なぜ「私」はOTを研究するのか——誰にも話さなかった理由
この記事を開いてくれた方へ。
まず、貴重な時間を使ってこの記事を選んでくれて、読んでくれて、本当にありがとうございます。
山シリーズを読んでくれた方へ。
この記事では、山を歩く私の、
もう少し深いところを書いてみようと思います。
これまでの記事では話さなかったことを、ここでは書こうと思います。
「誰にも話さなかった」というのは、大げさではありません。
言語化できなかったこと、言語化したくなかったこと、そして言語化する必要がなかったこと。
それらが重なって、ずっと胸の中にありました。
今回はそれを、正直に書きます。
読んでくださったみなさまの、心の支えやきっかけになれれば幸いです。
私という人間の原点

幼少期から、他人の顔色を読んで育ちました。
「いかに『自分を出さず』に『良く』いられるか」
それが、日々の最優先課題でした。
他人の言動パターンを把握して、「この時はこうする」というルーティンを作る。
そうすることで、なんとかうまくやってきた。
誰かのために自分を抑えれば丸く収まる。その場をうまく収めるには自分を抑えた言動をする。
自分の親に対してまでも。
(両親の関わり方というのは大事ですね。いま我が子の子育てに反面教師にしています。)
その副産物として、他人の感情の機微に対して異常なほど敏感になりました。
いい表現ではないかもしれないが——特に他人の不機嫌や怒りに直面したとき、オーラや周囲の色が変わる瞬間を実感することが多い。
それは今も変わっていません。
この感覚は、OTとして対象者の状態を読む力になった部分もあります。
でも同時に、私を深く消耗させる力にもなりました。
新卒・病院・そして崩れていくもの
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