どんな空白の時間にも苦痛が私たちを待ち構えているのは当然です。もし苦痛を先送りする努力そのものが新たな苦痛を作り出すならなおさらです。以前のテクノロジーが作った新たな問題とは、薬剤そのものの作った症状です。
目的を持ち繋がった宇宙で、痛みを抑えるのは、水圧が高すぎるのに水道管の水漏れを塞ごうとするようなものです。水漏れを一つ直せば別の場所から吹き出すのは確実です。その一方で水圧は上がり続けます。文明の装置が次々と水漏れを吹き出すのは、広がるひび割れを私たちが躍起になって塞ごうとするからです。
ユダヤ・キリスト・イスラム教の文脈では、神との分離、アダムとイブの堕落が、あらゆる苦悩の源とされます。仏教では執着を苦の原因としますが、注意深く見れば分かるように、その教義は西洋神秘宗教のものとほとんど同じです。移ろいゆく無常なものへの執着、妄想に満ちた自我とそれを強化するあらゆるものへの執着が、本当は私たちと不可分である宇宙の他の部分からの分断を維持します。執着は分断です。神との分離については、私たちのバラバラの自己を超越し全存在に浸透するのでなければ、〈神〉とはいったい何なのでしょう? 苦しみの源について、東洋宗教と西洋(神秘)宗教は根本的に一致しています[21]。
人間の日常生活での幸福と安全安心は、家族や、コミュニティー、自然、場所、魂、自己との強い結びつきから来るのであって、心理的であれ経済的であれ「自立」から来るのではありません。テクノロジーの物語は、自然からの分断が広がっていき、(専門化と社会の大規模化の結果として)コミュニティーからの分断が広がっていき、(移動性が高く屋内中心のライフスタイルの結果として)場所からの分断が広がっていき、(ニュートン的な世界マシーンという支配的な科学パラダイムの結果として)魂からの分断が広がっていくという、一編の長大な物語なので、近代を通じて人間の条件という苦痛が一貫して増大してきたのも不思議ではありません。あからさまな身体的な苦難が減少したとしても、孤独や絶望、鬱、不安、懸念、怒りという形の精神的な苦痛が蔓延するようになりました。私たちのテクノロジーが分断の外部的な結果を食い止めることに成功したとしても、それを私たちは傷として、自分の魂からの分断として内部化し続けます。
この傷の本質が現れた兆候として最後に挙げるのは、貪欲という現象です。環境汚染のようなグローバルな問題の源は何だろうかと私の学生たちに問うと、必ず挙がるのが貪欲で、彼らの見るところ、それは人間の本質の根本的な特徴であり、コントロールすることはできても消し去ることは決してできないというのです。でも退屈と同じように、より開かれた自己の観念に基づく狩猟採集文化のほとんどに、貪欲は存在しません。貪欲は空白を埋め分断の痛みを和らげようとするもう一つの試みに過ぎず、まるで所有という形で自己を雪だるま式に増大させれば、自己の深い否定、つまり分断を埋め合わせられるというようです。じつは、所有という比喩を使うことが多いのは、私たちが退屈と呼ぶ存在の不安から気を紛らす方法に対してです。タバコを吸う、お酒を飲む、用事があるというときに使う英単語はhave、つまり所有です。物質的な面で、つまり物を所有することでも、あるいは人間関係でも、さらには「セックスする(have sex)」ことまで、私たちが安全安心を求めて努力するのはhave、つまり所有を通してです。でももちろん、個別ばらばらの自己にどれだけ所有物を付け加えたところで、その自己は宇宙の中で根本的に孤独なままです。
前< コントロールへの依存
目次
次> 豊かさから不安へ
注:
[19] ジアウッディン・サルダール [Sardar, Ziaduddin], 『Cyberspace as the Darker Side of the West(西洋の暗黒面としてのサイバー空間)』. The Cybercultures Reader. Routledge, 2000年, p. 742.
[20] トム・ホジキンソン [Hodgkinson, Tom]. 『A Philosophy of Boredom(退屈の哲学)』, New Statesman, 2005年3月14日. これはラース=フレデリック・スヴェンセン [Svendsen, Lars Fredrick]著『A Philosophy of Boredom』(Reaktion Books, 2005年、John Irons 訳)の書評。
[21] ヒンドゥー教は苦痛の説明という点で仏教に似ている。道教では、苦痛はタオについての無知の結果だと言われ、それはつまり生命の自然の流れに逆らうからである。これも一種の分断である。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-1-04/

